マグダレーネ・マリア...無限の愛


イエスが最も愛した女性...マグダレーネ・マリアについて調べてみた

1  おいたち
   マグダレーネ・マリアについては2つの顔がある。
   純粋で優しく、素朴な生活をし、信仰心に満ちているマリア。
   もう1人は罪の女であり、悪霊にとりつかれたマグダラの娼婦。
   ルカ福音書8−1〜3ではガリラヤにおいてマリアが重度の精神障害を引き起こして
   いて、イエスグループの治療により回復し、他の多くの女性と共にイエスに仕える様
   子が描かれている。(マルコもマタイも伝えていないが)
   生まれ育ちはイエスと同じ様にガリラヤで、ガリラヤ湖西岸の町マグダラと推測され
      る。

   −−−−−−−−−−−−−−−−− 解説 −−−−−−−−−−−−−−−−−
   ルカ福音書(7/36−7/50)に描かれている「罪の女」と「七つの悪霊にとり
   つかれたマグダラの女と呼ばれるマリア」との関連は、歴史的にかなり論議されたら
   しい、しかし近代に至るまでその論議は、その時代の政府(教会)の、性モラル向上
   維持の都合から同一人物としている物が多く、純粋に一人の女性が二つの顔を持つか
   どうかは、あまり論議されていない。私は幾つかの理由から別人としている。

   1...七つの悪霊にとりつかれた(重度の精神障害)女性が、それなりの接客をし
       て、男にサービスをする事は不可能である。

   2...イエス達のカウセリングにより、正常に回復したマリアは、イエス達の保護
       のもとにあり、思想的にも経済的にも罪を犯す必要がない事。

   3...イエスによって罪を許された「罪の女」については、その後の動向が一切描
       かれていない。
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   以後イエスグループと行動を共にし、イエスが処刑された時も、その遺体を引き取り
   (弟子達は逃げている)、3日目に遺体が消えたのを確認したのもマリアであり、マ
   タイ福音書28−9においてはイエス死後、最初に顕現したのもマリアである。
   ただし、コリント書簡15−3〜8では顕現したのはペテロを代表とする弟子達とし
   ているのと矛盾している。
   イエス死後しばらく、自分の姉妹とイエスの母と一緒におり、エルサレム教会発足時
   の120人(使徒言行録1/14−1/15)の中にも交わっていたと思われるが、
   その後聖書から姿を消す。

2 罪の女
   3つの共感福音書では、「罪の女」とマリアとの関わりが全く示されていない。
   ヨハネ福音書11−1〜2ではベタニア出身のラザロの兄弟のマリアがイエスに香油
   を注ぎ(イエスの)足を(マリアの)髪の毛で拭っている様子が描かれている。
   ルカ福音書7章における「罪の女(遊女)」がマリアであるかどうか不明であるが、
   ヨハネ福音書では、意図的にルカ福音書の読者が「罪の女」=マグダレーネ・マリア
   を想像する様に書いた物かもしれない。

   主流派(グノーシスと対立している)教会が、2−3世紀ごろ「教会の慈悲によって
   」「行いを悔い改める」「売春婦」のモデルとして「罪の女」とマリアを同一視して
   売春婦への宣教を裏付けたのだろう
   つまり聖書が成立しだした(1世紀後半)段階では、ユダヤ教で差別された「罪の女
   」に寛容であって、その段階では、「七つの悪霊にとりつかれたマリア」を、多く付
   き従ってきた女性の代表としての役割で扱っていただけの物が、「男性中心でSEX
   否定的な宗教」=初期カトリックにおいて、信者が清廉潔白であるための代償として
   の宗教上、制度上の基礎を与えたのではないかと考える。

   「売春」...人類最初のサービス業...恐らく人類が貨幣制度を発明した頃から
   存在しただろう、二重課税で貧困の極にあった当時のイスラエルでは、その日のパン
   の為に「売春」をしたと思われる、そしてイエスはその様な人たちとも交わっていた
   事が、福音書でいくつも見受けられ、「罪人」「徴税人」「病人」と同様の扱いで描
   かれている。
   イエスのこれらのユダヤ教における差別された人達への宣教は、各福音書での前半の
   重要なテーマである

   3 グノーシスでは
   グノーシス派文書では、とりわけマグダレーネ・マリアは重要人物で、彼女の名前の
   福音書すらある。グノーシス文書では、ペテロと対比されてイエスの弟子として登場
   している物が多く、このマリア福音書でも、マリアとペテロのやりとりが主な内容で
   ある。
   トマス言行録(114)では、ペテロが「マリアは我々(イエスグループ)を去った
   方がいい、女たちは命に値しない...」に対しイエスが「見よ、私は彼女を導くで
   あろう、私が彼女を....彼女達が自分を男にすれば、天国に...」と言ってい
   る。
   フィリポ福音書(55−56)には「伴侶はマグダラのマリアである。イエスは彼女
   を弟子たちよりも愛した。彼は彼女の口にしばしば接吻した。弟子達が(イエスに)
   「なぜ私たちよりも彼女を愛するのですか」、イエスは(弟子達に)「なぜ私が彼女
   の様にはお前達を愛さないのだろうか」
   グノーシス文書には、マリアを除いて女性を負的に扱っている物が多いらしい、先の
   トマス文章でも「自分を男にすれば...」は、女性を見下げた表現にとれる。
   グノーシス(覚知)は、性を超越した境地であり、世俗的に男女関係を説いている主
   流派教会を批判しているのだろう
   トマス言行録(114)も、その意味では男は男を棄て、女は女を棄てる事を意味し
   ているのではないだろうか...
   だからトマス文章の「自分を男にすれば」は「自分の女を棄てれば」の意味の様に思
   うのですが....   
   
4 イエスと
   イエスが愛したマグダレーネ・マリアは、純粋で優しく、素朴な生活をし、信仰心に
   満ちて、素朴にイエスを敬愛したマリアだろう。
   2人の間に性的関係があったかどうかは不明であるが(そういう問題が重要な事だと
   は思えないが)、イエスについての親族関係を母マリアを除いて尽く否定している(
   父ヨゼフを養父とし、4人の兄弟と複数の姉妹を従兄弟としている)聖書および初期
   カトリックの解釈から、マリアが愛人であると言う言葉を読みとる事は不可能である
   しかしイエスの遺体を引き取り、その墓を管理し母マリアと一緒に行動しているマリ
   アの光景は、単なる付添人マリアではない。人間イエスを探し求める者にとっては、
   性的関係を否定しなければならない事情は全くない。

とりあえず終わりです


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