使徒言行録

使徒言行録の勝手な解釈本


言行録
「約束の精霊」1/3−1/5
イエスは十字架の後40日に渡って弟子達の前に権現したとしている。
「イエス昇天」1/6−1/11
ノーコメント
「マティアの選出」1/12−1/26
イエスの12人の弟子のうちユダを除く11人がエルサレムに戻り、婦人達、イエスの母マリア、イエスの兄弟達を含む120人程の集団を形成している事がしめされている。
ユダは不正(裏切り)によって得た報酬で土地を購入し、その地面に転落して体が裂け、内臓が露出して即死し、その土地のことを「血の土地..アケルダマ」と呼ぶようになったとしている。
ユダの後継としてマティアと言う人物を弟子(スタッフ)に選任したと記されている、マティアがどういう人物かは不明

−−−−−−−−− 注釈 −−−−−−−−−−−−−
ユダの死因はマタイ福音書と大きく違っておりマタイではユダはイエスが有罪になった時点で後悔の念から報酬を祭司長に突っ返し首吊り自殺し、祭司長達がその金で陶器職人の畑を買い外国人の墓地にした為に「血の畑..多分アケルダマ」と呼ばれる様になったとしている。つまりユダの死因はルカは事故もしくは他殺でマタイは首吊り自殺としている。それぞれ信憑性のある情報収集ができなかったのだろう、マタイの場合は金に弱いユダ像を作り出す意図が感じられる
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「聖霊が降る」2/1−2/13
ノーコメント
「ペテロの演説」2/14−2/42
ペテロはまずヨエル3/1−3/5の予言を演説して(ヨエル書はBC400年頃イスラエルがペルシャに支配されていた時の古文書で、外国支配への恨みとそれを開放するべく予言が書かれている)イエスこそが神が遣わした人であると演説している。
ペテロはさらにダビデの言葉としてメシアの予言をといている
おそらく詩編16/8−16/11の引用と思われるので、その部位を転記しておく。
「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。」
「信者の生活」2/43−2/47(4/32−5/11)
ペテロをリーダーとしたこのグループ(一般的にエルサレム教会と呼ばれる)の生活用式が書かれているが、その特徴はすべての持ち物を共有にし、財産の寄贈して必要に応じて分配している。
この寄贈は徹底的でアナニアとサフィラの話の様に、土地の売り上げ代金の一部を寄贈した人間がペテロから諮問され謎の死をとげている。
この生活様式はエッセネと呼ばれる共同体に共通するもので(女性が参画している点が唯一違うが)おそらくイエスの共同体もこの様な様式だったのだろう
「ペテロの癒し」3/1−3/10
ペテロは神殿の門のそばにいる乞食の足を癒し、民衆を驚かせた
病人の癒しは福音書におけるイエスの癒しの話と同じで、真偽の程は定かではない
「ペテロの説教」3/11−3/26
ペテロはイエスと言う人物が民衆の要求で処刑されたにもかかわらず、神が復活させたこと
そのイエスの名を信じる信仰が病人の癒しの奇蹟を起こした事を説いている
この説法の内容もルカは福音書のイエス・キリストとの整合性を考慮した物と考えられる
「ペテロとヨハネの取り調べ」4/1−4/22
ペテロとヨハネはイエスの復活を説いている事につき、祭司達に拘束され取り調べを受けた
ペテロは病人の癒しの奇蹟が、祭司達が殺したイエスが復活し、その名による物であると言い
祭司達はペテロ達にイエスの名を使わない様に脅かしてから釈放した
「信者の祈り」4/23−4/31
ノーコメント
「持ち物の共有:アナニアとサフィラ」4/32−5/11
省略
「使徒達の奇蹟」5/12−5/16
ノーコメント
「使徒達への迫害」5/17−5/42
大祭司は使徒達にイエスの名を使わない事を厳命していたにもかかわらず、使徒達がイエスの名を説いている事から、再び使徒達を拘束し処刑しようとしたが、民衆に人気のあるガマリエルと言うパリサイ派の律法学者の説得により、使徒達は鞭打ち後釈放された

