あとがき

「トマス格言集」の注釈をしてほしいとのメールが8通程いただいたのですが...私ごときが注釈するには能力が大幅に欠落していますし。この方面の第一人社と思える、荒井献氏の注釈ならびに他の文献との比較を詳細に述べられている本が比較的安価で販売されていますので、そちらをお求め下さい
「トマスによる福音書」..荒井献著..講談社学術文庫..932円(税別)

98/01/29


「トマス格言集」の後書き...トマス格言集を執筆した人はグノーシス派の人と思われる。二世紀中頃キリスト教主流派(この人たちは正統派と言うが、正当性を判断するのは難しいので主流派と呼びます)は、この頃教義を一般大衆向けの物に変わっていった様である...パウロの述べた救い(パウロはユダヤ人を貧困でテロや犯罪に満ちた世界から救済する事をとなえた様に思うのだが、この頃から人類を復活への救済に導く内容に変わった様で(聖書だけ読んでるとその様なフレーズになかなか結びつかない)
この大衆化路線に飽き足らず、イエスの言葉はそれに預かる選ばれた者にしか理解できないとするグノーシス派の活動は、主流派と抜き差しならない対立を生んだ。共観福音書と比較すると面白いのであるが、格言集形式なので当然だが、イエスがどこで何をしたとか、家族のことやら、奇跡事、そして何よりも十字架の事が全く描かれていない...それでいて言行の各言葉は必ず福音書に並行文書がある、恐らく同じQ資料を基にしているのだろう、しかし微妙なニュアンスの違いがあり、福音書を意識した物だろうか
そういえば、使徒行伝のシモンの魔術的活動やヨハネ黙示録の助祭ニコライの逸脱の話、またテモテ一書簡のラストに自称グノーシスへの警戒が書かれている(パウロの時期にグノーシスがいたとは思えないので、主流派キリスト教の誰かが書き加えたものだろう)、学者はヨハネ福音書作者もグノーシス派ではないかとしているが、どういう理由かヨハネ福音書は新約聖書に入っているが、トマス格言集は物語福音書を主体にして一般大衆にイエス・キリストを説いていく主流派にとっては都合の悪い書物なのだろう、主流派とグノーシス派は対立し、主流派がローマ国教になると官憲の手によりグノーシス派は迫害を受け、強制改信、処刑、書物の破棄がなされ、ローマ帝国から表向きグノーシス派は消えていくが、あまり帝国の力が及ばない地域で、細々と読み伝えたのだろう
1945年にエジプトのナグ・ハマディ(テロ事件の起こったルクソールの近く)で粘土掘りをしていた農夫が壷を掘り出しその中から発見された(死海文書の発見に似ている!!!)...コプト語で書かれた巻き物はその後いくつかの経緯を経て(この辺も死海文書ににている)1952年にドレスとクィスペルが解読して発表された。
本屋さんに取り寄せなくとも、このホームページをプリントすればそのままテキストになりますし、ソース文をコピー貼り付けでtxtファイルにしていけば聖句検索などにも使えるので、ご利用下さい。

98/01/15


「聖書ができたプロセスについて」の後書き...多くのキリスト教団ではいまだに「マタイ福音書−収税官マタイ」「ヨハネ福音書、ヨハネ書簡、ヨハネ黙示録−ゼベタイのヨハネ」を説いている、そしてイエスの教えを弟子達が引継ぎ聖書を作り出したとしている。
実は人類はこの頼りないフレーズに何千年も引きずられてきた...弟子が引き継いだとして一体イエスの何を引き継いだのだろうか...弟子としてもマルコやパウロやルカの様に直接にはイエスに接してない人達が新約聖書の主な古文書の作者達である...マタイ伝−収税官マタイ、ヨハネ伝−ゼベタイのヨハネのこじ付けがイエスの真価性を高める為に、2世紀後半になされた(それならばイエスがなぜ直接執筆をしなかったのかという疑問はずっと残っている)。
キリスト教団体はこの曖昧さから抜け出れないまま、曖昧さを隠す為に議論する事さえなくなってしまった。弟子と言えば概ねクリスチャンはすべてイエスの弟子だとも言えるし、もっと風呂敷きを広げればそれ以降すべての人類がイエスの弟子である...これはイエスだけが神子と言うのと同じで、すべての人類は神が創造(神子)したものである、この様な大づかみの定義になりかねないフレーズの中で、イエスキリストなり自分達の団体なりの正当性を出そうとすると、幼少の頃からの洗脳教育でマインドコントロールする以外、方法がなくなったのだろうか
弟子が引き継いだと言っても、初期のイエスの追随者達は、このHPで示したQオリジナル程度の物を恐らく書物としてではなく口伝えによる伝承として受け伝えたのだろう、それらが伝承の過程で神話事、奇跡事、歴史事が付け加えられて福音書作者達に引き継がれたのだろう
福音書作者たちは、それぞれの受け止め方、スタンスにより何らかの要請なり、自己的な要求により福音書を執筆している、自分達はいくつかの福音書を比較する事ができるが同じ資料を元にしたと思える個所においてもかなりの違いがみられるのである...例えば有名なのがマタイ3−5とルカ6−20の違い、一方が「心貧しき者は...」で一方は「貧しき者は...」で神の祝福を受ける対象者が全く摩り替わっているのである...これはともに同じイエスが同じ場所での言葉として残っているので、福音書執筆者の置かれている立場により変わってしまっているのである...
「弟子達がイエスの教えを引き継いで聖書を書いた」と言うフレーズが実に空ろな表現である事が解ってもらえるだろうか、「聖書は霊感を得て書かれた」もしかり、この様な曖昧なフレーズで何となく聖書が有り難い書物の様に感じさせる手法が、今日これだけ色々な事が解析されている時代においては滑稽と言わざるを得ない。

