終わりの日

カルト教団が好んで取り上げる終末論を検証してみました


はじめに

カルト教団が好んで取り上げる終末論は、各福音書でのイエスの言葉(マタイ福音書24章-25章・マルコ福音書13章・ルカ福音書21章・ヨハネ福音書にはない)とヨハネ黙示録の予言を基にしているのだと思いますが、本当にイエスはそのような事を言ったのでしょうか?
ここでは最初に完成したマルコ福音書で検証してみましょう

マルコ福音書13章

イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」

イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。

そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。

そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」


まず本当にイエスの言葉だろうか

私は幾つかの状況から、イエスの言葉ではなく、福音書編者の創作だと思います。
あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。
イエスの段階では信者達の裁きはなく、信者達が逮捕されるのはエルサレム教会が成立してしばらくしてからの事です。
方々に地震があり、飢饉が起こる。
いわゆる自然災害事が増えると言う予言は、まさしくカルト教団の常道手段であり、イエス程の人物はこの様な発言をしない
兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。
親族対立も、エルサレム教会以後のユダヤ教からの分派にはじまり、また山上の聖訓の様に無抵抗を訓じているとしたら、この発言とは整合しない。
民は民に、国は国に敵対して立ち上がり
イスラエルの内乱の激しくなったのは50年以降の事で、イエスの頃にこの様な発言はないと思われる
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
全てのクリスチャンに聞きたい疑問です。イエスがキリストの出現を予言しているのですが、イエスをイエス・キリストとしているクリスチャンにとって、この言葉は不可解きわまりないような気がするのですが。
どうも福音書編者もイエスをキリストとする事にためらいがあったのかもしれません。


なぜ福音書編者は終末論を書いたのだろうか

終末論の部位は明らかに、イエスの言葉ではなくキリスト教が成立する時代背景が反映している。
まもなく戦乱によって(マタイ・ルカの時点ではもう起っている)、国が崩壊する時代にあって、ユダヤ教から分派した初期キリスト教信者が迫害を受けたり困難な状況に遭っても、くじけずにイエス・キリストへの信心を貫くように訓じたのだろうか。

黙示録は誰の執筆か

ハルマゲドンの予言をしているヨハネ黙示録は福音書と全く違い、筆者の空想物語ばっかりで、どうも性格破綻者だろう、今日のストーカーや少年犯罪と性格的に繋がるものがあります。
東方系のキリスト教会は今でも聖典としては扱われていない(馬鹿臭さから取り扱いできないのだろう)し、一般のキリスト教会でも滅多に取り扱いません。
イエスの予言にも関わらずなかなかメシアが現れず、性格の悪さから諸教会からも相手にされなくなった人物と思われるので、検証に値しないでしょう
ともかくやたらギリシャ語が下手な事やバビロンやエルサレムが出てくる事から、ユダヤ系の人物だとは思いますが
編者をイエスの弟子のゼベタイのヨハネだとして、断片的に言葉を引用してる幼稚でファンダメンタルな教会もあるが、ヨハネごとき名前は聖書の中だけでも何人も登場するし、エルサレム教会の重鎮だったゼベタイのヨハネ(ガラティア書簡より)が、シリアの会衆ににつまらない書簡を送る理由も全くないし、パトモス島(エーゲ海にある)にいる事情も説明が全くつきません。

私の考え

福音書の終末論と黙視録の終末論はだいぶ違うようです。
福音書は信者が困難な目にあうが、信心を失わなければ、きっと光明が現れると行ってる様に思いますが、黙視録の方はこんな悪い世の中は何れ破壊されて、まったく違う世の中になると言う編者の妄想の様に 思います。
終末論は古今東西数限りなくある物ですので、人類が陥りやすい、病気みたいなものでしょう。
世の中が悪いと考える人(例えば黙視録の編者)達が集まれば、容易に蔓延するものでしょう。
世の中が悪いと言う人間は、その人自身に問題がある場合が多く、宗教の本来の目的が人の心に求める物であれば、むしろそのような人物を教え諭すべきだと思いますが、カルト教団は世の中の悪さを訴えそのような人物を煽って終末論を唱えるのだから、手に負えません。


とりあえず終わりです