5.夢幻のひと

 思い出していた。
 自分の体がこれほど軽いなんて思ってもみなかった。
 空気が耳元を通り過ぎる音がこんなにうるさいとは知らなかった。
 そして……
 本当にどうしようもないことには、意外と落ち着いていられるのだとも知った。
 それから──
 ずっと、「落ち着いて」いた。この上もなく。

 知った道ではなかったが、山の勾配などから大体の見当を付けて、祐一は林の中を進んだ。
 やがて唐突に木々の並びが途切れ、巨大な切り株の下にたたずむ影が見える。
 少々息が切れてはいたが、祐一はその影の側まで早足に歩き続けた。
「……来たんだね」
 影──あゆの呟いた言葉に祐一は頷きだけを返す。
 夏の日の残照が辺りを赤く染めていた。
 祐一とは逆を向いたままのあゆは、影が立ち上がってきたように黒いシルエットに映じた。
「ったく……間抜けもいいとこだぜ。なんで最初に会ったときに思い出せなかったんだろうな……」
 祐一のぼやきに、シルエットのあゆは苦笑した様子で、
「ボクも思い出せなかったんだから、あいこだよ」
 と、返した。
「でも、最初に栞と会ったときに、お前は思いだしてたんだろ?俺と……会ってたこと」
「ぜんぶ、思い出せたのは……人形、見つけてから……だよ」
 ゆっくりと、シルエットが振り返った。
 日差しを背に受けたあゆは、やはり影に沈んで、祐一の方から表情を伺うことは難しかった。
「人形……?」
「ほら……天使の人形。びんに入れて、埋めた」
 祐一の記憶が、ゆっくりと、7年間を戻り、そして帰ってきた。
「あれか……探し物ってのは」
 こくり、とあゆの影が頷いた。
「あれを見つけたときに、全部、分かったんだ」
 いつの間にか、切り株の上に、ぼろけた天使の人形が乗っていた。
「残り一つのお願いを、ボク自身が叶えるために。そのためにボクは、最後の時間を与えられたんだ……って」
 そう言ったあゆに、返す言葉もなく──
 沈黙していた祐一は、ふと、あることに気が付いた。
「ちょい待て。なんか、微妙におかしくないか?」
「うぐぅ、なにが?」
 小首を傾げた体のあゆに、
「確かさっき、栞のことで言ってたよな。この町では、死んだ人間は、死んだその年だけ、生きている人間のように帰ってこれるとか……って」
「うん。そうだよ」
「だったら……7年前に死んだはずのお前が、なんで……半年も、こうしていられるんだよ」
 よくは見えないはずだったが、あゆの表情が強張ったのが、祐一には分かった。
「まさか……お前、あれからずっと……生きて……」
「ち、違うよっ」
 じたばたとあゆは手をばたつかせた。
「ボ、ボクは、そのっ、あの、なれてるから」
「こういうのに、ベテランとか素人とかあるのか……?」
「うぐぅ、あるんだよっ」
 なおも必死な様子のあゆを見て、祐一は苦笑した。
「じゃあ、幽霊のベテランって事でいいや」
「うぐぅ……なんか嬉しくないよ〜」
 あゆはすねた感じで身をすくめた。
「で、どうなんだ?……お願い、叶ったのか?」
「うんっ」
 あゆはやたらと力一杯頷いた。
「とっても大事なお願いだったから……叶って、よかったよ」
 つい……とあゆが横を向いた。
「そう……か」
 祐一はあゆのすぐ横に歩み寄り、同じ方向を向いた。
 赤い町が眼下に見えていた。
「で……なんだって今さら、行かなきゃいけないんだよ」
 祐一の問いに、あゆは微かに顔をそむけた。
「……もう、限界なんだよ」
「7年も幽霊やってて、か?」
「うぐぅ……」
 あゆの呻きの語尾が震えていた。
「……祐一君が来てくれたからだよ」
 恐らくは数分の沈黙の後、小さな声で、あゆはそう言った。
「俺が?」
 祐一の言葉にあゆはやはり小さく頷く。
「死んだ人がいつまでもこの世にいるなんてよくないんだよ。祐一君が来てくれて、ボクのこと、思い出してくれたから……だから、ボク、安心して行けるよ」
「あのな……あゆ」
 祐一はそう言ってぐるりとあゆの真正面に回り込んだ。あゆもそれに合わせてぐいっと横を向き、目をそらす。
「あの人形の願いは、俺があゆに叶えてやるもんだったろ」
「う、うん」
 目線を外したまま首を縦に振るあゆ。
「それを自分で叶えちまったら反則じゃねーか。ってことで、俺も一個反則するぞ。文句ないな」
「うぐぅ、めちゃくちゃだよっ」
 つい、怒って振り向いたあゆの目を見つめて。
「俺の願いだ。いいから……ずっと、ここにいろ」
 祐一は呟いた。

「……ひどいよ」
 いつしか夕景が宵の風景に変わる頃、あゆはようやくその言葉を絞り出した。
「ああ。我ながらむちゃくちゃでひどいと思ってる。けど、引っ込めないぞ」
 あゆは激しく首を振った。
「ダメだよ。そんなの……」
「俺は……お前についててやるわけにはいかないけど、寂しくなんか、頼まれたってしてやんねえぞ。毎日でも毎週でも、遊びに来てやる。お前だって好きなときに家に来ればいい。7年もそんな調子ではね回ってて、今さら無理だなんて却下だからな」
「うぐぅ……」
 あゆは下を向いたまま黙り込んだ。
「いいな?あゆ」
 祐一がそう駄目を押したとき。

 パシン!