98/01/05


「奇跡や予言の成就についてどう考えているか」とのご指摘をいただきました...奇跡を行う事がいわゆる人間の精神を高める事に結びつくのだろうか...次元の低い宗教屋が神様はすごいんだぞー、こんな大変な奇跡ができるんだぞーと言って教育水準の低い民衆に神への恐れをいだかして、大人しくさせる
予言の成就もしかり...第一その事が起ってから何十年も経ってから、予言されてて成就しましたと書いてあっても意味がありません...この様な事を口にしている宗教団体は大体そのレベルの見当がつきます。
イエスは「自分は律法学者達から抹殺されるだろう」と言う事と「いずれローマと戦闘状態になって多くのユダヤ人が苦難に陥るだろう」と予見しているが、これはいわゆる宗教的な予言ではなく世の中の状況を観て予想したもので(だから自分は予見と表現している)ある
今日の様なインターネット社会を今から50年も前に予見したマクルーハンは、その予見能力は大変なものであるが決して神がかった物ではなく高度な分析能力による物である
それからもっとふざけているのが、預言と予言をごっちゃにしている教団もあるようだが、そんなのは相手にしない方がいいでしょう
ただし、聖書に記されている奇跡の記録は、多くは誇張的要素があったり、何かを比喩している要素もあるので、なお研究の余地があります。
例えば日本の古文書で「貝殻の殻を固い石ですりつぶして傷口にすり込んだ所、たちどころに治癒しせり...」とありますが、実際やってみてたちどころには治らないのを観て、この文章は嘘だと言うでしょうか...実際、貝殻のすり身は傷の回復を早めるし、主成分がカルシウムなのでゆっくり血液に溶けて栄養(全く害が無い)になるので、最近はおおやけどの治療や手術の縫合糸にも使っている様です。「たちどころ」と言う部分が大袈裟なだけで、このご先祖様の知恵も大発見ではないでしょうか。
聖書の中の奇跡事もそういう側面があり、有名なのが水を葡萄酒に変えた話や5切れのパンを5000人に分け与え、そのパンで全員が満腹になった話など、それが何をどういう事を示しているかは今日なお議論が絶えない内容であるが、即座に事実としては受け入れない内容でも、そのまま嘘だと言い切れる物でも無いでしょう。

97/12/21


「このHPでは身分外の人達にあまり言及してないが...」とのご指摘をいただきました...至極ごもっともなご指摘で当時のユダヤにはいわゆる弱者(女性、病人、流入移民、その他)と思われる人達が多く、その上にローマの人頭税とユダヤ教の奉納金が課せられて(2重課税)おり貧困の極地ではなかったでしょうか...
それでイエスは自らこれらの人達の所に入り、癒しと施しをしている文章は随所に観れます、実際そうだったのでしょう...この点もイエスの特筆すべき事柄だと思います...ただこの点は他の多くの書物でも盛んに述べられている事なのであまり触れませんでした。
有名な山上の聖訓ルカ6.20「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである」はそういう人達への言葉でしょう...(マタイ3.5は「心貧しき者は...」になっているが、これはマタイ学派の人達が加筆修正している)
ペルーのセンレドルミノーソやイスラム過激派を見ても解ると思うのですが...熱心党の様な民族主義が蔓るのもこういう世界なんですよねぇ...