−−−−−−−−−− ちょっといっぷく −−−−−−−−−−

使徒言行録はこの後、エルサレム教会発足時の最大の事件であるステファノの演説・逮捕・処刑を記述しているのだが、その前にこれまでのいきさつを整理してみたい

イエスが十字架で処刑されてしばらくして発足したエルサレム教会は
1...イエスの親族(母親と兄弟達)や使徒達を含む120人程の集団で発足し、流入移民など
    も交わり次第に勢力が拡大していった事
2...当初のリーダーがペテロであること
3...使徒達はイエスが神の約束したメシアで、祭司達によって処刑されたが天において復活し
    イエスの名による信仰が人々を救うと考えたこと
4...官憲側は当初この集団についてあまり意識していなかったが、イエスの使徒達の活動であ
    る事がわかり、集団の勢力が大きくなっていくにつれ、次第に弾圧をはじめた事
5...信者達の生活が持ち物を共有し、財産を寄贈して必要に応じて生活費にまわすもので
    この点がエッセネー派の共同体に共通するものである事

*コリント書簡(9/5)から、イエスの兄弟達やペテロや他の使徒達は妻子を伴っていたらしい

ルカは、エルサレム教会にいた人達からこれらの情報を仕入れたのだろうか、特に教会発足時期に使徒達がイエスをどの様に思っていたかが大変興味のある所だが、ルカはイエス・キリストを念頭にして描いているので実体とは違っているかもしれない

−−−−−−−−−− いっぷくおわり  −−−−−−−−−−

「ステファノ達を代表者として選出」6/1−6/7
この頃弟子の数が増えていき、ギリシャ語を話すユダヤ人達から、日々の食事の分配が不平等であるとの苦情が出て、使徒達が協議しステファノ以下7人のスタッフを選んで食事の分配を任せ、使徒達は宣教に専念する事になった。
「ステファノの逮捕」6/8−6/15
ステファノはおそらく、大変な論客家だったと思われ彼の宣教が多くの民衆の指示をうけたのだろう。このステファノの宣教に妬みを持った他の地域出身の信者達が「ステファノはモーセと神を冒涜する言葉を吐いている」と言う噂をまき、民衆や律法学者達を扇動してステファノを捕らえて最高法院へ引っ立て、ステファノが「ナザレ人イエスがこの場所(最高法院)を破壊し、モーセが我々に伝えた習慣を変えるだろう」と発言したとの容疑を訴えた。
「ステファノの演説」7/1−7/53
ステファノは、「聖地と律法の冒涜」の容疑に対しTXT形式で7KBに及ぶ抗弁をしているが、正直言いまして何回読み直しても、筆者には筋がつかめませんでした。
悪い頭を酷使して何とか整理してみますと。
ユダヤ民族がエジプトへ移住した経過をしゃべり、神の御心でエジプトから開放させたモーセに従わず、神に逆らって偶像崇拝を行い再び神の怒りをかってバビロンへ移住させられた事、神の恩恵を受けていながらユダヤ民族はたびたび神に逆らい神の怒りを受けている、律法学者達は過去においても現在も神の御心に背いて神が遣わした人を迫害し殺している。
と言う事になるのでしょうか、ステファノの抗弁は「聖地と律法の冒涜」に対する抗弁ではなく、律法学者達や大祭司や民衆への冒涜になり、逆鱗に触れたのだろう
ステファノの抗弁の中で、預言者の引用が二個所出てくるが(7/42−7/43:7/49−7/50)、それぞれ

アモス書(5/25−5/27)「BC800年頃成立」
イスラエルの家よ/かつて四十年の間、荒れ野にいたとき/お前たちはわたしに/いけにえや献げ物をささげただろうか。
今、お前たちは王として仰ぐ偶像の御輿や/神として仰ぐ星、偶像ケワンを担ぎ回っている。それはお前たちが勝手に造ったものだ。
わたしは、お前たちを捕囚として/ダマスコのかなたの地に連れ去らせると/主は言われる。その御名は万軍の神。

