誤謬だらけのパウロ書簡




パウロ書簡には、さかんに旧約聖書の物語が引用されるが、パウロ一流の思い込みと、独善に満ち満ちている。
ここでは、パウロの主張と実際に引用されてる旧約聖書の物語を比較検証し、パウロの思い込みの部分をクローズアップし、キリスト教の教義とされてる物が如何に根拠の無い物であるか明確にしたい


アダムの罪

ローマ書簡5/12
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
彼はアダムによって罪が世に入り、死が与えられ、それが全ての人に及んだとしているが、はたして創世記にはそう書いてあるだろうか?
創世記3/14−19
主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」
神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する。」
神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。
お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
ここで、神は善悪の知識の木の実を食べたアダムとイブと唆した蛇に対して、罪状を言い渡しているが、その内容は現実に人間が味わう苦難以上の物では無い。強いて死が与えられたと取れる 文言は「塵にすぎないお前は塵に返る。」であるが、その前で「土に返るまで顔に汗を流してパンを得る。」としており、ここで新たに死が与えられたとするのは、甚だ強引な解釈と思われる。
さらに創世記3/22−23
主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
この神の言葉は、明らかに人間がその段階では、何時かは死ぬ者であることを前提にした言葉である。
パウロが考えるように、その段階で死が与えられたとするのであれば、それほど重要な事は罪状を言う時に、最初に次の様な神の言葉があるはずである。
「私はお前達に永遠の命を与えようと思っていたが、お前達は、私との約束を破ったので、死を与える、お前達は永遠に生きる事はできない」
そんな言葉は何処にもありません、創世記の編者にそんな発想は無かったと思います。このパウロの考え方は、パウロだけの思い込みか、何か別の事を主張するために、象徴的な意味で書いた物と思います。

イサク誕生

ローマ書簡4/19−22
そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。
彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。
神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。
だからまた、それが彼の義と認められたわけです。
はたして、アブラハムは本当に神の約束を疑わなかったでしょうか?
創世記17/17−21
アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」
アブラハムは神に言った。「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように。」
神は言われた。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。
イシュマエルについての願いも聞き入れよう。必ず、わたしは彼を祝福し、大いに子供を増やし繁栄させる。彼は十二人の首長の父となろう。わたしは彼を大いなる国民とする。
アブラハムには、奴隷の女ハガルとの間にイシュマエルと言う息子が既にいました。百歳のアブラハムは子供ができると言われても、信じることができず、イシュマエルが無事に成長して大いなる者になることを神に願ってます。つまり、アブラハムはイシュマエルの成長を担保として、神に要求してます。そしてそれを神も聞き入れ、イシュマエルも大いなる国民とする約束をしてくれたわけです。アブラハムは無条件で神を信じたのではありません。担保が得られて、神の言葉に従った事になります。パウロはこの部分を読み落としてると考えるべきでしょう。
ローマ書簡9/7−8
また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」
すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。
さて、イシュマエルは約束された子供ではないのでしょうか?
創世記16/7−11
主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、言った。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、主の御使いは言った。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」
主の御使いは更に言った。「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」
主の御使いはまた言った。「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい/主があなたの悩みをお聞きになられたから。
そして、イシュマエルも大いなる国民とする約束をしてます。
つまり「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」と言うのは、パウロだけが考えた事です。創世記ではその様には書かれてません。
イシュマエルのその後については創世記25/12−18に書かれてます。
このイサクとイシュマエルの差別は、ガラテア書簡ではもっと顕著である。
ガラテア書簡4/21−31
パウロは創世記の内容を殆ど無視して、持論で書いてると言っても差し支えないと思う


ペオル事件の原因

コリント書簡10/8
彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。
これは、ペオル事件(民数記25/1−16)の事を示しているのだと思いますが、彼はそれがみだらな事をしたためとしてます。はたしてそうでしょうか?
イスラエルがシティムに滞在していたとき、民はモアブの娘たちに従って「背信の行為」をし始めた。
娘たちは自分たちの神々に犠牲をささげるときに民を招き、民はその食事に加わって娘たちの神々を拝んだ。
実はわざわざ新共同訳を使ったのですが、「背信の行為」が他の翻訳では「みだらな行為」となってます。このパウロの言葉が影響して、この部分は伝統的に「みだらな行為」であり、キリスト教会では二万三千人が犠牲になったのが、性病感染によるとしてます。
さて性病感染は本当でしょうか?性病感染であれば、本来モアブ人女性の相手であるモアブ人男子にとっくに感染してるはずです。どうもそんな気配はありません。性病菌やウィルスが発見されたのは二十世紀になってからです。聖書の記録ではそれが性病であろうなどとはとても考えられません。
ペオルで神が怒ったのは何故でしょうか?明らかに「娘たちの神々を拝んだ。」だと思います。
イスラエルの民がモアブの娘と仲良くなったためではありません。そもそもモーセの奥さんもミディアン人です。パウロは明らかに読み違いをしてると思います。

とりあえずまとめてみます

パウロがどの様に旧約聖書を読んでいたかは、なかなか理解することが困難であるが、幾つかの事例を見る限り、パウロの思い込みが多く、反発した人達も多くいたと思います。
ヨハネ福音書では、あまり旧約聖書が引用されない理由もここらにありそうな気がします。
そもそもイエスをキリスト(救世主)として捉えてるのも、パウロの思い込みかも知れません
この様な思い込みをする人物が提唱したイエス・キリストにどれだけの説得力があるのでしょうか?
実在したイエスとパウロが提唱したイエス・キリストはおそらくズレまくってるだろうと思います。
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