PS:少しボリウムがあって大変なのですが、Q資料(イエス言行録)をHPに載せる事にしました、福音書に慣れた人には物足りない文章かも知れませんが、イエスの素朴な姿が垣間みえるかもしれません
97/12/17

「キリスト教会について」イエスに関わる団体、書籍はいやになる程あり、それらの善し悪しについて言及するつもりは全くありません
自分がこのHPで取り組んだのは、当時の主にユダヤの時の流れや、いろいろな勢力、あるいは人物の中でのイエスであり、神子イエスとてもその家族や仲間や社会の中での存在であったわけで、長年クリスチャンであって、イエスという人物に何らかの人格付けをされた方には本文で言及している「熱心党」との関わりや「ヨハネからの離反」や「親ローマ」の様な表現はショックかも知れない
一般的な教団があまり捉えないこれらの内容が、特にイエスの政治的スタンスが、イエスと言う希に見る傑出した人物像を感じてもらえれば幸いです... 民族の趨勢が反ローマに傾く中で、一人一人にあらゆる民族の融和を説く事がどれだけ勇気のいる事だろうか、反政府のイスラム民族主義者の中に西側の文化と融合し、政府と和睦しテロを終結させるように説得している人間がいるだろうか(そういう人間はたいてい組織から抹殺される)...
戦前の日本において、西側諸国を米英鬼畜と呼び、日本は神国だから負けないとか、西側の文化は退廃してるとか...これらの触れ込みにそそのかされて国全体が戦時体制に入ってるなかで...連合軍は日本よりはるかに国力がある、この戦争は多くの国民の犠牲を伴い国力を疲弊させる、英米は断じて鬼畜などではなくその文化も決して退廃ではない等とアピールする人がいたら、投獄されたか暗殺されただろう、あるいは治安を乱したとして処刑されたかもしれない....
平和を唱える当時のキリスト教団体は、勇敢にアピールしただろうか...ただ押し黙っていただけではないか
イエスは抹殺される事を知りながらあえて、反ローマ闘争に見込みが無い事を説いて回っていたのではないだろうか...
97/12/16

「メシアとキリストの違い」のお尋ねをいただきました....
詳しくは学者に聞いて欲しいのですが、メシアとはアラム語(ヘブライ語)で油(オリーブ油...イスラエルは産地です)をそそがれし者と言う意味で、国王や高貴な人の一般的な敬称だと思います
もう一度キリストはギリシャ語のクライストがなまったもので、救世主の意味です。つまり全く意味が違います...キリストの概念は時代的な経過を追っかけるとはっきりしますが、パウロにより創り出された物だろうと思われます...
マタイ伝16/16シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」を以ってして、当時からイエスがキリストと呼ばれていたように考える人たちもいるが、ペテロが実際に言ったとすれば「メシア」だろう...ペテロや他の弟子達はイエスに実質的な国王を求めたはずです
既にイエスを失い、イエスが予見した騒乱の最中にいるパウロは、イエスに救世主(キリスト)を求めたのでしょう...
自分が説明できるのは、この程度です
97/12/01

聖書は霊感を得て書かれた物で神聖な物である...かようなご指摘を頂きました
確かにテモテ人へのパウロの2つめの書簡に(3−16)「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」とある。しかしどうもこの部分はパウロ自身の筆による物では無くて、その100年位後にだれかが加筆した物でしょう
理由は、パウロが書簡を書いた頃は福音書も使徒行伝も黙示録も無かった頃なので、聖書と言えば旧約聖書を示すのだが、西アジア各地のユダヤ人たちに「ユダヤの律法を捨ててキリストイエスを信じるように」と呼びかけているパウロが「聖書は霊感を得て書いた」などと考えるわけがないでしょう。
それにしても霊感で書いたとされる聖書にわざわざそういう文言を書き加える人の神経もよく分からないですが、この文言も神の霊の導きの下に書いたのでしょうか
例えばルカさんの福音書では、自分は生き証人や資料を調べて書いたとしていて、霊感の事など全く触れていません。
そもそも霊感と言う物がよく分からないので、霊感を口にする人に尋ねたいのですが、霊感とは感性の事でしょうか、それとも情報の事でしょうか、情報だとすればどの程度の情報量があるのでしょうか、ルカの福音書の中でどの部分が霊感からの情報なのでしょうか。
霊感を受けるとは、ある種の感性の状態になり結局その人の知識や思考力で考えうる事が思い浮かび、思い込みの状態になる事を言うのではないかと思うのですが、とても神聖などと言える物ではなく、そういう状態で書いた怪しげな物(例えばヨハネの黙示録)ならば、まじめに読まない方が良いと思いますが。
97/11/15
「イエスがローマ皇帝やヘロデ、アンティパスの様な現実政府を認めるわけがない」との指摘をいただきました....
確かにイエスはローマ皇帝も批判しているし、ヘロデごときを支持するとは思えません。ローマと協調すると言ってもローマ帝国がユートピアだとは決して考えなかったでしょう。この世に理想的な権力者などいないと思っていたのでしょう、しかしそれでもって反ローマ、反ヘロデで凝り固まって内に隠ってしまう熱心党やパリサイ派の行動からは何も生まれず、ただ悲劇を作り出すだけである事を指摘しているのでは無いでしょうか。
もう一度山上の聖訓を読んで見てください、ルカ6−27「敵(サマリア人)を愛し、あなた方を憎む者(ヘロデやローマ帝国)に親切にしなさい。悪口を言う者(アムハハレツ..流入異邦人)に祝福を祈り、あなた方を侮辱する者(ローマ人)の為に祈りなさい....」...これ以上説明する必要は無いでしょう
97/10/25