イザヤ書(66/1−66/2)「この部分はBC500頃成立か?」
主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに/わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。
これらはすべて、わたしの手が造り/これらはすべて、それゆえに存在すると/主は言われる。わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。

からの引用だろうか、固有名詞が違っているがステファノが間違えたのか、ルカが間違えたのか旧約聖書そのものが変わったのかは判別出来ない

「ステファノ殉教」7/54−8/1
怒りに燃えた民衆は、ステファノを引きずり出し、いっせいに石を投げて殺害した。
パウロはこの時、ステファノ殺害を賛成した。
−−−−−−−−−− またちょっといっぷく −−−−−−−−−−

ステファノはユダヤ教会や民衆を冒涜して即刻石投げによって処刑された、この後パウロも処刑されかかっているし。つまりユダヤ教会や律法は冒涜したりないがしろにする発言だけで、即刻石投げ処刑されたのである。
エルサレム教会の信者達のなかには、ユダヤ教を冒涜して民衆を不安に陥れる人達がいるとしてユダヤ教会側からマークされ、主要な人物は指名手配したのだろう(イエスの兄弟達はノーマーク??)、この後エルサレム教会は表向きユダヤ教会に同調する組織として活動したと思われる
この状況を踏まえると、福音書におけるイエスと律法学者達との論議の多くは、実際にガリラヤやエルサレムでその様な議論ができたかどうか疑わしく、ルカやマタイが福音書を執筆している(エルサレムが崩壊した後)時期のキリスト教徒とユダヤ教徒との論争がイエスに反映させた物ではないだろうか。

−−−−−−−−−− いっぷくおわり  −−−−−−−−−−

「信徒の迫害」8/2−8/3
ステファノ事件の後、エルサレム教会に対して大迫害が起こり、使徒達のほかは皆ユダヤとサマリアに逃げていった
一方パウロは民家に押し入り男女を問わず引きずり出して牢屋へ送り込んだ
「サマリアでの宣教」8/4−8/25
先の迫害でサマリアへ逃げたフィリポがその地で宣教し、多くの人々に受け入れられた。
使徒達はサマリア人が受け入れた事を聞き、ペテロとヨハネ(使徒)がサマリアに赴き宣教した
歴史的にサマリアはエルサレムと対立しており、エルサレムとは別に独自の聖堂を持っていた
イエスの時も(福音書9/51−9/56)エルサレムに向かう途中にサマリアを通ったが歓迎されず、使徒ヨハネとヤコブ(ヨハネの弟)が村を焼き払おうとした地域である
「フィリポとエチオピア高官」8/26−8/40
フィリポはサマリアからカイザリアへ行く途中で、エチオピアの高官が馬車でエルサレムから帰途するのに出くわし、馬車に同乗した。
高官にイザヤ書の解説をしながらイエスについて宣教し、高官はすぐに洗礼を受けた
フィリポは各地をめぐりながらカイザリアへ行った
8/32−8/33でイザヤ書を引用としているが、どうやらこれでしょうか

イザヤ書(53/7−53/8)
「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。」

これもルカが読んだイザヤ書と現在あるイザヤ書とが少し違っているのと、はたしてエチオピアの高官がイザヤ書を読んだかどうか疑問である
この部分はフィリポをたてる為の逸話かもしれない

