「外科医・水瀬秋子」

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9:05

 ぷるるるる。
 朝食の後かたづけをしていると、電話が鳴った。
 心持ち急ぎ足で台所を出て電話を取る。
「はい、水瀬です」
「先生ですか?夕霧です。404号の患者の様態が急変しまして」
「分かりました。すぐ行きます」
 404号……と言えば、患者は一人しかいない。
 7年前、私が救えなかった少女。
 とりあえず洗い物は名雪にお願いすることにして、短くメモを残し、支度をする。
「……そう言えば、祐一君、昨日から戻っていないわね」
 名雪が今朝半分眠りながらどうやら朝食を食べていたのを思い出す。
 同居人の甥宛のメモも残して、私は雪の街に足を踏み出した。

9:18

 良いタクシーを拾えたのは幸運だった。
 電話から10分で○○記念病院の通用口にたどり着く。
 404号の患者の主治医は、既に私から何人かの医師を経て変わっているので、最新の病態はブリーフィングルームに入るまで分からない。そのことが珍しく私をいらだたせた。
「水瀬先生!」
 婦長の林野さんが私を見て声を上げた。
「遅くなってごめんなさい」
 笑顔を返しておく。表情筋をちょいと緩めるだけの動作だ。造作もない。
「担当は全員ブリーフィングルーム?」
「あと、形成担当の先生が、理学室で事故があったとかで遅れてます」
「……形成術は後でも出来るわ。まだブリーフィングが始まっていないなら、私が着き次第始めてもらわないと」
 私はブリーフィングルームへ急いだ。

9:25

「患者の頭部X線写真、およびMRI画像です」
「脳底部に複数箇所の血栓、増大中の血腫も見られます」
 放射線科医師の説明に私は写真を見つめた。いくつかの侵襲手段が頭の中を駆けめぐり、二つほど残して消える。
「病状の急変は本日午前8時過ぎです。回診中に私が発見しました。緊急に検査を行い、現在集中治療室において術前処置中です」
 担当医が経過を報告した。
「これだけの血腫が育つまでに気が付かなかったの?」
 私の声に、担当医がびくりと体をすくませる。
「……お言葉を返すようですが、先々日の検査では病状の兆候は認められませんでした。昨日深夜から本日早朝に掛けて、急速に病巣が発達したとしか……」
「宇宙人の仕業だとでも言われた方がまだ納得できるわ」
 裏のある話かも知れない。私は……今となってはこの病院に籍を置くとは言え、全くの非常勤なのだから、院内のごたごたなどは正直知らないし、自分たちの生活に関わりないのなら知りたくもない。とりあえず、今だれかの責任をあげつらってもしょうがない。
「脳硬膜内の他に危険な病巣は?」
「自発呼吸、脈ともに範囲内です。さしあたって重大な箇所は認められません」
 私はふとため息をもらした。……らしくない。
「7年前に比べれば仕事としては楽ね」

