「ん……」
微かにけだるい覚醒が脳に忍び込んでくる。
珍しく、翡翠が来る前に目が覚めた。
目を開くのに並行してベッドサイドの眼鏡を掛け、時計を見れば、その針はいつもより5分ほど早い時刻を指していた。
しばしぼんやりと言葉にもならない思考を遊ばせているとノックの音がした。
ドアを開いて入って来た翡翠の表情に一瞬、驚きが浮かんだのが何気なく嬉しい。
「お早う御座います、志貴様」
深く頭を下げて、
「朝食は秋葉様とご一緒に召し上がるのですか?」
翡翠はそう尋ねてきた。
今日は日曜。
寝覚めの悪い俺にとっては普段叶わない朝寝を満喫できる日でもあるわけだが、ばっちりとは行かないまでも、すでに目は覚めてしまっている。
「うん。すぐに着替えて行くよ」
「かしこまりました。それでは失礼致します」
再び一礼して翡翠が退室する。
ようやっとそこで体を起こして、俺はふと机の上に目をやった。
七夜の名の刻まれたナイフ。
俺の手で幾度と無く、人外の者を「解体」した得物。
(ひょっとしたら、今日はこれを使うようなことが、起きるかも知れない)
そんな、とりとめもない思考が浮かんで、ちょっと苦笑いを浮かべた。
部屋を出て、階段に足を掛けたとき。
──なにかが目の前をもの凄い速さで通り過ぎていった。
鳥?いや、それにしては丸すぎる。
ボール?それにしては何か、生物的な翼のようなものがぱたぱたと動いていた気がする。
ジャアアレハナンダ。
いきなり思考がすっ飛びそうになったところへ、
「あ、志貴さーん」
琥珀さんの声でどうやら、俺は我に返った。
「あ、あぁ、琥珀さん。どうしたの」
振り返って琥珀さんを見ると、何やら心配そうな顔つきをして、息を荒らげていた。何があったのか、この屋敷内で廊下を走るという暴挙に及んだのであるらしい。……非常事態だ、これは。
「あの、丸くてぱたぱた羽ばたいて目の前当たりを猛スピードで飛んでいくものを見ませんでしたか?」
そのまんまじゃん。
「さっきあっちの方へ飛んでいったけど……あれ、何?」
「あっち」の方を指さしながら、俺はそう尋ねた。すると、琥珀さんは嬉しそうに笑って、
「えーとですね、あれは『もんできんと』なんですよー」
「は?……」
「ですから、人工生命体『もんできんと』なんです」
じんこうせいめいたい。
その音の連なりを意味ある言葉に変換することを、俺の脳が全力で拒否しているのが分かる。
「実験室から逃げ出しちゃいまして。あはー」
線目の妙に脱力感あふれる笑顔で、琥珀さん。
実験室ってなに、とか、なんでそんなもんを、とか聞きたいことは山ほどあるような気がするが、
(──まぁ、琥珀さんだし)
その一言で、尋ねずとも納得してしまえる自分がちょっと哀しい。
「それで、その『もんできんと』とかって、どのへんが危険なの?」
「志貴さん……?わたしのこと、何だとおもってます?」
瞳に虚無を湛えて琥珀さんが微笑む。
「そ、そそそそそそりゃもぉ、素敵なはいぱー美少女家政婦さんです、はい」
直立不動で即答。
「……まー、いいです。危険なのは事実ですから」
事実なんですかっ?!