−−−−−−−−フィリポについて−−−−
フィリポの宣教はよほど説得力があったのだろう、このフィリポはイエスの12人弟子の1人のフィリポだろうか?...ちょっと自信がないのですが、この後カイサリア(多分故郷)をテリトリーにして宣教し、パウロの2度目のヨーロッパ宣教の帰りでエルサレムへ行く途中、このフィリポの家に泊まっている(21/8)
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「パウロの改心」9/1−9/19
新共同訳聖書の見出しでは「回心」となっているが、これはキリスト教から見た悪事を「回心」するのニュアンスにとれるので好みません
パウロは善悪のレベルで気持ちが変わったのではなく、彼の持っていたユダヤ教に対する思想・信条が変わったのであえて「改心」としたいのですが
ここの内容は、古今東西あらゆるキリスト教で取り上げられる物なので、詳しくは説明しませんが。
パリサイ派でローマ市民権を持っていて、ステファノの殉教を良しとし、エルサレム教会の信者を男女かまわず引捕らえて牢屋へ送り込んだパウロは、ダマスコ近くで突然イエスの声を聞いて(ノイローゼ状態??)3日間目が見えず、飲み食いもしなくなった。
このときダマスコのアナニアと言う人物がパウロのもとを訪ね、パウロに宣教をすると目からうろこの様な物が落ちて視力が戻り、身を起こして洗礼を受けた。
アナニアがどういう人物かは不明だが、先のエルサレム教会の迫害の時にエルサレムから逃げてきた人だろうか??、このアナニアと言う人物の勇気ある行動をまた場を変えて調べてみたい
「パウロのダマスコでの宣教」9/20−9/22
パウロはイエスこそ神が約束した人物である事を説いた
「パウロの脱出」9/23−9/25
エルサレム教会の信者には、かなりの日数が経っても、信者達を死に追いやったパウロに恨みを持つ者がおり、パウロ暗殺の陰謀がくわだてられたが、弟子達が夜中に籠に乗せて城壁づたいに吊りおろして脱出させた

−−−−補足−−−−
パウロはガラティア書簡(1/15−1/18)で、ダマスコ改心から、一時アラビアに退いて再びダマスコに戻って、三年後にエルサレム訪問をしたと書いている
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「パウロのエルサレム教会訪問」9/26−9/31
パウロはエルサレム教会の弟子に仲間入りしようと、エルサレム教会を訪れるがなかなか(改心した事を)信じてもらえず、バルナバがこれまでの宣教の次第を説明し、使徒達と自由に行き交う様になった
しかしギリシャ語を話すユダヤ人が暗殺をたくらみ、それを察知した兄弟達(ヤコブやヨセ等か?)がガードしてカイサリアまで見送り、船でタルソスへ帰還した

−−−−補足−−−−
パウロはガラティア書簡(1/18−1/19)では、ペテロに会おうとしてエルサレムを訪ねたが、使徒達には会えず、ヤコブにだけ会う事ができたと書いている
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「ペテロ宣教」9/32−10/48
ペテロはおそらく、弾圧が激しくなってエルサレムを離れ、ユダヤ・サマリアの各地へ宣教の旅に出た
整理すると
1..リダの町でアイネアを癒す
2..ヤッファでタビタを蘇らす
3..ヤッファでカイサリアの百人隊長で異邦人のコルネリウスに会い、カイサリアへ同行して異邦人達に宣教する
「ペテロのエルサレム帰還」11/1−11/18
ペテロはエルサレムへ帰還し異邦人への宣教の報告をした、その時に他の信者から異邦人と食事をともにして、律法で禁止されている物を食べた事を非難されたが、夢の中で「神が清めた物を屠って食べなさい」と言われた事を説明し、異邦人への宣教の正当性を主張した
「アンティオキアの教会」11/19−11/30
ステファノ事件以後の教会迫害により散らされた人達は、フェニキア、キプロス、アンティオキア等まで行き、特にアンティオキアではギリシャ語を話す人達にも宣教が広まった
エルサレム教会はアンティオキア教会のてこ入れの為にバルナバを派遣し、バルナバはパウロをタルソスから探し出し、アンティオキア教会はこれ以後パウロ達の拠点になった
パウロとバルナバは丸一年アンティオキアに留まり多くの信者を指導した、この頃信者達は初めて「クリスチャン:キリスト者」と呼ばれる様になった
その頃エルサレム地方で大飢饉が起こり、パウロとバルナバは援助品を携えてエルサレムを訪問した。

