「霧の詩」

詩の二 老人と少年

 その日……
 タイルスは目の前にちらつく曇りがやけに気になったのを覚えている。
 視覚的な技能職である幻現家としては少々嫌な話だ。
 若い頃、芸の肥やしと称して外しまくったはめの、つけが回ってきている。
 タイルスはどうしても医師の言葉にその匂いを聞いた。
 幻現家はつまり空間の画家である。
 ただ、絵と違って幻はその寿命が極めて短い。作者が幻から意識を離して、幻が存在し続けることができるのはせいぜい10分というところだ。そんなわけで最近の若手幻現家達は、積極的にビデオや写真での作品発表を行っていた。
 タイルスはその手法にはなじめなかった。
 タイルスの生まれた時分にはカラー写真ができたかどうかという頃で、彼が幻現家として独り立ちした頃には、野心的な一部の幻現家が写真集での作品発表を始めていたにもかかわらず、だ。
 タイルスはかたくなに幻と観衆の目の間に人工のメディアが介在することを拒み続けた。理屈はいくらでも付けられる。写真は所詮平面、しかし幻は時に変容しつつ存在する立体像であり、平面で立体芸術を世に問うなど言語道断──まだ血の気の多い頃、雑誌のインタビューにそんなことを言ったような気もするが、ようは気に入らない、というだけのことだと彼自身は思っていた。
 だから文化庁開催の、年に二度の展覧会に出られなければ、タイルスに作品発表の機会はなかった。いや、発表したいだけならストリートパフォーマンスでもすればいい。しかし少なくとも、今のタイルスにそれは不可能だった。やってできないことはなかろうが、年齢的にも立場的にもそれは現実的ではない。
 幸い、今年の秋展の出展は決まっていた。
 出展予定作品を、タイルスはもう一度展開してみた。
 空間に鋭い像が姿を現す。
 幻芸術の利点の一つは、視覚化できるものならどんな立体でも構築できるということだ。幻現家の力量にもよるが、一つの建物を原寸で幻として見せることも出来る。彫刻と違い、素材の制約は存在しない。抽象幻が市民権を得て以来、ほかの表現手段以上に抽象芸術が発達してきたのも、おそらくその辺の所以だろう。
 タイルスの今回の作品は、現実には工学的に極めて高度な加工を必要とするだろう、極限の鋭さの追求結果だった。
 四本の四角錐状の棘が六方向に直交して浮かんでいる。各辺と頂点が、限界の鋭利さを見せている。現実の造形物なら触れれば確実に切れる。
 それだけの鋭さを創出するには無論意識を同様に鋭くすることが必要だった。しかし、意識はともかく、タイルスの視覚は鋭さを失いつつあったのだ。
 最悪でも、目にメスを入れれば白内障は治らないものでもない。だが、
(メスを入れた視覚など……私は許せんだろうて)
 自嘲気味にひとりごちて、タイルスは像から意識を離した。

 結果は何よりも驚きをもたらした。
 結果それ自身より、タイルスは自分の平静さに驚いた。
 秋展で最も高い評価を受けたのは若手幻現家のリファルの作だった。
 躍動的な若人の像を、正に動き出しそうな静止像として、リファルは現して見せた。
 古参の批評家の中には、リファルとタイルスを対比して「具象の復活」を叫んだ者もいたが、タイルスの作品はほとんど人々の口の端にすら上ることはなかった。
 正直──タイルス自身、リファルの作品は嫌いではない。むしろ細部の造形の緊張には嫉妬すら覚えるほどの才能を感じる。
 それでいて……タイルスは奇妙に平静だった。
 控え室に戻り、一息入れて、会場の国立中央美術館を出る。
 誰一人、タイルスに声を掛ける者はなかった。
 気を遣って、と言うより、そこにいる老人が声を掛けるべき対象だと認識していないようだった。
 目の前を鳩が飛んで行く。
 羽音がない。
 鳩がふっと消え、タイルスはそれが誰かの作った幻であったことを知った。
 見回すと、一人の少年が、ひょこひょこ歩き回る鳩を親の敵のようににらみ付けている。
 タイルスは苦笑して少年に近づいた。
「そんなに怖い顔で見ておっては、鳩が逃げやしないかね?」
 少年は怪訝な顔でタイルスを見上げた。
「何だよ、じーさん」
「どら……」
 霞む目に高い空が映った。
 その蒼穹に、タイルスは十数羽の鳩の幻を展開する。
「へー……じーさん、うまいじゃん」
 口笛を吹く少年。
「なに……」
 タイルスは微かに笑った。
「そう言われたことも、ないではないがな」

 

 老いて身を譲る譲り葉の
 さびしさは落ちてなお深く

 

詩の二 終


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