風化したハルマゲドン


070322追記
1...千年統治のキリストは、イエスではなく、ペルシャのキュロス王ではないか
黙示録には、1章と20章に「キリスト」があるが、1/1〜8は
*1/9から自己紹介が始まるが、この書き出しはパウロ書簡などの書き出しと
 同じである。
*1/1の冒頭から「イエス・キリストの黙視」とあり、この形式はマルコ福音書の
 冒頭と同じである(マルコ福音書の冒頭も後代の書き足しである事は、田川
 建三氏の”書物としての聖書”を参照してほしい)ある。
*他の部分と重複する内容があり、パトモス島に幽閉されたヨハネが書くとは思
 えない。
*1/9〜では一度も書かれていないヨハネと言う固有名詞は、如何にも他人が書いた物である

等の理由から後代の書き足しだろう。とすると、ヨハネ自身がパトモス島において書いたキリストは、20章だけになる。
一方20章のキリストは、その内容はイエスとは特定できない。
地上の統治者としてのイエス像は、聖書の他の如何なる文章においても描かれていない。
20/4の「イエスの証しと神の言葉のために、首を刎ねられた者たちは、....生き返って、キリストと共に千年の間統治した」とあり、イエスとキリスト同じとは言いきれず、別客体の可能性も考えられる。
他にもいくつか状況説明がつけられるのですが、それじゃ誰を想定してキリスト(メシア)としたのかと、問われると私はヨハネ黙示録から遡る事600年ほど前に、バビロンを破り捕因のユダヤ人たちをユダヤに帰還させて、神殿再興の支援を約束したペルシャのキュロス王(この人は異邦人としては異例にメシアとして称えられてる)ではないかと思います。
キリストの暫定統治は1000年と書かれてるが、ペルシャのユダヤ統治は約300年程であり、また同時期に書かれた外典エズラ記では400年とされており、外国の然るべく統治者を期待したとしても、それ程想定外の数字ではない。
2...1/12〜16の口から刃物を出す「人の子」はイエスではないのではないか
新約聖書の福音書に出てくる「人の子」は一般的にイエスの事だとされてます。私はこれについても疑問を持ってるのですが、この件については現在調査中です。
旧約においても「人の子」はあまた出てきますが、どちらかと言うと蔑まされた民を言う事が多い様に見受けます。
*1/12〜16の「人の子」の姿は、あまりにも人間離れしている。
*1/18の「私は...死と陰府の鍵を持っている(番人)」は、イエスに相応しく
 ない。
*その「人の子」の指示で書かれた諸教会への手紙の内容は、概ね人を裁く内
 容である。
*黙示録の「人の子」は、エノク書に描かれている「人の子」と多くの共通する物がある。
 詳細はエノク書46章・62章等を参照されたし。
*黙示録の編者はダニエル書7/13・8/17・10/16などの「人の子」も意識
 したのだろうと思われるが、少なくともダニエルの編集の時期に、イエスと言う固
 有名詞を持つ「人の子」は存在しない。またダニエルが「人の子」に求めた事柄
 と黙示録が示している「人の子」の役割は全く違う。
はじめに