−−−−−−−−−バルナバについて−−−−−−−−−−−
バルナバとは「慰めの子?」と言う意味で、言行録(4/36)に登場するバルナバが後のアンティオキア教会のバルナバと同じ人物とすれば、キプロス出身でヨセフと言い、エルサレム教会発足当初からの信者である
パウロがダマスコ改心後初めてエルサレムへ訪問した時に使徒達との仲裁役を担った:言行録(9/27)
アンティオキアに信者が増えてきた頃(AD40〜45年)に、教会のてこ入れとしてエルサレム教会の指示により当地に赴任し、タルソスでパウロを探し出してアンティオキアに呼び寄せた
マルコ福音書を創ったヨハネ・マルコとは従兄弟同士だと思われる:コロサイ書簡(4/10)
パウロ自筆書簡で所々に登場し、パウロと行動をともにし、パウロがエルサレムで拘束された後は、パウロと連絡を取り合いながら西アジアの異邦人の地を宣教している。
バルナバとパウロによってガリラヤのイエスがイエス・キリストになったと思われキリスト教成立の鍵を握る人間である。
筆者はもしかしたら、マタイ福音書の編集者の一人ではないかと思っている
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「使徒ヤコブの殺害とペテロの投獄」12/1−12/5
ヘロデ王のエルサレム教会への迫害により、ヤコブ(使徒ヨハネの弟)は殺害され、ペテロも投獄された
「ペテロ脱走」12/6−12/19
ペテロは奇跡的に脱走し、ヨハネ・マルコの母マリアの家に逃げ込み、ヤコブ(イエスの弟:エルサレム教会の指導者)に脱走した旨を伝える様に託して、さらに何処かへ逃走した
ヘロデ王は、犯人を取り逃がした番兵の処罰(死刑)を命じて、カイサリアへ赴きしばらく滞在した
「ヘロデ王の急死」12/20−12/24
ヘロデ王はカイサリア(多分)で、民衆に向けて演説をしている最中に、急死した。(心不全か?)
パウロとバルナバはエルサレム教会への援助品を渡して、ヨハネ・マルコ(バルナバの従兄弟)を連れてアンティオキアへ帰還した
「パウロとバルナバの宣教」13/1−14−28
パウロとバルナバは第一回目の西アジア宣教の旅にでる
各地での出来事を整理していくと
(キプロスにて)
キプロス島のサラミスから島を巡りパフォスへ行き地方総督セルギウス・パウルスに宣教した。
ここでパウルスが以前から付き合っている魔術師を罵倒してパウルスから遠ざけ、パウルスは入信した
(ピシディア州アンティオキアにて)
キプロス島から船でパンフィリア州のペルゲへ到着すると、同行していたヨハネ・マルコは別れてエルサレムへ帰ってしまった(この一件は第2回宣教の時にパウロとバルナバを別行動させる原因になる)
ベルゲから陸路ピシディア州のアンティオキア(パウロ達の本拠地のシリア州アンティオキアとは別の場所)へ到着し、イエスの事を宣教した
パウロ達の宣教は異邦人達に良く受け入れられたが、一部のユダヤ人達に妬まれ、ユダヤ人達から迫害を受け、町から追い出された
(イコニオンにて)
アンティオキアを追い出されたパウロ達は、イコニオンへ行き宣教した
イコニオンに於いてしばらくの期間、宣教して、多くのユダヤ人やギリシャ人に受け入れられたが、受け入れないユダヤ人がパウロ達を迫害しようとしたため、リストラへ逃げた
(リストラにて)
リストラでパウロ達は、生まれつき足の不自由な男を治療し、歩けるようにした事を群集が見てて、パウロ達を神の権現として、牛数頭を「いけにえ」として捧げようとしたため、パウロ達は群集を説得して「いけにえ」を止めさせた
アンティオキアやイコニオンでパウロ達を迫害したユダヤ人がリストラへ来て、パウロ達を迫害した
パウロは投石されて気を失いユダヤ人達に郊外に引きずり出され、放置されたが、まもなく意識を回復して再び町中へ戻り、翌日デルベへ向かった
「アンティオキアへ帰還」
パウロ達はデルベから概ねコースを引き返し(キプロス島は通過)、各地で信者になった人達を力づけ、アンティオキアへ帰還した