〜7年前〜

「急患です!」
 その言葉と共に運び込まれた少女を見た時、私は死体の間違いではないか、と不謹慎にも思った。
 奇跡的に体の前面部は損傷がほとんどない。朱に染まった白いリボンが、そしてしんしんと降り積もる雪よりも蒼白な顔色が痛々しい。
「脈拍微弱!呼吸不定!出血によるショックを起こしてます!」
 禅の経品(きんひん)のようにさっさっと歩き回る医師に看護婦。無論私もだ。
「血液を確保!水道並みに供給できるようにして!内部の損傷箇所の特定を急ぎます!」
 背部は……ぐちゃぐちゃだった。これだけのショックを延髄や脊髄に受けて、よく生きていられた……そう思ったとき、私は根拠もなく、この子は助かる、と確信した。
 やがて彼女のデータが出そろった。
「後頭部骨折、浮腫が出てるわね……頸椎も折れてるわ。内臓は……心嚢がタンポナーデを起こしてるわね。肺に2箇所の骨折骨による損傷、脾臓破裂、……卵巣も一つ破裂してる。後は体中の骨と筋と神経がガタガタ……まず中枢神経と心肺機能の回復を優先します。次いで内臓の整復。手足はその後でやります。長丁場になるわよ」
 写真やグラフをぱぱぱ、と指しておおざっぱな術式を指示する。
「水瀬先生、長丁場って……まさか、一回の手術で全身を整復する気ですか?」
「あの創傷では一日おいたらネクローシスが始まるわ。そうなったら切断するしかないでしょ。冬で幸いだったわ……組織の破壊の進行が遅れるから。さ、術式の詳細の打ち合わせに移るわよ」
 私はぽんと手を打って話を進めようとする。その時、一人の若い医師が手を挙げた。
「そんなに急いで、術創が大きく残ったらどうするんですか」
 確か……今年入ったばかりの新米だ。形成科に配属になったらしい。
「命を救うためよ」
「ペイシェントは女の子ですよ。この意味は分かりますよね」
 外科医とて人間である以上肉体と精神の限界がある。いくら長丁場の手術と言ったって、一人の医師が中心になって行う手術では48時間以上は理論的に不可能だ。実際問題として36時間も手術室にいようものなら立っているだけで倒れる。個々の術式の後始末まで丁寧にしている余裕はない。術創を目立たなくするような小技を使っているわけにはいかないのだ。……形成医として、そこがひっかかる、ということなのだろうが。
「患部を冷却してもネクローシスの進行を止められるかは五分五分よ。傷だらけの腕と、目が覚める前はあったはずの腕と、彼女がどちらを望むのかなんて私たちに分かるわけがないわ。一つ言えるのは、切った腕は地下室行きってことだけよ」
 形成医が押し黙ったのを見て、私は各専門外科医師との術式の打ち合わせに入った。妙なもので、私のオペの早さと緻密さはこの業界全体でも多少知れているものらしい。おかげで脳外科から整形外科まで厄介な手術はなんであれお鉢が回ってくる。
(そう言えばこのごろ、名雪と話もろくにしていないわね)
 世の中というのはよくしたもので、この忙しい時に甥の祐一君が遊びに来てくれていた。年も同じだし、多分名雪の相手になってくれているだろう。
 まもなく彼女の手術が始まった。
 とにかくめちゃくちゃだった。
 内臓に負担を掛けないために側臥位(脇の下を下にして寝かせる)で術式を開始したが、脳内の血腫が脳底に及んでおり、急遽背位(うつ伏せ)に切り替え。その後、頸椎の損傷を検査中硬膜に亀裂が見つかり、悪い予感がして切開してみれば靱帯が切れて脊髄がねじれている始末。どうにか整復し、背面正中切開で脊椎をたどる。ここで一旦背部を仮整復して胸部を開き、人工心肺に切り替えて心臓と肺の整復、病巣の摘出。思ったより肺の損傷が小さいのがわずかに希望をくれた。続いて腹部切開、寸断した臓器のネットワークをしゃにむにつなぎ合わせる。そして全身の整復……さすがにここで私も力つきた。とりあえず後は他の医師に任せて手術室を出る。術式開始後28時間を示していた時計を見た途端私の意識が暗転した。
 ──そんな全力を尽くした手術結果が、原因不明の昏睡だった。
「かわいそうに、あゆちゃん」
 一人の看護婦がそう言っているのを聞いた。そういえば、かつぎ込まれたとき氏名年齢不詳だった彼女の名札に、いつの間にか「月宮あゆ」と名前が入っていた。
「知ってるの?」
 そう聞いたら、看護婦の方が怪訝な顔をして言った。
「この間亡くなった月宮さんのお嬢さんじゃないですか。先生が回診されてるときもお見舞いに来たりしてましたよ」
 月宮と聞いて、少なくとも彼女の母親の方は思い出した。
 難しい病気で……外科的にも手の出せない病状だった。親戚に大きな神社があるとかで経理部は喜んでいたが、私にとっては頭の痛い患者だった。救いがあったとすれば、彼女は自分の病状を納得した上で、なお生きようと懸命だったことだ。
「木の上から落ちたらしいんです……親戚筋とも気が合わなかったみたいで、お母さんが死んでからずっとふさぎ込んでて……まさかあゆちゃん、お母さんの所へ行きたいなんて思ったんじゃ」
 ……私は首を振って、少女の手を握った。
「あゆちゃん。もしそんなこと考えて、ずっと寝てるんだったら……そっちへ行っても、お母さんに怒られるわよ」
 やつれた少女の襟元から、赤い傷が覗いていた。
 ほとんど彼女に掛かりきりで過ごした一週間後、診察中にめまいを起こした私は、院長から休暇を取るよう言い渡された。
 ……それ以来、私は難手術の時に呼び出される、用心棒外科医としてこの病院に籍を置いている。

〜現在〜

 9:30

「侵襲手段は……」
 そこで私は言いよどんだ。
 言いよどんでいい局面ではない。
 だが、それは……彼女にとって、残酷な結果をもたらすことになる。
「上顎部から脳底に至る、それしかないんじゃないんですか」
 いつの間にか室内にいた医師がそう言った。
「遅れました。とりあえずそれでいいはずでしょう、続けて下さい」
 そう。彼の言うとおり、この病巣へ脳に傷を付けずに到達したければ、そのルートが最も危険が少ない。
 ただ。上顎部、つまり上顎の裏から正に頭蓋骨の下を切り開いて侵襲するためには……下顎部を一旦切断しなければならない。つまり……彼女の頬を切り裂かなければならないのだ。
 女の子の……顔を。
「……そう、ね。上顎部より脳室下部を切開、脳底に至ります」
「命を救うのが先決、そうですよね、水瀬先生」
 その言葉に、はっと私は思い当たった。
 7年前の……形成科の新人?
「そうですよ水瀬先生。大丈夫、彼の手に掛かればフランケンシュタインも一躍トップモデルに早変わりだ」
 外科部長に太鼓判を押された彼の顔に、自信に満ちた笑みが浮かんでいた。
「……そうだったの」
 表情筋が勝手にゆるむのが分かった。
「あれから色々勉強して修行もしました。彼女の顔は僕が責任持ちます」
「ありがとう。それじゃ、タイムスケジュールの打ち合わせに移りましょう」

