「あゆが走る日」

 ベンチに座っている人影がぱたぱたと手を振っていた。
 遠くからえらく大きな、でもなんだか似合う帽子の影が見える。
 歩み寄ると帽子が文句を言った。
「祐一君、遅いよっ」
「おわっ?!帽子が喋ったっ?!」
「うぐぅ……やっぱり祐一君ってボクのこと嫌い?」
 うめき声を上げる帽子。
「いや、面白い奴だと思うぞ」
「ひどいよっ」
 と、ようやく気づいたらしい。そいつがずり下がった帽子をぐいっと持ち上げる。
 目だけがようやく出ている状態から、なんとか額が見えるくらいにして、あゆは改めてふくれっ面を見せた。
「ボク、帽子じゃないもん」
「月宮・帽子・あゆって改名したらどうだ?ミドルネームなんて外人みたいで格好いいぞ」
「うぐぅ、そんなミドルネームやだ……」
 じわ、と目の端涙。そろそろやめとこう。
「さてと、今日はどこ行く?」
「えーと……」
 考え込んで、あゆはにこっと笑って言った。
「少し遠出したいな」
「うし、じゃつかまれ」
 俺の差し出した手にあゆはつかまって、うんしょ、と立ち上がった。
 その拍子に、あゆの足がもつれる。
「うわっ、うわっ!」
 結局両手で俺の腕につかまって、なんとかあゆは体勢を持ち直した。
「えへへっ」
 照れ笑いするあゆ。
 ……と、あゆがこーゆーふうに難儀しているのにはもちろん、理由があった。

 あゆが意識を取り戻した、とニュースで知ったのは、街に雪が消えかけた頃。
 テレビ局に電話して、病院の名を聞いた俺は慌てて駆けつけたのだが……その日は、あゆには会えなかった。
 怪しまれたわけではない。
 きっぱりと面会謝絶の札に阻まれたのだ。
 その日、主治医からあゆのことを聞いた。
 そもそも病院にかつぎ込まれた段階で、あゆは生きている方が不思議な状態だったらしい。実際俺は死んだと信じて疑わなかったのだし。
 不幸中の幸いは事故が真冬に起きたことだった。天然の冷蔵庫と化したこの地方は、最も危険な脳の発熱を始め、出血など各種の反応を鈍くしていた。それでも、あゆの体の損傷はひどかった。全身の骨折や打撲、内臓破損、そして脳内出血に脊髄損傷……外科的に手は尽くしたものの、今度は7年間に及ぶ昏睡が待っていた。
 で、結論として、あゆは目を開いて意識を取り戻してはいるものの、まだ喋ることも、指一本上げることもできないのだと……そう、言われた。
「何しろ7年間寝たきりだったわけだから、傷は完治している。が、正直神経損傷の影響の度合いはこれから調べるしかない。仮にそちらに機能的な問題がないにしても、寝たきりだったわけだから、今の彼女の手足には手足それ自身を支える筋力があるかどうか、というところだ」
 一ヶ月の間、元気に走り回るあゆを見てきた俺には信じがたい話だったが、それが現実だった。
 面会が許されたのはそれから半月も後のことだったが、医者曰くそれでも奇跡的な快復スピードだったらしい。
 それから2ヶ月の間、俺はあゆとほぼ毎日デート(とあゆは言って譲らない)した。ただし病院の理学療法室で……つまり、リハビリにつきあったわけだ。
 恐れていた神経の損傷の影響はやはり出ていて、その上筋力がまるでないわけだから、あゆのリハビリは凄絶なものだった。顎の筋力もないものだから最初の内は喋るのにも難儀する有様で、それでもときどき唇が
「うぐぅ」
 と動くと、やっぱこいつはあゆだな、とよく分からないことを考えて苦笑したりした。
 時々名雪なんかも来て、「ふぁいとっ、だよ」と相変わらず訳の分からない応援をしたりしていたが、どうやらこうやら2ヶ月で、あゆは自分の足でだましだまし歩けるところまで快復したのだった。もっとも、しびれが残るらしく、ときどきよろける。また、まだ筋力が充分でなく、長時間の運動は禁止されていた。
 そして、今。俺はあゆのリハビリとしての散歩の付き添いをやっている、と言うわけである。
 ゆっくり歩いてやる。そのつもりなのだが、
「祐一君、歩幅広い」
 ときどきこけそうになりながら、追いつけない歩幅に追いつこうと歩いてくる。
 ……今のあゆには、走ることは、出来なかった。