−−−−−−−−−−−−−−ちょっといっぷく−−−−−−−−−−−
パウロの最初の本格的な宣教旅行であるが、各地に於いてとりわけ異邦人に多くの信者を作った様だが、一方で受け入れられないユダヤ人達との対立の芽を作った様だ
リストラで足の不自由な男を癒した逸話があるが、ペテロにも全く同じ逸話がある(3−1)し、イエスについては沢山の病人の癒しの逸話が描かれている
これらの癒しの話がどれだけ真実か分からないが、病に苦しむ人が沢山いて、ほとんど治療を受けられない状態にある民衆にとっては、たとえそれが真実でなくとも、希望を与える話なのだろう
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「エルサレム会議」15/1−15/35
パウロの宣教によって入信した異邦人は、モーセの慣習による割礼を受けていなかった、そこでユダヤから来た信者達とパウロ達との間に意見対立がおこり、エルサレム教会(本山)の判断を仰ぐ事になった

会議議事録
日時   :AD48年頃
場所   :エルサレムの某所
出席者  :ヤコブ(エルサレム教会)、ペテロ(エルサレム教会)
     :使徒達と長老(エルサレム教会)
     :パウロ(アンティオキア教会)、バルナバ(アンティオキア教会)
議事テーマ:異邦人に対してもモーセの慣習に従って割礼すべきかどうか
議事内容 :
 ペテロ      ”神は精霊を受け入れるのに、私たちも異邦人も差別しなかった、
           それなのになぜ彼らに、我々や先祖たちも負いきれなかったくび
           きを負わせようとするのか、私たちはイエスの恵みによって救わ
           れると信じているが、それは異邦人も同じではないか”
 パウロとバルナバ  記録はないが、異邦人への宣教の次第を説明したと思われる
 ヤコブ      ”パウロ達の宣教の次第はシオメンから聞いている、預言者の言葉
           にも一致する内容がある、神に帰する異邦人を悩ませるべきでは
           ない、私はこう判断する、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行
           いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、書簡を書
           いて異邦人達につたえたい”
議決   :異邦人に対してはヤコブの述べた四つの掟のみを守り、それ以外の負担を強いない
      事を書簡にしたため、適切な人を託してアンティオキア教会で報告する事

ヤコブと使徒達はこの決議に従って、書簡を作製しバルサバ・ユダとシラスに託し、パウロ達に同行してアンティオキアへ赴き、教会で書簡を読み上げた
異邦人達はこの決議に喜び、シラス達をあつくもてなし、シラス達はエルサレムに帰還した。