「行動を束縛されるストレスを生化学的に調べてみたいと思って作ったんですよ。人間とか使うと後から手間ですし」
……手間でなかったら人間を使うんですか、あなたは。
「それで完成してからずーっと体積ぎりぎりの箱に閉じこめてたんですが、箱を開けた途端にあの通り大脱走。はぁ、血液とか髄液とか脳漿とか筋組織とかいろいろ採りたかったのに……」
年頃の女の子が呟くにはどうにも不似合いな気がする単語をつらつら並べつつ、琥珀さんははふ、とため息を落とした。
「それで、どうするんですか、その『もんできんと』とかって」
「本当なら実験室のドア4層目までの間に自爆させるつもりだったんですけど」
むすー、とむくれたような表情で、琥珀さんはどこからともなく取り出したPDAのようなものをぽちぽちと叩いた。お約束からすると、コントローラとかそんな類のものなんだろうか。
「今自爆させたりしたらそこら中、血と肉片とでぐちゃぐちゃになってしまいますからねー。翡翠ちゃんが嫌な顔するし、秋葉さまときたら怒るならまだしも、人外化しちゃいかねませんし」
「ぜったいにやめてください」
てゆーか、これから朝食を食べる俺や秋葉のこともほんのちょっぴり考えて頂けないでしょうか。
「……姉さん」
「「うわっっ!!」」
いつの間にか琥珀さんの背後に翡翠が立っていた。
「秋葉さまが、朝食の支度はまだか、と……」
眉をひそめて翡翠がそう言ったとき──
ばびゅん!!
「「のわわわわっっっっっ!!」」
丁度俺達の背後から翡翠の顔のすぐ横を、例の『もんできんと』が飛んでいった。
「──姉さん──?!」
いっそう顔を険しくして、翡翠が琥珀さんを睨む。
「あ、あはははは」
から笑いする琥珀さん。
「──また、私ですか」
そういうと翡翠は左手首を顔の前に持ってきて……なぜか親の敵のように凝視した。
「え、え〜と、……お願い翡翠ちゃんっ」
ぱん、と手を合わせて琥珀さんが翡翠を拝む仕草をする。
「分かりました。ふぅ」
と、翡翠がぽちっと左手首の──時計のどこかを押した途端。
がしゃこんがしゃこんがしゃこん!!
派手な音を立てて翡翠のメイド服がその姿を変えてゆく。
「──えーと、琥珀さん、これって?!」
目の前で起きている事態を多分確実に理解していそうな人に尋ねてみる。
「はい、翡翠ちゃん用にカスタマイズした、『近接格闘用強化服もんできんと』です。普段はメイド服にしか見えないところがチャームポイントですねっ♥」
「それも人工生命体──なんですか」
いや、それなら普段は亜空間に待避してるとか、ベルトが現れて変身っとか……って俺まで何いってるんだか──
ぷしゅうううう。
なぜか蒸気に包まれて、翡翠、変身完了。
……「装甲服」と「メイド服」の何とも言えず中途半端に混ざりあったデザインが妙にないす。
『志貴さま、そこの窓を開けていただけないでしょうか』
マスクを通しているせいか、少しくぐもった声で翡翠が「そこ」の窓を指さしつつそう言った。意図は掴めないながら、素直に従う。窓の外の、陽光降り注ぐ平和な日曜の朝が、なぜか遠くに感じる。
すると翡翠は窓と正対する形で壁に背を向け、
『──あちらを待避下さい』
俺達に「あちら」を指しつつそう言って右拳を引く。言われたとおりそそくさと待避。
そして──
風切り音が再び高まってきたそのとき。
『めぇぇいどぷぁぁんちっ!!』
気合一撃、翡翠が右拳を突き出す。拳がクリーンヒットした『もんできんと』は窓を綺麗に抜け、青い空の彼方へ吸い込まれていった。
「──それではぽちっとな」
琥珀さんが呟くと、青い青い空の一点に微かに赤い点。
「えーと、『めいどパンチ』とはですね、メイドさんである翡翠ちゃんのパンチであると同時に冥土に逝くほどのパンチでもあるんですよ」
にこにこと解説してくれる琥珀さん。
「──また、つまらないものを殴ってしまいました」
いつの間にか普段の姿に戻った翡翠の表情が……なんか嬉しそうだった気がするのは、敢えて気にすまい、と誓った俺であった。
……やっぱ姉妹なんだなぁ。
そんなこんなで。
この日以来、俺の厄介ごとのフルコースには『もんできんと』という一皿が加わってしまったのだった──。
(続いたらすごいよね)
[[本日のもんできんと]]
ストレス測定用もんできんと
結果 : 爆(琥珀による爆殺・以降同じ)
近接格闘用強化服もんできんと
結果 : 使(有効に使用・以降同じ)