幽体離脱の夜

 ……準備よし。
 道具の用意と配置を確認して、壁の時計に目を移す。時間も頃合い。
 忘れてはいけないのは、薬指に巻き付ける細い銀糸。慣れないうちは、これをつけていないとアストラル体と肉体がたやすく分離して、戻れなくなってしまうらしい。
 もう一つ。これから行う、アストラル体離脱実験で、初心者が忘れてはいけないこと。

「分離と回帰の際に、自分が誰であるかを強く意識すること」
 ……うん。これで大丈夫……のはず。
 わたしは椅子に深く腰掛け、香の香りを深く吸い込んで、ゆっくりと呪文を唱え出す。
「Yi……kjl……duv……s……」
(わたしは来栖川芹香。わたしは来栖川芹香。わたしは……)

 気が付くと、わたしはふわふわと宙に浮かんで、自分を眺めていた。
 実験成功。
 多分、わたしは満足そうにほほえんでいると思う。……いまは、顔がないけど。
 さて……
 どうしよう。
 よく考えたら、アストラル体を離脱して、どうするかなんて、考えていなかった。

 仕方がないので、安全な時間(問題なく肉体に戻れる時間)の間、夜の町を散歩することにした。
 でも、もうほとんど明日との境目。人通りもないし、古本屋さんのある商店街も何カ所か──げーむせんたー、っていったっけ。時々綾香が話してる──くらいしか開いてない。
 ふわふわと。あてもなく漂っていると、ふと、ずいぶん遠くまできたのに気が付いた。
 それが分かったのは、見覚えのある建物があったから。来栖川電工研究所。一度だけ、見学に連れてこられたことがある。もうだいぶ前の話だけど。

 [……くすん。]

 なにか……聞こえた?

 [……くすん。くすん。]

 すすり泣く声が聞こえた。ときどき、いる。わたしが「感じ取れる」ことを知って、ある人はからかいで、ある人は切なる願いを込めて、声をかけてくる人。
 声は、研究所の中から聞こえてくるような気がする。ちょっと迷ったけど、私は研究所に入ってみることにした。

 声を頼りにたどり着いたのは、HM開発課の一室だった。
 こんなところから、どうして?
 すっと扉をくぐり抜けると、そこには誰もいなかった。生きている人もそうでない人も。
そこにあったのは一体のロボット。多分、開発中なのだろう。わたしより少し年下のデザインの、女性型HM。

 [……くすん。くすん。]

 わたしはびっくりした。泣いていたのは、そのロボットだった。

 ……どうしたのですか?
 声は答えた。
[分かりません。現在待機モードであるにもかかわらず、感情システムの一部が過剰活動状態にあります]
 ……どうして、泣いているの?何か、悲しいことがあるの?
[悲しい──感情モニタは、感情ヒストグラムの<悲哀>が高い数値をさしていることを示しています。私は『悲しい』のだと推測されます]
 なんて遠回りな感情表現なのだろう。
 ……どうして悲しいのですか?
[悲しみの感情の生起条件の一つを私は満たしています。欲求の現実化の阻害です]
 ……それは、なに?
[私は、心がほしいのです。心がほしくてたまらない。でも、私はまだ、開発の方々の要求する水準の心を実装できていません]
 ……あなたの名前は?
[テストナンバーHMX−12。開発コード「マルチ」です]

 わたしは、そのHM──マルチの話に耳を傾けた。
 アーキテクチャの見直し。ロジックの改良。データの追加。彼女に心を持たせようと、毎日血のにじむような努力を、彼女の開発陣は彼女につぎ込んでいるのだという。だが、彼女は心の状態をシミュレートする、それだけのところから、進むことができないのだと。
 わたしはため息を付いた。方法が根本から違っている。たとえば魔術でゴーレムを作るとき(まだやってみたことはないけど)、心を宿らせたければ、符を使おうと呪文を唱えようと意味はない。自らの心で語りかけることが大切なのだ。
 わたしがそう言うと、
[ですが、それはHMの標準開発手順からはなはだ逸脱した行動です。失礼ながら有効な手段とは判断いたしかねます]
 くす。わたしは思わず笑ってしまった。彼女自身が気づいていないなんて。
 ……あなたはなぜ心がほしいの?どうして心が得られなくて悲しいの?どうして、私の意見を否定して開発の人たちを弁護するの?
[……感情モニタは分析不能を回答しました]
 ……あなたには開発の人たちの思いがもう宿っているの。あなたに心を宿らせたい。それができなくて悲しい。悔しい。でもそれは自分たちにしかできないという自負と誇り。あなたの今の思いは、その反映でしょう?
[可能性として認められます。……では、私はどうすれば心を実装できるのですか?]
 わたしはちょっと考えた。……お節介かもしれないけど。でも、わたしは彼女の思いに答えたいと思った。
 ……わたしの心をあなたに分けてあげます。ほんの少し。
[え]
 わたしは手を伸ばすイメージを作った。彼女の頭に……そして。
 なでなで。
 綾香がこちらへ来たばかりで、よく泣いていた頃、母さんのまねをしてこうすると、綾香はすぐ落ち着いたものだ。
[あ……]
 ……わたしの心を受け継いで。そして、開発の人たちの思いを受けて、すてきな女の子になって。
 しばらくの間、わたしは彼女の頭をなでるイメージを作り続けた。

 数日後。
 帰りのリムジンの中で、珍しくセバスチャンが自分から口を開いた。
「息子が妙なものを作ったようでしてな」
 なんですか?
 わたしが聞くと、
「心をもったロボットだとか。まったく、暇にもほどがありますわい」
 でも、おもしろそうですね。
 そういうと、セバスチャンは変な顔をして、
「人間に近いロボットを作りたいとか言っておりました。しかし、あれの話に聞くほど失敗の多いようなロボットでは、使いものにならないのではと思いましてな。社の金をなんと心得ておるのやら」
 ……え?
 失敗が多い?
 そう言えば今日も薬の調合に失敗したけど。
 ……変なところで似なくてもいいのに。

 風の噂で、マルチがうちの学校に試験配属されると聞いた。
 わたしは3年生。マルチは1年生。
 ……出会えることは、あるだろうか。

 と、思っていたら、ある日の朝。

「おはようございますー!」
 ……ぺこり(with ほほえみ)。

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 先輩とマルチの絡む話って、マルチEnd後の、「来栖川の人間」としてのパターンが多いように思いまして。
 こんなんどーかな、と思って書いてみました。
 改めて考えてみると、ちょっとどじなとことか、なでなでとか、共有イメージがちょこちょこあるんですよね。この二人。


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