ある教団でバブテスマを受けるかどうか迷っているとのご相談をいただきました。
バブテスマを受けることはクリスチャンになる儀式だとか...歴史的に重要な事はイエスはヨハネからバブテスマを受け、その後ヨハネから離反し自らは誰にも洗礼を施していない事です。いつ頃から洗礼が入信の儀式になったのかは不明ですが、イエスが洗礼の様な儀式を認めるかどうか疑問です。
クリスチャンになる儀式と申されても、そもそもクリスチャンとは何でしょうか...パウロの言葉を考えると、イエスがさまざまな開放を行い人類を救った救世主であると信じる人を言うのではないかと思いますが...イエスは人類の何を救ったのでしょうか(これに明快な答えをいただけるクリスチャンと言っている人は、お目に掛かったことがない)
パウロの言うクリスチャンになりたいのでしたら、どこそこの教団等には入らない方がいいでしょう。


ある方から「なぜパウロの書簡や黙示録に言及しないのですか」というご指摘をいただきました...確かにキリスト教において、これらの古文書は重要な聖典だろうと思う...特にパウロがローマ人に送った書簡は自分も絶品だと思う
ローマ人への書簡から
3−21〜25 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
この言葉はキリスト・イエスのすべてを表しているのではないだろうか...

黙示録について...不承にも自分は黙示録を1度読んでしまった...読み通した事に深い後悔をしています...2度と読みたくない古文書です
ある教団ではこの黙示録がゼベタイのヨハネの作品としているが、そうすると極めて不可解な事になる...
黙示録から
1−1 イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。
ゼベタイのヨハネはイエスの身近にいた人間である、この古文書が書かれる数十年前にイエスはヨハネに伝えることができたはずで、その時点で文章になっているはずだ...(イエスは出世しない営業マンみたいに、この世へ来る前に上司(神)から重要な用件を聞かずにこの世へきて、会社へ戻ってから上司(神)に怒られて、あわてて電話で(ヨハネ君重要な話があったんだ)連絡している様なものだ。)
少し思考力のある人だったら、この古文書はゼベタイのヨハネとは関係ない人の作品であろう事は容易に考えられるし、「キリストがその天使を送って...」が、この古文書を書いた人の、たちの悪い思い込みだという事が判断できると思うが
下らない説に惑わされないように...
70年戦争の後、いつまでたってもキリストが出現せず、祖国に戻れない事から、少しおかしくなった人の作品だろう


罪へのあがないについて...パウロの書簡を読むとさかんに罪への購いの言葉が出てくる...ここで指摘される罪とは何だろう。
自分達が日頃行っている罪の事だろうか...確かに人を嫉妬したり期待を裏切ったり、町を歩けばセクシーな女性にみだらを思ったり、ハンドルを持てば駐車違反やスピード違反をしたり...しかしこういう類の罪の事を言ってるのではあるまい。
パウロがこの文章を書いているのは、イエスが処刑されて熱心党が浸透していき、ローマとの軋轢が抜き差しならない段階になっている頃である...そしてパウロは西アジア各地のユダヤ教のしがらみから抜け出たユダヤ人達に書簡を書いているのである。
パウロが最も強く指摘した罪とは、律法という規律を作りそれを人々に守らせ異民族との調和をはからない教団やそのアイデンテティを作った事であり、それが民族を破滅の道へ導いてしまう事を指摘したのではないか...
ローマ人に宛てた手紙の3/24「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けら...」「我々ユダヤ人は皆、罪を犯して神の栄光を受けら...」と書き換えれば、意味がすっきりするのですが...
97/09/23


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