9:40

「……実は、今回の事態とは関係ないと思うのですが、ここ一ヶ月患者の様子がどうも妙だったんです」
 手術室に向かう道すがら担当医が私にそう言った。
「関係ないとお思いなら、術式終了後に聞きます」
 相手は脳だ。こっちの脳が余計な疲労を背負い込むわけにはいかない。
「おかしいんですよ。投与した栄養液からは考えられないほど血糖値が上がったり、動いてもいない体が汗をかいたり。看護婦の中には鼻の頭が腫れていたなどという者までいる始末で……特に水瀬先生が風邪を引かれてたあの前後あたりには、血液成分が、まるでその……普通に歩き回って飯でも食べているような有様だったんです。検査部が肝をつぶしてましたよ」
「……」
 関係ない。あの子は関係ない。
「おかしいと思って、ちょうど先生が風邪の連絡を入れてらした日、胃にチューブを入れてみたんです。誰かが考えなしに食べ物を口に入れてでもいたらとんだことですから……そしたらね、呆れたことに雑炊が出てきましてね。ただ、どう見ても患者食の雑炊とは違っていて、全員首をひねったものでしたが……」
「やめて下さい」
 私は彼の話を遮った。……そんな馬鹿な話があってたまるものか。
 手術衣に着替え滅菌を済ませる。そして……無影灯の下の少女の顔を見て、
「……ああ」
 私は声を漏らしていた。
 何を否定していたのだろう。
 何を拒んでいたのだろう。
 7年前、私が救えなかった少女。
 完璧な手術の果てに、暗闇へ残してきた少女。
 私は馬鹿だ。
 彼女はあんなに元気だったじゃない。
 彼女はあんなに楽しそうにはしゃいでいたじゃない。
 私の作るご飯をおいしいと言ってくれて。
 甥のからかいに本気で困って、照れて。
 それが、どうして、この子であっては、いけなかったの?
 私が……この7年間を、悔いていたから?
「あゆちゃん」
 私は彼女に近づきながら、呼びかけた。
 既に麻酔が開始されている彼女が、どうあっても答える道理はない。
「おばさんのご飯、おいしいって言ってくれて、ありがとう」
 もしこの言葉を誰かが聞いていても、何のことだか分からなかっただろう。それでいい。あまりにも信じられない物語。闇の中から懸命にもがいて抜け出ようとした、一人の少女の夢。
「今度会ったら……おみそ汁の作り方、教えてあげるわね」
 だから……今度こそ、帰ってきて。
 私は顔を上げ、言った。
「始めます。……よろしく、お願いします」
 私の戦いが始まる。

〜数週間後〜

 そのニュースを。
 直接知らせてくれなかった病院を、私は多分始めて恨んだ。
 ……病院、と言う組織としては、ただの雇い主に過ぎなかったはずなのだが。

 昼過ぎになって起きてきた甥に、昼食を盛って上げながら、何の気なしに切り出す。
「祐一さん、今朝のニュースで言っていたんですけど、知ってますか?」
「なんですか?」
 やっぱり今まで寝ていたらしい。
「昔、この街に立っていた大きな木のこと」
 少し回り道な所から話を切り出す。
「…え?」
 案の定怪訝な様子で問い返してくる彼。
「昔…その木に登って遊んでいた子供が落ちて…」
「同じような事故が起こるといけないからって、切られたんですけど…」
 私の技術と似たようなものだ。悪いところは切る。ただ……それだけ。
「その時に、木の上から落ちた女の子…」
 彼女が、甥に恋していたことは……端から見てもよく分かったから。
 教えて上げなければフェアではない。
「7年間戻らなかった意識が、今朝戻ったって…」
「その女の子の名前が、たしか…」
 聞きもせずに新聞のテレビ欄の電話番号を確認する彼。
「……????」
 眠そうな目で問いかけてくる名雪に、ただ笑顔だけを返す。
 表情筋のゆるみ、なんていちいち知覚しない日々。
 その7年間を……あの子は、「是(よし)」と、言ってくれたのだろうか。
「今度家に来たら、たい焼きごちそうして上げなくちゃね」
 今日意識が戻ったと言うだけで、気が早いとは思ったけれど。
 顔を輝かせる名雪の顔と、リダイヤルを繰り返す甥の姿を見て、たい焼き機を買っておこうと、私は決めていた。

(了)

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 えー、これもかなりえーかげんな話で……
 Keyさんの掲示板で、秋子さんの謎の職業について、医師説が盛り上がってたので、とりあえず「有森冴子」で行ってみようという短絡発想です。
 そのわりにどこが有森だとゆーできではありますけど……とにかく医学的にはむちゃくちゃ書いてるとは思いますが、ご指摘があれば直したいです。ただその結果、このSSが成立しなくなるほどのボケがあったら……静かに闇に消えていることでしょう(;;)
 ではまーそーゆーことで。


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