−−−−−−−−−−−−−−ちょっといっぷく−−−−−−−−−−−
ヤコブを指導者とする使徒達が、異邦人への宣教と彼らに割礼を強いない事を公式に認めたものになる
血を避ける言葉が新約聖書に記されている唯一の場所であるが、どこかの教団は神の教えとして説いていた
前後を少し読むとヤコブが発言して会議の決議として決められたものであることがすぐ解るんですがねぇ
この四つの掟は、かなり浸透した様で、ヨハネ黙示録(2/12−2/29)で幾つかの教会で、この掟を破ってる事を非難している文面が見受けられる
エルサレム教会の特使になったシラスは、この後パウロの第二回宣教に同行したシラスと同じ人物だろうか
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「パウロの第二回目の宣教」15/36−18/23
パウロとバルナバは第2回目の宣教の旅に出発した。バルナバは従兄弟のマルコを同行させようとしたが、パウロは第1回目の宣教の時に離脱したマルコを非難し、バルナバはマルコとパウロはシラスと、それぞれ別々に宣教する事になった。
(リストラにて)
パウロ達はリストラにおいて、父をギリシャ人、母をユダヤ人信者とするテモテを弟子にして、ユダヤ人の手前彼(テモテ)に割礼を授けた
(トロアスにて)
パウロ達はフリギア・ガラテア・ミシアを通ってトロアスへ向かった。
実は、言行録ではここからパウロ達を「彼ら:They」から「わたしたち:We」に表現が変わっている、つまり言行録の著作者ルカがトロアスの町から、パウロ達に同行した事がわかる
(フィリピにて)
ルカ達は、トロアスから船でサモトケラ島を通ってネアポリスの港につき、フィリピ(ローマの植民都市)についた
数日、フィリポの町に留まっていたが、女奴隷の占い師の霊を取り払い(入信させた)、その占いで稼いでいた(奴隷の)主人から訴えられて、パウロとシラスは投獄された
真夜中に大地震がおこり、牢の戸がみな開き、囚人の鎖も外れた
看守は囚人が脱走したと思い込み、責任を取って自害しようとしている所を、パウロが制止し、看守達に宣教をはじめ、看守たちは洗礼を受けた
翌朝、この話を聞いた高官達は、パウロ達を釈放した
(テサロニケにて)
パウロとシラスはアンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた
ここで、ユダヤ人達の信じる者達とギリシャ人や婦人達に受け入れられたが、一部のユダヤ人達から妬まれ捕まりそうになったが、信者達に匿われ、夜のうちにペレアに脱出した
(ペレアにて)
ペレアでは多くの人達に受入られ、ユダヤ人もギリシャ人も入信したが、テサロニケのユダヤ人が聞きつけ、ペレアの町に押しかけパウロを捕まえようとした
信者たちがパウロを海岸の町へ送ってアテネへ送り込み、シラスとテモテはペレアに留まった
(アテネにて)
パウロはアテネで2人が追いつくのを待っていた。当時の第一級の文化都市であるアテネでの宣教は、あまり支持を得なかった様だ
プラトンやソクラテスと言った著名な哲学者を生み、その流れをくむ優れた哲学者達に、イエスと復活についての福音を説明しても通じるとは思えない
(コリントにて)
コリントでシラスとテモテが合流し、パウロは一年六ヶ月の間留まり宣教した
(アンテオキア帰還)
コリントを後にして、エフェソから船でカイサリアへ行き、エルサレムへ行って教会に挨拶してアンティオキアへ帰還した
「パウロの第三回目の宣教」18/24−21/16
パウロは第二回目の宣教から帰還すると、程なく大体同じ地域へ第三回目の宣教の旅に出た
第三回目の旅の最後にエルサレムで官憲に拘束され、そのままローマへ護送された為、アンティオキアへは二度と帰還しなかった
(アポロの宣教)
アレキサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロと言う人物がエフェソで宣教した

−−−−−−−−−−−−−−アポロについて−−−−−−−−−−−
アポロについての詳細は良く分かりませんが、パウロはコリント書簡(1/12)で、コリントの人達が「パウロ」「ペテロ」「アポロ」「キリスト」の4つの名前を言い合っている事を非難しており、パウロやペテロと肩を並べる雄弁家だった事がうかがえる
言行録(18/25)の意味が理解しにくい言葉「イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった」がどういう事なのか、いろいろな推測を試みているが
「洗礼者ヨハネの処刑後イエスのグループに加わったが、イエス処刑後はエルサレム教会系の教会にもアンティキオケ系の教会にも交わらなかった人物?」と言う事だろうか
確実な事は分からないが、コリント書簡(16/12)でアポロを兄弟(同志)と呼んでいるので、パウロ達と手を組んだと思われる
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(エフェソにて)
アポロがコリントにいた(エフェソを去った)時に、パウロはエフェソへ行った
先のアポロの宣教により、ヨハネの洗礼の信者となったもの達と、会堂で三ヶ月程論議したが、対立し非難されて、ティラノと言う人物の講堂で約二年間論議した
次第にパウロ側の信者が増えていった
この後パウロ達はマケドニア州を通ってギリシャへ行き、折り返しフィリピから船でトロアスへ向かった
ここで再び主語が「わたしたちは」になっていて、ルカも帯同している
トロアスから船でミレトスに向かい、エフェソへ立ち寄って再び船でティルス・プトレマイスに立ち寄ってカイサリアへ赴き、フィリポに会って宿泊し、陸路エルサレムへ到着した