「それで、遠出って、どこまで行きたいんだ?」
「学校」
 と、あゆは言った。
「俺はあゆの通ってた小学校は知らない」
「うぐぅ、違うよっ」
 あゆは涙目で、
「ボク達の学校だよっ」
 と言った。
 というか、そうだろうな、と思ったから、あえてボケを入れたのだ。
 あの日、久しぶりに訪れて、つくづく思った。
 ガキの頃ってのは体力が有り余ってるもんだ、と。
 正直あの切り株にたどり着くまでにかなり息が切れた。毎朝、現役陸上部員の名雪(ちなみに夏の大会で引退らしい)に鍛えられている俺がだ。
 今のあゆだと……行ったはいいが、帰りは俺がおぶって帰らないといかんのではあるまいか。
 黙っている俺の姿に、否定の意志を感じ取ったらしいあゆが、
「……だって、卒業式、してないよ」
 ぽつりと、そう言った。
 そういえばそうだ。
 まだ最高学年でない俺達が、まだ続くはずの明日を信じていた俺達が、卒業式なんて考えもしなかった。
 でも。あゆは、社会的には、まだ小学校すら卒業していない。もうじき通っていた小学校から卒業証書が来るらしいが。
 日は、まだ高かった。
「よし……じゃ、卒業式、やっちまうか」
 あの日の記憶に区切りをつけたかったから。
 俺はそう言って、あゆとともにあの森へ足を向けた。