ヨハネ黙示録はその特異な文章や物語の内容から、現代においてはたびたび映画やアニメのテーマに使われる。また20世紀においてはしばしばカルト教団が引用し、世紀末を主張している。その是非はともかくとしてここでは、いつ頃どういう人物が何を描こうとしたのか、まとめてみましょう
本文にはいる前に
1−編纂年代・場所・人物像
  ヨハネはAD95年に、エフェソスでキリストの教えを広めたかどでドミティアヌス帝に
  よってパトモス島(エーゲ海にある小さな小島)へ追放されたが、97年に皇帝が亡くな
  るとエフェソスに戻り、そこで没したと言われている。
  彼は流人の島パトモスの洞窟で神の声を聞き、黙示録を書いたと言われていて、観光名所
  になっている洞窟の天井には神の声によって裂けたという3つの割れ目がある。
  黙示録には洞窟や天井の割れ目の事などは記録がないので、観光名所にするためのフィク
  ションでしょう。
  長年イエスの弟子のゼベタイのヨハネと同一人物とされていたが、まず年代的に符合せず
  またエルサレム会議(AD48−9年頃、パウロ等異邦人の多い教会の祭司達との会議)
  で、異邦人が律法に従わない事を容認した時のエルサレム教会の指導者(ガラティア書簡
  )とすれば、思想も主張も違う。ゼベタイのヨハネはAD68−74のユダヤ戦争まで生
  きていたとすると、教会史(エウセビィオス)に書かれているように、他の信者と共にヨ
  ルダン川東岸のベラに移り住んだと思われる。
  黙示録のヨハネは、刻印を押される14万4千人がユダヤ系の12部族に限定される(7
  /5−7/8)としたり、最後の審判の後に作られる新しい天と地(21/1−)の言及
  が、エルサレムの宮殿に限定(21/9−21/27)される事から、異邦人との交流の
  多かった、エルサレム教会の流れを汲む教会とも違う(もちろんパウロ達の異邦人系の教
  会とは異質)、ユダヤ系のキリスト教会の祭司と思われる。
  ドミティアヌス帝はクリスチャン達に、皇帝崇拝を強要し、抵抗する者達を流刑にしたり
  処刑したりしていた。このあたりはエピファネス(シリア)のゼウス崇拝を拒んで、迫害
  されたダニエルの編者に共通する物があり、エピファネスを追い出したマカベアを意識し
  たと思われ、それがイエス・キリストの1000年統治(20/1−20/6)なのだろ
  うが、イエスが死んで60年以上も経ち、エルサレム崩壊やドミティアヌス帝の迫害の様
  に一向にユダヤ人にとって事態が改善されない事に、厭世観を持っていたのだろう
  13/18にある666の数字の意味は、ネロの事(666をヘブライ語のアルファベッ
  トに逆変換するとネロに近い)だそうですが、ネロの様な暴君が現れ、ユダヤ人を迫害す
  ると言う事で、ドミティアヌス帝を言いたかったのでしょう

2−編者の性格
  編者ヨハネについて、奇想天外な動物や想像力逞しい天界の様を描く所から、精神異常者
  ではないかとも思われ、その研究もされている様ですが、私はむしろ2章・3章の諸教会
  への抗議文から、偏屈で頑固で思い込みの激しい性格を想像してしまう。
  また、14/4−の様に14万4千人が童貞の男子に限る事や、12章の女と竜、17章
  の大淫婦の文章から、女性に対して特殊な偏見した感情を持っていた事が分かる
  これらの人物像は、とても人から好かれたり信頼されたり、敬意を持たれる人物像は描け
  ない。ヨハネはドミティアヌス帝に囚われ、パトモス島に流刑にされたとされるが、テモ
  テの様にすぐ釈放されたり(ヘブライ人の書簡)、捕まらないクリスチャンも大勢いたの
  であり、この性格が災いして、クリスチャン仲間から疎んじられ、官憲と他のクリスチャ
  ンが手を組んで、ヨハネを流罪にしたのかもしれないと想像してしまうが、あくまで想像
  の域を脱しません。