−−−−−−−−− パウロの2.3回宣教について −−−−−−−
パウロの宣教旅行で、とりわけ異邦人に多くの信者を作った様だが、一方で受け入れられないユダヤ人達との対立の芽を作った様だ
各地で多くの人に受入られていながら、一方で反対勢力に追われ、逃げながらの宣教である。
追いかける側の言葉は、パウロがモーセからの律法をないがしろにしているとの事なので、パウロはその発言が可能な地域のユダヤ人にも「モーセの律法ではなく、イエス・キリストによる信仰」を説いていたのであろう
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「パウロはエルサレムで逮捕される」21/17−22/5
パウロは宣教の報告にエルサレムを訪れるが、パウロがモーセから離れる様に教えているとの噂がエルサレム教会の信者に広まっており、ヤコブ達が苦慮していた。
パウロは4人の入信者の清めの断髪の費用を負担し、4人と共に清めの儀式を行った(ヤコブ達の提案で、パウロが熱心に律法を守っている様子を見せるため)
しかしアジア州から来ていたパウロを知っている信者が見つけ、民衆を扇動してパウロを捕らえユダヤ神殿を冒涜した罪で殺そうとしていた時に、その騒ぎがローマ帝国の千人隊長の耳に入り、ローマ軍がパウロの身柄を確保した。
「パウロの取り調べおよびカイサリアへの護送」22/6−23/35
翌日千人隊長は、事情聴取のため祭司長たちと最高法院全体を招集し、パウロを彼らの前に立たせた
パウロは自分がファリサイ派であって「死者が復活する望みを持っている事で、裁判にかけられている」と弁明したところ、それを信じていないサドカイ派と信じているファリサイ派の信者達の論争になり(パウロの取り調べではなくなり)、千人隊長はパウロを兵舎へ引き帰させた
その夜パウロを怨むユダヤ人達が、パウロ暗殺の陰謀を企んだが、事前に漏れ隊長の知るところとなり、隊長は急遽、歩兵200人、騎兵70人、補助兵200人の厳重な警護により、カイサリアの総督フェリクスの下に護送した

−−−−−−−−− 取り調べ内容 −−−−−−−−−−−−−−−
千人隊長から総督フェリクスに宛てた手紙の内容は、パウロがローマ市民権を持っていた事も考慮しなければいけないが、当時のローマ帝国のユダヤ教に対する立場を示している
「ところが、彼が告発されているのは、ユダヤ人の律法に関する問題であって、死刑や投獄に相当する理由はないことが分かりました....」
ローマ帝国は、宗教上の問題を取り扱わず、治安維持の為の刑事事件として取り扱っていたのだろう
この事は、イエスの十字架が宗教に関する事件ではなく、治安維持に対する事件であり、イエスの信者達が暴動を起こして治安を乱した事に対する処罰と言う考え方に傾かせる
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「カイサリアでの監禁およびローマ皇帝への上訴」24/1−26/30
総督フェリクスは、大祭司の告発やパウロの抗弁を聞いたが、何かの事情でパウロに判決を下さず、約2年間カイサリアでの任務が終わるまでパウロを拘束した(ある程度の自由はあり、友人達が彼の世話をする事はできた)
後任のフェストゥスは着任早々、エルサレムからのユダヤ人に告発させ、パウロに抗弁させた、この中でパウロはローマ皇帝への上訴を申し出て、フェストゥスに受け入れられた
この後、ヘロデ・アグリッパ王がカイサリアに表敬訪問した折りに、パウロは自分のその場に至る経緯をすべて説明して弁明し、アグリッパ王もパウロの無罪を支持した
「ローマへ護送」27/1−28/16
ここで再び、「わたしたちが」になっているので、このローマへの渡航はルカも同伴している
カイサリアから船を乗り継いで、途中マルタ島の近くで難破したり、いろいろ苦労しながら約四ヶ月後ローマに到着した
「ローマで宣教」28/17−28/31
パウロはローマでほとんど拘束を受けずに、賃貸住宅を借りて約2年間ローマで宣教した


以上で使徒言行録は終わりですが、この後パウロはネロの企みによ
る、ローマ市の大火事の犯人として処刑されたとの伝承があります