永遠の命



「永遠の命」についての私の勝手な考え方を申し上げます、このテーマは佐倉哲さんが、精緻な分析をされていまして、私も大いに参考にしましたので、御礼かたがたご紹介いたします。
Biblical Errors (聖書の間違い)

永遠の命の考えはいつ頃から始まったか

聖書を検索して驚いたことである。「復活」と言う言葉で検索すると、新約聖書では各書であまたのヒットがあるのだが、旧約聖書では人類の復活については全くヒットしない。
また「永遠の命」について検索しても同様で、創世記と申命記で一カ所ずつ見つかるだけで、
創世記(3/22−23)
主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
は、神は人類が永遠に生きる事を拒否したものであるし
申命記(32/40−41)
わたしは手を天に上げて誓う。『わたしの永遠の命にかけてきらめく剣を研ぎ、手に裁きを握るとき、わたしは苦しめる者に報復し、わたしを憎む者に報いる。
は報復や裁きを強調する意味での言葉であり、命が永遠にあるとはとらえにくい。
それどころか、神は創世記6/3で−−主は言われた「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。−−と人の命に限りがある事を明言している
うっかりすると見逃してしまう神の言葉を、軽々しく「永遠の生命」を唱える方々は、実は自分達の思いの中で完全に無視してるんですね。
この重要な神の言葉の無視は、どうやら紀元前2−3世紀のファリサイ派の成立に始まる様です、詳しくは私も良くわかりませんが、少なくともキリスト教は神の言葉を無視するところから始まる宗教ですし、最終的にはもっとも人間らしさを露呈したイエスと言う人物をこれも本人の意思を無視して、神にしてしまった所から成立する宗教ですので、旧約聖書の解釈はかなり苦労した物と思える。
使徒言行録(23/8)に面白い記述がある「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。」
パウロはコリント書簡上(15/12)で「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中にある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか...」と言ってる事から、おそらく当時(キリスト教が成立する頃)のユダヤ教の中でも復活を信じる人達とそうではないと考える人達がいたのだろう。
パウロや福音書編者は、死者が復活して永遠の生命に至る事を明確にアピールしており、ユダヤ教から分派した(キリスト教)教団の特徴と言えそうです。

人は何故死ぬようになったか
キリスト教では、創世記のアダムとイブが善悪を知る木を神との約束を破って、食べてしまった事によるとしているが、創世記を詳しく読むと疑義が生じる所が幾つかある
創世記(2/16−17)「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず(その日のうちに)死んでしまう。」

(その日のうちに)は英語版聖書(NKJV版)では
2/17 but of the tree of the knowledge of good and evil you shall not eat,(for in the day) that you eat of that you shall surely die.
とfor in the dayの言葉が入って入るにも関わらず、新共同訳聖書は、(その日のうちに)と入れてない為に私が付記しました。

しかしながらアダムとイブは直ぐ死んだわけではなく、特にアダムは930年の長寿を全うしたので、神様のこの言葉は虚偽であり、単なる警告の為の言葉だろう。

創世記なり他の旧約聖書を読む限り、人間がいつか死ぬ運命である事を否定する言葉は見つからないのだが、新約編者はこの事件の為に、人間が死ぬようになったとしている。
例えばコリント第1書簡(15/22)「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」
しかし、創世記6/3の神の言葉は「人は肉(肉体=生き物)にすぎない(から何れは死ぬんだ)」と解釈すべきで、罪の為にとは説明していなく、もともと肉であるので何れは死ぬ物であるとしている。
復活と永遠の生命を布教する新約編者が無理な解釈をしただけの様に思う。

