「霧の詩」

詩の一 ふれあわない

「ミメル」
 ユーザックは疲れていた。何しろ旅から帰ってきたばかりなのだ。だが、そんなことはどうでもよかった。幻さえ作れれば、何の問題もない。
「ミメル。具合はどうだ?」
 じっと見つめている弱々しい目。けれど、その目に、明らかな喜びを見て、ユーザックは疲労を忘れた。
「うん。今日はね、すこし、起きられるかも」
 言って、ベッドの中の愛娘は首を持ち上げようとする。ユーザックは慌ててそれを止めた。
「無理するんじゃない。せっかくそれだけ元気なら、もうちょっとがまんしような。明日になったら、もっと元気になれるかも知れないぞ」
「……うん」
 ミメルは体から力を抜いた。
 とさ……
 あまりに軽い音が、ユーザックの胸を貫いた。
「今度はな、ミラディアス渓谷へ行って来たんだ」
 言いながら、ごそごそと鞄から小さな人形を取り出す。おそらく土産だろう。
「わ……かわいー」
 ミメルがかすかに微笑む。ユーザックはそんな娘に笑いかけると、
「よーし、じゃ、見せてやるぞ……」
 ユーザックがひょっと目を閉じた瞬間……
 狭い部屋の中に、雄大な大峡谷が現出した。

「ミメルったらはしゃいじゃって……」
 レクの実の皮をむきながら表情を和ませる妻のリーラに、ユーザックは照れたように笑った。
「いやぁ……あんなもんじゃなかったんだけどな……まだまだ練習が足りないよ。プロの幻現家にはとうてい及ばない」
「でも、あの子にとってはあなたの幻だけが外を知るすべなのよね……」
 レクの実の一つは食べやすいようにつぶしてやる。
「少し休んだらまた出るよ。スシャネ山のハニルの群生地がそろそろ見頃のはずだ。早く行かないと花が枯れてしまう。あれは3年に一度しか咲かないからな」
「無茶しちゃダメよ。それに一体いつ原稿を書くの?」
「そんなものは旅先でだって書けるさ」
 心配顔のリーラにユーザックは厳しい表情でそう言った。
「……ときどき……ティレルさんが恨めしくなるわ」
「リーラ!!」
「分かってるわよ。ティレルさんがあなたに紀行文を書くように勧めなかったら、今の暮らしが成り立ってたかどうか……」
「ミメルが病みついて……いてもたってもいられずに後先など考えないで仕事を辞めて、思いついたのがミメルに世界中の景色を見せてやること。それをメシの種に応用する手段を、元同業者のよしみで具体化してくれたのは確かにティレルだが」
 ユーザックは軽くため息をついて――かすかに、笑った。
「書くことを決めたのは俺だ。それに、世界中を一生の間に回ろうと思ったら、のんびりなんてしちゃいられないしな」
「せめて……今日はゆっくりしてらっしゃいな」
 リーラの言葉に頷くユーザックだったが、既にその心はスシャネ山へと……そしてそこに咲き誇るハニルの花――更にその幻を見て目を細めるミメルの顔までもを思い浮かべていた。

「おかえりなさい」
 たった一人の部屋で、ミメルはつぶやくように言った。
「お仕事たいへんだった?パパ」
 幻のユーザックがミメルにそっと微笑みかける。その向こうには幻のリーラが夕食の用意に精を出していた。
「ずっと寝てたって、ミメル、つらくなんかないよ。だって……」
 話しかけようとして……集中が途切れたのか、ミメルの作った幻がかき消えた。
「だって……」
 ミメルの声に涙が混じる。
「パパもママもずっといっしょだもん……」
 そこへ、ノックの音がして、ユーザックが顔を見せた。
「なんだ?なきべそかいて。怖い夢でも見たのか?」
 ミメルは涙を拭った。
「うん。でも、もういいの」
「そうか」
 ユーザックはミメルに近寄ると、そっと額にキスをした。
「ゆっくりお休み。眠るのが一番いい薬なんだぞ」
「うん……」
 ユーザックが出ていった後、ミメルはにこっと笑って、
「今日は……ほんとに、いっしょだもん」
 今夜は、ミメルは久々に、団欒の幻を作らずに寝付けそうだった。

 

 父の心は娘を安らげず
 娘の想いは父に届かず

 

詩の一 終


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