処女降誕

処女降誕は本当にあったのでしょうか


マリアの処女降誕

イエスはマリアの処女降誕だとされている。これはあまりにも有名な物語で、キリスト教と言えばマリアの処女降誕の話が真っ先に話題になる事で、その真相をめぐっては2000年近く、「全くの嘘だよ」「いやそう言う事も生物学的にありえるんだ」「なんか別の事情を神話っぽくしただけでは」「ギリシャ神話の影響では」「婚前交渉では」「イエスは私生児では」....まあ僕も散々聞かされたのですが、キリスト教関係者の話は何処に聞いても、自分達の教会の護教的解釈しかしないし、聖書学者はあまりこの問題に興味を持ってくれないので、微力ながら聖書分析をしてみましょう。
そもそも、処女降誕の話はマタイ福音書とルカ福音書だけで、それもそれぞれさらりと触れているだけですので、それぞれの編者もこんなに問題になるとは考えていなかったのかもしれません。

マタイ福音書では

マタイ福音書1/18−1/25

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
気になるのは
聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
なんですね。
マリアが聖霊によって身ごもった事が、祝うべき事ではなく憂慮すべき事の様に描かれています。なんかの事情でマリアが不本意に妊娠してしまった事を、本来なら抗議して縁を切るところを、ヨゼフがマリアの事を不憫に思って、密かに(縁談を)無かった話にしようとした...
そうすると聖霊によって身ごもったと言うのは、一種異様な言い回しですが、要するに訳の分からない人にレイプされた事をその様な言い回しをしたのではないか...
そうすると次の文章がすんなり読めるのです
主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
マリアは確かに不本意に妊娠してしまったが、実はその子はイスラエルの民を罪から救う大事な子なんだから、マリアを妻として迎入れその子を大事に育ててくれとヨゼフを説得して、ヨゼフはそれに従ったと言う文章です。


ルカ福音書では

ルカ福音書1/27−1/35

ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
マタイ福音書とはだいぶニュアンスが違うんですよね、ヨゼフが縁を切ろうとした事が書いてないし、この後ヨゼフがどう対応したのか全く触れていない。ルカの方はどうも、マリアさんご自身が子供を身ごもった事を全く予想もしてなくて、突然降ってわいたような表現になっている。マリアさん自身が男と交わってないのに何で子供を妊娠するのか、訳が分からなくて狼狽してるんですね

ここは、ルカの方が物語の創作技術に一日の長があります。
ルカはマタイのシナリオを知ってたのでしょうが、マタイのシナリオでは人間社会の薄汚い部分が見え隠れする事に不満であったのと、イシス神話や他のギリシャ神話を参考にして、オリエント風にシナリオを変えたのだと思います


感想

まず不思議に思うのは、天使が受胎告知をしたのが、マタイ福音書がヨゼフでルカ福音書はマリアにしている事です、この違いは何でしょうか。また告知をする時期も違います、マタイ福音書はマリアが妊娠したことが周辺の人が気が付いてヨゼフに漏れたのでしょうから、おそらく妊娠数ヶ月後でしょう。一方ルカ福音書は本人が気が付いていなかったので、もしかしたら妊娠前かもしれません。
私ごときが、処女降誕の信憑性を云々したくありませんが、マタイ福音書だけ読むと何か社会制度的なもの、あるいは事件の様な物を予感させますが、ルカ福音書の方は本当の処女がある日突然身ごもって、当の本人が狼狽している様に描かれていて、むしろ物語としては純粋です。
キリスト教会はこの部分だけは、ルカ福音書の方を引用しているところが多いと思いますが、このルカ文章も
わたしは男の人を知りませんのにわたしはあまり男の人を知りませんのにだったら、むちゃくちゃキリスト教の教義を変えてしまったとも思いますし。それぞれの編者は慎重に文章を作ったと思いますが、それにしてもこれほどクローズアップされるとは予想だにしなかったのではないでしょうか


とりあえず終わりです