創世記のいい加減さ
創世記のこの部分(2/4−4/26)は、おそらく創世記の他の部分と違う人が書いた物であろう。
不可解な説明の他、時代考証が全くなされていない、はっきり言ってそれほど教養のある人物の文章ではない
2/11−ハビラ地方に良質の金や琥珀のたぐいやラピス・ラズリが産出された....
アダム一人しかいない時は何の価値も無い貴金属の存在をここで説明するのは全く無意味だ。金が大きな価値を持つようになったのは、古代文明ができて金の精錬技術が確立し、その艶やかさや希少性が確認されてからである。編者はこの経緯を全く理解していない
2/16−17善悪の知識の木の実を食べる...
そもそも善悪の知識の木とは、どんな木であろうか、何かを比喩した事の様に思うが、「目が開け、自分達が裸身であることを知り...」からは、少なくとも人間を死に至らしめる様な生物学的に有害な木の実ではなく、それにより人間がより賢くなってしまい、それが為に目が開け、裸身であることがわかったとしか説明していない
人間が善悪の知識を持った為に裸身である事を知ったとあるが、裸身である事が善悪と何かの関係があるのだろうか?、ここではアダムとイブの夫婦しかいないのだから、アダムとイブがお互いに恥ずかしさを持つのだろうか?それでは、アダムとイブはこの後アベルとカインを生んだとあって、性交渉を持ったことが示されているのだが、そのときは裸身ではなかったのか?
裸身が悪であると言う、編者の短絡的な思い込みがこの様な文章になったのだろうか??
3/4−蛇は先に女(イブ)を誘惑し、まず女から食べ続いて女が男にも渡して食べさせた。
編者は単純に女の方が知識が低く、誘惑に乗りやすいと考え、女から食べた様に描いているが。一般的にこの様な神の掟に好奇心から疑いを持つのは男で、女性は掟を破る事に慎重である。編者は女性の性格を良く知らないのだろう。先の羞恥心の所も含めて編者は独身者ではないかと思われる
3/8−アダムと女が木の実を食べた事情をしばらく知らずに、アダムに問い詰めて初めて知る...
神が全知全能であれば、アダム達が木の実を食べるであろう事を充分予想できただろうし、アダム達の行為や居場所くらいは常に把握できているはずです。全知全能と言う言葉は単なるお題目なんでしょうか
あるいは、創世記の編者にとっては、神の存在が自分達の親父程度のものだったのでしょうか
4/3−イブが最初に生んだアベルとカインの兄弟は、アベルが羊の子を神に捧げ、カインが土の実り(農産物)を捧げたが、神様はアベルの捧げ物だけ目に留めた事を、カインが憤慨してアベルを殺害した..
捧げ物の尊さの基準が曖昧です、アベルは放牧(牧畜)を営み、カインは土を耕す(農業)営んでいるのですから、それぞれかけがえのない捧げ物です。その結果発生した兄弟ケンカに対し、カインを非難するだけで、神自らの曖昧さについて何の反省もしていない
4/17−カインは町を建てて、その町を息子の名前にちなんでエノクとした...
アダムの息子の段階ではまず持って、人が少なすぎて町が成り立つのは不可能である。町と言う物は、沢山の住民がいて、言語や貨幣や流通や工業が発明されて成り立つ物で、もっと後の古代文明が成立してからの産物である、編者はその辺の思考力が完全に欠落しているうえに、先の2/12で神がカインに対して予言した「地上をさまよい、さすらう者となる。」の言葉を忘れてしまっている。
4/25−アダムは再び妻をめとり、セトをもうけた...
4/25−4/26は次の5章からの話しと整合させるために、原作文に付け加えた文章の様にも思えるが、アダムが再び妻をめとると言っても、自分の娘か孫のはずで、ものすごい近親相姦である、これはカインの妻についても同じである、人類がアダムとイブという一対のカップルからできたとする神話の無理が、この様な不可解な説明をする事になっのだろう

カインからレメクに至る家系は5章以降とかなり違い、カイン−エノク−イラド−メフヤエル−メトシャエル−レメク−ヤバル・ユバル・トバル・ナアマ(女)となっていて、アダムからエノクまで2代、レメクまで6代だが、5章以降の系図には、そもそもカインとアベルには全く登場せず、アダムの最初の子はセトでセト−エノシュ−ケナン−マハラルエル−イエレド−エノク−メトラシェ−レメク−ノア(箱船の)と続きエノクの登場までに7代、レメクまでは9代と整合していない。

創世記の1/1−2/3の編者とこの2/4−4/26の編者が違う事は、多くの学者が指摘している事なので触れないが、人間が死ぬようになった経緯が、創世記の中でも一番信憑性の低い物語を基にしている。ファリサイ派の信者や新約編者はこの部分の説明にそうとう苦労しただろうし、それは現在のキリスト教においても脱却しているわけではない

復活するとどうなるのか
新約の編者たちは、死後人間が復活してどの様な世界に行くのかを、説明していない。
イエスの権現の様に、この世へ復活すると考えたのだろうか

神の国(マタイ福音書では天の国)
福音書では神の国の到来を予言している。ルカ福音書(13/18−13/20)では、神の国が「からし種」や「パン種」の様に蒔くとやがて実になり、大きく成長する例えで表現されており、この世において次第に神の国が成長する様に描かれている。
またルカ福音書(17/20−17/37)ではイエスがファリサイ派の人に向かってには、神の国が「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と発言していて、さらにこの世に起こることを示している
新約編者にとっての神の国は、少なくともこの実社会における存在だろう

