とす……
 かすかな音を一瞬響かせて、スニーカーがどこかの家の屋根を踏んだ。
「やべ。聞こえなかったろうな」
 独り言は声にせずに口の手前で飲み込む。
 そいつは黒いジャージのトレーニングウェアを着込んでいた。屋根の上にいるのでなければ、ランニングをしていると言っても一応、言い逃れがたつ格好だ。
「さてと。話に聞くところではこの辺のはず」
 じっと屋根の下の、人通りとてない道路を見つめる目。
 彼を見て、それが龍雄だとは、おそらく聡子とて思わなかったろう。あまりにも、今の彼の表情は、普段周りの人間に見せているそれとは違いすぎていた。まるで……そう、まるで一度地獄でも見たことのあるような、ひどく冷めた表情と、くちなわのような冷たい目。確かに彼は一度この世で地獄を見ているのだが、それでも人前でこんな表情を見せたことは一度とてなかったと言っていい。
 やがて。
 龍雄が見つめるその先あたりで、奇妙な音が生じた。
 ごくり。
 ごき。
 ごが。
 何か硬いものを、潰しているような音である。
 それは徐々に高まり、そして、うっすらと異様なものが姿を現した。
 髪の生えた骸骨、あるいは腐り果てたなきがら。それが自分の腕だった骨にかじりついているのだ。黄ばんだ歯がやはり黄ばんだ骨をかじると、異様な音が響き、骨が砕けて落ちる。しかし、地面まで落ちた途端、その骨はふわふわと腕に舞い戻ってしまうのだ。
「来た」
 龍雄は短く呟くと、ふっ……と屋根から飛んだ。そのまま路面へと降りる。今度はほとんど音がしない。
 骸骨が、龍雄を見て、口から腕を放した。
<くれぇ>
 かくかくと顎を動かし、すきま風のような声を漏らす。
「何が欲しい」
 龍雄は動じもせずに問うた。
<いのちをくれぇ>
「いのちはやれん。救いをやる」
<くれぇぇ>
 突然、そののんびりした物言いからは想像もできないようなスピードで、骸骨は龍雄に襲いかかってきた。
「ちっ!」
 龍雄は横様に飛んでこれをかわす。まるで軽業のような身軽さであった。
<くれぇ>
 くるりと向き直って骸骨は今度はじりじりと龍雄に迫る。
「じたばたするんなら少し痛い目に遭ってもらうぜ」
 龍雄は言って、右手を何かを握るような形に丸めた。
「のうまく・さまんだばざらだん・かん」
 呪文のような言葉を呟いたと思うと、龍雄の右手の中に、ちょうど短刀くらいの炎の塊が現れた。が、龍雄は熱そうな素振りも見せない。そもそも龍雄の右手は、炎を握りしめるようにしているというのに煙り一つ上げず、火傷をしている様子も全くない。それより、その炎の塊は、現れたときのまま、まるで氷のようにある形に固まったままだった。龍雄はそれを顔の前、鼻の下あたりに構える。
<くれぇ>
 骸骨が右腕をすうと伸ばしてくる。龍雄は少し右手を下げると、跳ね上げるように右手の中にある炎の塊を骸骨の右手首に下からぶつけた。
 ごっ。
 鈍い音がして骸骨の右手首が落ちる。それは地面に落ちて行く途中で、糸でも切れたようにバラバラの骨片になった。骸骨はびくり、と右腕を引っ込める――驚いたような様子だ。
「一応は不動明王の浄炎だ。効くだろ?」
 再び顔の前に右手を戻して、龍雄。
<くれぇ>
 骸骨はしかし、懲りた風もなく今度は左手を伸ばしてくる。龍雄は今度はそれを跳んでかわすと、右手を振りかぶった。
「こっちも暇じゃないんだ。そろそろ片ぁつけさせてもらうぜ」
 言い終わると同時に右手を振り下ろす。炎の塊が、龍雄の手を放れて骸骨の眉間めがけて飛んで行った。骸骨はそれをよけようともせず――まともに食らった。
<……>
 それがなにがしかのダメージになったのか、動きを止めた骸骨を見て、龍雄は目を細め……ため息をついた。
「おまえが何で死んで、何でこんな風に化生(けしょう)したのか、まるっきり分からんが……これが俺の仕事なんでね」
 龍雄は右手を上げて手のひらを骸骨に向けた。
「おん・あぼきゃびじゃや・うん・はった」
 さっきとは違う呪文を唱える。すると、龍雄の手のひらから淡い光が骸骨めがけて伸びた。それは見る見るうちに細くなり、糸のようになって、そして骸骨をぐるぐるとからめ取った。
「うっ……」
 そのとたん、龍雄の意識に何かが割り込んできた。