 切り株にたどり着いたとき、あゆはかなり苦しそうだった。
「うぐぅ、この坂、きつくなってる……」
 はあはあ言いながら、それでもなんとか登り切った。
「……少し、休め」
「うぐぅ……そーする」
 ぽてっと体を切り株にもたせかけて、あゆ。
 顔が赤かった。
「熱、ないよな」
 額に手をやってみるが、病的な発熱なんだか、運動の熱なのか区別が付かない。
「大丈夫……」
 にこっと笑ってみせる。
 10分ほどじっとしていると、どうやら二人とも落ち着いた。
 さわ……と葉擦れの音がする。おもわずはっと体が緊張する。一方あゆは気持ちよさそうに目を細めていた。
「いい風だね……」
 その風でえらい目にあったのは誰だって……。
 当人が気にしていないならいいが。
「ね、卒業式始めよう」
 あゆがこちらを見てそう言った。
「しかし、考えてみると、空調完備テレビ付き、いつ休んでもよくて宿題もない、給食が毎日たい焼き……って学校の卒業式って、どうやりゃいいんだ」
 あゆは俺をじっと見て、
「経験者に任せるよ」
 そう言った。
 言われてみれば俺は二回卒業式を経験した格好になる。……覚えているかというとあれだが。
「まずは……長たらしい校長の挨拶とかがあるんだ」
「校長先生はいないから省略」
 長たらしい、の時点で決めていたらしいあゆが速攻で言う。無論俺にも異論はない。
「となると、いきなし卒業証書の授与だな……なんか書くもの持ってるか?」
「え?祐一君は?」
 心底意外そうなあゆに、俺は諭すように言った。
「遊びに出るときにそんなもん持ち歩くのは作家か変人だ」
「うぐぅ、たとえが極端すぎ」
「さてどうする……」
 考えた俺は、なけりゃないで済ますことに決めた。
「あゆ、そっちに俺と向かい合わせで立て」
「う、うん」
 よたよたと俺が言ったとおりの位置にあゆが立つ。
「よし……卒業証書、月宮あゆ殿」
 いきなりな声にあゆはきょとんとしているようだが、構わず続ける。
「あなたは本校を立派に卒業されましたので、ここに証します。 相沢祐一」
 ぱちぱち、と拍手をおまけに付ける。
「こういう学校だから、こんなのもいいだろ」
 あゆは表情を輝かせて、
「うんっ。じゃ、ボクからもお返し」
 すう、と息を吸い込んで、
「そつぎょーしょーしょ、相沢祐一どの。あなたは本校を立派に卒業して、ボクも卒業させてくれたので、ここに証します。月宮あゆっ」
 ぺこり、とおじぎをした。
 証書、とか言いながら、紙の一枚も残っていないけど。
 消えて行く言葉は、お互いの思い出に閉じこめればいい。
「あとは、送辞とか答辞とかあるんだが……」
「掃除と湯治?」
 頭をひねっているあゆの頭の中でどんな漢字が飛び交っているのか大体分かったので、ちゃうちゃうと手を振る。
「それは在校生がいる場合の話だから、なしだ。じゃ、校歌……もないし、卒業式の定番と行くか」
「なに?」
「俺がとりあえず一回歌うから、二回目お前も着いてこい」
「うん」
 俺は一度深呼吸して、
「ほーたーるの、ひーかーり、まーどーのーゆーきー」
 歌い始めた。仰げば尊しでもいいのだが、この雪の街にはこっちが良い気がする。
「ふーみーよむ、つーきーひ、かーさーねつーつー」
 文読む……どころか、闇に閉ざされていたであろうあゆの月日を思って、すこし詰まる。
「いーつーしか、とーしーも、すーぎーのとをー」
 ……ここの駄洒落、あゆにわかるんだろーか。
「あーけーてぞ、けーさーは、わーかーれゆーくー」
 ほい、とあゆを手で促す。わたわたと慌てた様子ながら、あゆはおずおずと歌い出した。
「ほーたーるの、ひーかーり……」
 雪が溶けて、少しずつ高くなって行く日差しが、葉陰から漏れていた。
 そんな森の中に、俺とあゆ、二人の歌声が響いた。
 最後に、「けーさーは、」とやった後。
「わーかーれ、……」
 と言って、あゆの声が止まった。
「どした、あゆ」
 あゆの体が、震えていた。顔がうつむいている。
「あゆ、どうした!大丈夫か!」
 嫌な予感がして、あゆに駆け寄る。と。
 あゆも、駆け寄ってきた。
 危うくこけそうになったところを、両手を引っ張って助け起こす。その顔が、涙で濡れていた。
「祐一君、『別れ行く』なんてやだよ……」
「あゆ……」
「歌の歌詞でも、そんなのやだよっ……」
 ひく、としゃくりあげる。
「祐一君、ボクの側にいてくれるよねっ?約束してくれたよねっ?」
 俺は……
「当たり前だろ」
 と言って、そっとその顔を引き寄せた。
 たとと、と足を引きずりながら、あゆが目を閉じる。そのまま、静かに、唇を重ねる。
 ふと愛おしさがこみ上げて……俺はそのままあゆの背中に手を回した。
「だめっ!!」
 いきなりあゆは俺を突き飛ばした。あゆ自身は無論、俺も不意のことにしりもちを付く。
「ご、ごめんねっ……でも、ボク、だめだよ……」
 あゆは縮こまってそう言った。
「今のボク、すごくやせっぽちでがりがりで、胸なんかあのときより無いし、それに……傷だらけで……」
 事故の時の手術は、それはもう大手術だったらしい。その時の傷は、あゆの胸にも背中にもはっきり残っているのだそうだ。実際、手足にも、よく見ると縫い目が見て取れる。
「だから……祐一君にはすごく悪いけど……あのときのボクだけ、覚えてて欲しい……」
 かりそめの体で結ばれた夜のことを言っているのだろう。
「……それじゃ、あの日と同じじゃないかよ。ボクのこと忘れて、なんて、悲しいこと言って……あの日と同じだろが」
 俺はじっと……胸の辺りを隠す仕草をするあゆをじっと見つめる。
「あゆが見せてもいいって思える日まで、俺は待ってるからな。俺は、あゆの体の傷、気にしないでいられる自信があるから、いつだっていいぞ」
 あゆはしばらく俺の顔を凝視していたが、ふと顔を赤らめて、
「祐一君、えっち」
 と言った。
「へ?」
 って、よくよく考えたら……俺、かなり恥ずかしいことを言った気がする……。
「あー、いや、その、何もそーゆー事をしたいって意味じゃないからな、決して」
「うぐぅ、そんなにきっぱり否定しなくても……」
「……したいのか、あゆ?流石に屋外はまずいと思うんだが」
「うぐぅ、そーじゃないよっ!!」
 立ち上がってばたばた手を振り回しながら、よろよろと、でもこっちに向かってくるあゆ。
「助けてくれー」
 俺も立ち上がってあゆから逃げる。
「うぐぅ、待ってよーっ」
 ……もう、走ってはいないようだが。
 今日、あゆは7年ぶりに走った。
 いつかあの日々のように、商店街を駆け抜ける日も、来るのだろう。そう、信じることが出来そうな気がした。
「待て。するとひょっとして、俺は又たい焼きを抱えて逃げるあゆと激突せにゃならんのか?」
「うぐぅ、祐一君さりげなくひどいこと言ってるっ!!」
 俺は苦笑しながら、ぐるぐると森の小さな広場を走り回った。

(了)
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 えと。
 大怪我して7年も寝たきりなら当然そーだろ、と言うみもふたもない着想からできあがりました。
 リハビリの期間などはええ加減ですが、少なくともあのエンディングからすると、春の終わりまでには歩いて院外へ出るところまで回復してないといけないだろうな……ということで決めました。実際には短すぎるかも知れませんが、何しろ、奇跡の巡り合わせた二人ですから、大目に見て下さい(これまた身も蓋もない)。
 ではでは。


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