最後の審判との兼ね合い
最後の審判(終末思想)は旧約聖書に多く見られ、紀元前500年頃から始まる列強の支配以後に書かれた物は全部書かれていると言っても良い、列強が支配する世の中がいつか審判が下され、メシアが到来すると考えたのだろう。

新約においてもヨハネ黙示録には、最後の審判を書いているが、黙示録の編者はパトモス島からシリアの諸教会に対して、つまらない書簡を送って説教しており(2/1−3/22)、その文面やその後の文章の内容からして、思い込みが激しく、自己中心的で、今日にも良く見受けられる所の単なる反社会分子の性格がうかがえ、おそらく諸教会からあまり相手にされなかったのだろう。
パウロ以降、多くの異邦人に宣教されて、異邦人信者が多いはずなのに、最後の審判の時に刻印を押されるのがユダヤの12部族から14万4千人であったり(7/5−7/8)、大淫婦の裁きの話しがあったり(17/1−17/18)、500年以上前にペルシャに滅ぼされたバビロン帝国を持ち出したり(18/1−18/24)で、編者はユダヤ系の偏屈した性格の人物であろう。

「最後の審判」とパウロや福音書編者の言う「復活や永遠の生命」とは何ら兼ね合う物ではない
一部ヨハネ黙示録のハルマゲドン(最終戦争)の話しから、楽園と地獄の概念に近い物を唱えている教団もあるが、とりわけ信者に善行を行う様に唱えているわけではなく、神への恐れを説明しているだけなので、信者が教団から脱会するのを防止する為の教義だろう

旧約聖書の編者は
旧約聖書の編者が、「復活や永遠の生命」についてほとんど興味が無かったことは、佐倉さんの 「死後の世界」 をご覧頂ければはっきりします。
旧約の編者には、「永遠の生命」の概念は全く無かったのでしょう

天国と地獄
死後の世界に天国と地獄があり、信者の行いの善し悪しにより、審判が下されると言う概念は、仏教やイスラム教にあり具体的にどの様な世界かも説明しているが、大衆宗教として一般信者に善行を行わせる為のプレッシャーとして考えられたのだろう。
新約聖書にも、楽園の言葉は数カ所見受けられるが内容は全く不明、またいろいろな罪を犯した時に地獄(ゲヘナ)に投げ込まれる言葉があるが、具体的にどの様な世界かを詳しくは説明していない

私はどう思ってるか
創世記だけ読むと、ヤハヴェ(エホバ)の神は、初めから人間が何時かは死ぬ様に、生き物として創造したが、人類が神との約束を破って「善悪の知識の木」の実を食べて、永遠の命を得る可能性を得た為に、エデンの園から追放して、その機会を失わせ、約1700年後、その寿命を長くても120年としたと解釈すべきだろう
しかしこの内容に、新約の編者は不満だったのだろう。
それがアダムは永遠の生命を与えられていたにもかかわらず、神との約束を破って善悪の知識の木の実を食べたが故に死ぬようになったと言う理解しがたい(善悪の知識の木の実を食べて何で死ぬようになるか???)解釈になり、神の言葉を無視するようになったのだろう。

イエスやその後の宣教師によって、一般大衆に布教されていくとき、病疫や戦争で簡単に人が死ぬ世界では、死後の希望(永遠の生命)を唱える事は、多くの信者を獲得する武器になるのだろう。

今日においても「復活と永遠の命」「最後の審判」「神の国」「天国と地獄」は、カルトの新興宗教が断片的に好んで使い、信者獲得の武器にしているが、概念的にはそれぞれ違う思想や背景から出てきた物が、不可解な絡み合いをしてるだけだろう、それぞれについてしっかりした概念や定義を聞いた事がない

私は人から死後の世界を尋ねられると、あなたはこの世にくる前は何をしてましたかと尋ね直すことにしています
この世にくる前の世界の事を記憶している人は一人もいません。私もこの世にくる前に何処かで何かをしていたかも知れませんが、実はその記憶が全くありません
だから死後何かに生まれ変わるとしても、今の自分の記憶なり、自分の属性が継承されるのだろうか、そうでなければ、新たな肉体で記憶なしから始まるのだから、それはそこで自分とは関係のない新たな命の誕生と同じです。
霊や魂は肉体に宿るものですし、生まれて育ち、言葉を覚え、人を覚え、家族や学校や社会の中で学び、いろいろな事に遭遇し、いろいろな人に出くわして、ごくごく希に勉学し、時に考え、時に悩み、時に喜び、時に苦しんで出来上がったのが今の自分の霊や魂です。殊更自分の霊や魂は自分の肉体がそれを維持できなくなった時に終焉する物と考えています。

とりあえず終わりです
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