 まってた
 どうして
 きて
 あつい
 いたい
 ひもじい
 さむい

 それが何を意味しているのかは、龍雄には完全には分からなかった。が、一つだけ分かっていたことがあった――それが、この骸骨の姿に化生したものの思いなのだと言うことである。
 それは容赦なく龍雄自身の感覚や感情と同期して、同じ苦痛をもたらして龍雄をさいなんだ。龍雄はぎりぎりと歯を食いしばってどうにかそれに耐え続けた。
「もういいだろ……お前の心は俺が引き受けてやる。そろそろ呼ぶぜ……」
 苦しげに呟くと、龍雄はかっと目を見開いて、言った。
「おん・かかか・びさんまえい・そばか」
 と……
 龍雄と骸骨、両者の周りを、白い光が包み込んだ。
 どこからか、シャン……という、済んだ金属音が響く。
 錫杖の音だ。
 その音の高まりに反比例して、骸骨の姿が薄れて行く。
 やがてひときわ高いシャン!と言う音と共に、骸骨の姿は完全に消えた。骸骨を戒めていた光の糸ははらり、とほどけ、一瞬のちに消えた。
「後はあんたの仕事だぜ……地蔵さんよ。俺はこいつを記事にせにゃならんのでね」
 龍雄はそれだけ呟くと、風のように姿を消した。
 かつて江戸市中を騒がせた盗賊飛騨の龍三と、寸分違わぬ冴えた動きで。

 その晩、龍雄はいつもの夢を見た。
 化生を地蔵の手に託した日には必ず見る夢だ。いや、そうでない日だってしょっちゅう見ている。龍雄にとっては決して忘れることのできない夢であり……そして記憶だった。かつて己のなした愚行の。
 江戸時代、彼が「飛騨の龍三」と名乗る盗賊であった頃、彼は押し入った商家で、その家の一人娘・お峰を殺めた。その瞬間から、なぜかお峰のことが頭から離れなくなってしまった龍三は、渡世人に化けてお峰の菩提寺に赴き、お峰の幼なじみを偽って稼ぎの半分を永代供養料として手渡した。その付け焼き刃の変装の失敗から彼は命を落とすことになったのだ。
 しかし、地獄へ堕ちるその手前で、龍三は何者かから意外なことを聞いた。その坊主がいきさつはともかくと彼の金で供養をしたおかげで、怨念に迷おうとしていたお峰は下天に生を受けたと……そして、お峰が「後生の恩人」に会いたがっていることも。だが、合わせる顔がない以前に、地獄に堕ちる龍三には下天の住人に会う術がなかった。その何者かが龍三に奇妙な申し出を持ちかける。

『お主に、我々の力を娑婆世界にもたらす、導火線としての力を授けよう。その力を以て、お主には娑婆に迷い苦しむ化生たちを、救ってやって欲しいのだ』
「ちょっと待てよ。地獄に堕ちる俺がどうやって娑婆の?」
『化生というはこれ衆生の内。それを済度しようと言うのだ。それほどの発菩提心なれば人として生まれるだけの功徳を生ずるに十分』
「なんだかよく分からねえが……つまりその取り決めに従えば、俺は地獄じゃなく、娑婆に人として生まれると、そう言うことか?」
『そうだ。そして、化生を済度する功徳を積むならば、下天に生まれることとて不可能ではない』
「……だが、んなことやってる間に、お峰の奴が下天からいなくなっちまったらどうする?下天に生まれたからって、生まれるからにゃ死なねえ訳じゃねえんだろ?」
『人間の世の50年すら下天にあってはあたかも幻のごとき一瞬の夢。心配は要らぬ』
「……お峰に……会えるんだな……」
『どうだ。やってみるか』
「……だが、そこまででかいことをいう、あんたは一体誰なんだ?」
『一切を蔵す大地のごとき広大無遍の慈悲持つ者。地蔵、と呼ばれておるな……』
 シャン!
 錫杖の音が龍三の耳元で響く。
 茫漠とした光の中に、確かに彼は僧形の菩薩――地蔵の姿を見た。
 そして、彼はその申し出を、受けることに決めたのである。
 龍雄がこのことを思い出したのは11の時。一家全員が巻き込まれた事故の後だった。
 両親は即死。彼自身も幾度となく生死の縁をさまよった。ひょっとすると、このことを思い出したからこそ、彼は生きる気力を振り絞れたのかも知れない。
 彼は小さい頃からよく世話になっていた親戚の長柄家に引き取られた。
 彼は必死に、そして秘密裏に体を鍛えた。どう鍛えればよいかを知っているだけでも、大きな時間の節約になった。
 今の彼の能力は、前世で同い年だったときのそれに十分追いついている。
 地蔵から借り受けることの出来た力は4つ。攻撃手段としての浄炎を呼び出す不動明王の力。化生をからめ取り、目標を固定するための縄を呼び出す不空羂索観音の力。そして化生に文字通り引導を渡すための、地蔵菩薩の力。残る一つは閻魔天即ち閻魔大王の力だが、非常用であって、使うべきものではない。
 まだ、化生を救うこの仕事……というか、行を初めてから日は浅い。平均寿命が延びたと言っても、この行を続けられる時間は限られている。
(その間に……少しでも、片づけなきゃな)
 いつしか、目の覚めた龍雄は寝返りを打って、思った。
(俺は……あいつに、どうしても詫びなきゃならないんだ……)
 化生達の悲しみを、一時引き受けるように。
 いつか、お峰の悲しみも引き受けてやることができれば。
 それが何よりの……そして唯一の、龍雄の望みだった。

――つづく――

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