 あゆの右手が祐一の頬を張った。
「祐一君の……ばかっ!!」
「な……」
「ばかばかばかばかばかばかばがばが……ぁ……」
 ばか、の連発にすすり泣きが混じり、嗚咽に変わった。
「……」
 しゃくり上げるあゆを、ただ見つめる祐一。
「……つらいんだよっ……だって……どうやったって、絶対に、『そっち』へは……戻れないんだからっ……それに……それにっ……」
 祐一はあゆの肩にそっと手を置いた。
「すまん。……勝手すぎた……な」
「うぐぅ……そうだよっ……」
 ぐいっ、と涙をぬぐって、あゆは泣きはらした顔を上げた。
「じゃあ、ボク……そろそろ、行くよ」
「盆の間くらい……いられないのか?」
 ふるふる、とあゆはかぶりを振った。
「そっか……じゃ、元気でな。買い物するときはちゃんと金払うんだぞ」
「うぐぅ、その話はもういいよっ」
 一瞬情けなさそうな表情をして、あゆはふっ……と表情を緩めた。
 背負ったリュックの羽根が、ばさ、という音と共に広がる。
「名雪ちゃん……幸せにしてあげてね」
 その言葉と同時に、すぅっとあゆの姿が薄れていった。
 その時、突然、祐一の脳裏にあゆの言葉がよぎった。
(『秋子さん、元気になってよかったねっ』)
(……なんで……知ってたんだ?)
(ひょっとして……)
「あゆっ!!」
 もう、向こうが透けて見えるその姿に向かって、祐一は叫んだ。
「お前……やっぱり、秋子さんと同じ病院にっ……!」
 あゆは──
 ただ、静かに首を振って見せた。
((祐一君が、ボクが7年前に死んだと思ったんだったら……そうなんだよ))
 声だけが祐一の耳に響く。
((ボクにできるのは……お願いすることだけだったから……))
((大事な人に、幸せになって欲しかったんだよ……))
「って……お前、その『お願い』って、まさか……秋子さんのために……」
((やめようよ。ボクは……全部、これで良かったって思うから……))
 ほとんど透明に近くなった姿で、あゆは優しく──どこまでも優しく、微笑んでいた。
((じゃあね、祐一君……名雪ちゃんや秋子さんにも、よろしくね))
 そして。
 何一つその場に残すことなく、あゆの姿は消え失せた。

 祐一が山を下りると、登山口で名雪がぽつんと立っていた。
 降りてくる祐一を認めたらしく、ぱたぱたと手を振る。
 祐一は苦笑を浮かべて、小走りに名雪の方へ近づいた。
「お帰り、祐一」
「ん、ただいま」
 その二言を交わして、そろって家路につく。
 山間の家がちらほら見える頃、名雪がぽつり、と言った。
「みんな……いなくなっちゃったんだね」
「……ああ」
 不意に名雪は祐一の手を強く握った。
「祐一はいなくなったりしないよね?」
「ばか。当たり前だろ」
 こちん、と祐一が名雪の頭をこづく。
「良かった」
 破顔する名雪。
「……あのな」
「なに?」
「もし、将来、俺達に娘が生まれたとしてさ」
「えっ????」
 名雪は夜目にも分かるほどに真っ赤になって慌てた。
「仮の話だから落ち付けって。それで、もしそうなったとして」
「う、うん……」
「あゆ、って、付けたら駄目か」
 名雪は少し考えこむ様子だったが、
「いいよ」
 にっこり笑ってそう答えた。
「でも、私より可愛がったりしたらやだよ」
「ああ」
 祐一は改めて笑った。
「しかし真っ昼間の幽霊話か……こういうのは、やっぱ夜の方が似合うよなぁ」
「うん」
 いつしか町へと足を踏み入れていた二人の耳に、もの悲しい三味の音がどこからか聞こえてきた。
「お父さんも……」
 名雪がふと呟く。
「ん?」
「お母さんに会いに来たりしたのかな……」
 祐一は何も言わず、そっと名雪を抱き寄せた。
「……」
 黙って、名雪も頭を祐一の肩に預ける。
 夏の夜は、ゆっくりと、深まりつつあった。

夢。

夢を見ていた。

傾いた日の照らす丘の上で、

やわらかな草の上で、

たい焼きの入った袋を片手に駆け回る少女。

幸せそうにバニラアイスをほおばる少女とその姉。

肉まん片手に漫画を読みふける少女。

たわいもないしりとりに興じる少女たち。

そんな、彼女たちを見つめながら、

傍らには、肩にもたれてうたた寝する、大切な、従姉妹。

 

 

ほんのりと暖かくて・・・・・・

 

 

とても、楽しくて・・・・・・

 

 

涙が止まらなくなるような、

そんな、夢だった。

 

(北國夜話・了)


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