序章と諸教会への抗議文...横柄な性格の編者(黙示録1/1−3/22)
「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。」
で始まる、ヨハネ黙示録だがこの文章もよく考えると、ヨハネがあまり能力のない司祭である事を示している。
イエスはAD30−32頃十字架で処刑されたのであるが、ヨハネが黙示録を書く数十年前まで、この世に実在していた人です。キリストが天使を送って僕ヨハネに伝えるべき情報は、実在している時に弟子達に説明されてるハズです。
ヨハネは、弟子達の伝承をしっかり受け入れる事ができない為に、直接キリストからのお告げに頼った事になりますし、イエスが神の御言葉をこの世の人達に広める為にキリストが受肉したとするならば、イエスのメッセンジャーとしての役目を疑ったり無視した事になります。
1/1の言葉は、イエスの教えに従って宣教活動をしている聖職者を冒涜している物ですし、信者を見下げた横柄な言葉です。
以下諸教会への抗議文が続きますが、編者の性格を分析していきましょう
序章(1/1−1/20)
序文と自分の置かれている境遇と7つの教会への教会へ抗議文を送る経緯が描かれています。天のイエス・キリストを
1/13−16
燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。
その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。
右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と表現している。福音書のイエスとはだいぶイメージが違って人類愛のイエスではなく、裁きを行う大魔人の様なキリスト像を描いています、これがヨハネの描いたキリスト像なのでしょう。
諸教会への抗議文(2/1−3/22)
7つの教会への抗議文が示されています。以下それぞれの教会への抗議内容とヨハネの主張を整理しましょう
 1−エフェソス教会(2/1−2/7)
前半はエフェソス教会の司祭達の苦労を労い、偽使徒を見破った事を評価しているが、信仰心が薄くなったと批判し、悔い改めなければキリストが燭台を取り除く(処罰) すると言っている
ニコライ派(初期グノーシス派?)を排除した事を評価している
最後に勝利を得る者(??)には、神の楽園の命の木(創世記で永遠の命を得る木とされ
神はアダムとイブが食べる事を拒絶する為にエデンから追い出したとされる)を(キリストが)
食べさせると言ってる
 2−スミルナ教会
自称ユダヤ人がスミルナ教会を非難しているが、そのユダヤ人はサタンの集い(??)に属している者であり、非難を恐れず投獄されても、死に至るまで忠実であれば命の冠が得られる
最後に勝利を得る者は、第2の死(21章の最後の審判の後の死)から逃れられる
 3−ペルガモン教会
ベルガモンには、サタンの王座(弾圧するローマ帝国の勢力か?)があり、信者アンティパスが殉教している、さらにニコライ派に属する者がいたり、異教もあって、悔い改めよさもなくば、キリストがそれらの者達と戦う、最後に勝利を得る者はマンナ(出エジプト記に出てくる、食糧難の時に食べたマンナ虫の分泌物)を与えよう。
 4−ティアティラ教会
ティアティラ教会の司祭にも前半は労いの言葉であるが、イゼベルと言う女が信者にみだらな行いをさせ、偶像に捧げた肉を食べさせているが、そのイザベラを悔い改めさせずにいる事を非難している
キリストは、女を床にふせさせ、この女に近づいている者を苦しませ、その子供達を打ち殺す
 5−サルディス教会、6−フィラデルフィア教会、7−ラオディキア教会 は省略します。
ヨハネがどれだけお偉い様なのか知らないが、まるでキリストの代弁者の如く口調で、偉そうに諸教会に説教している。
エフェソス教会には楽園の「命の木」を与えると言っており、「命の木」は、創世記(3/22−24)にある様に、永遠の命に至る木であり、神は人類が永遠に生きる事を阻止する為に、アダムとイブをエデンから追い出した物で、ヨハネはその事情を理解していない様だ。
ベルガモン教会にはマンナを与えると言ってるが、マンナは出エジプト記(16/31−33)、民数記(11/5−9)にある、エジプトから帰還した時の食糧難の折りに食べたいわば非常食で、食料事情が良いときは食べない物である。民数記にもエジプトでの食生活が忘れられず、仕方なくマンナを食べている様子が描かれている。とても褒美としては用いない食べ物だろう、ヨハネは民数記を読んでいないのだろうか。
ペルガモン教会とティアティラ教会には、偶像にささげた肉を食べる事と、みだらな行為を追求する文章が見れる。確かにエルサレム会議で決議された禁止事項なのであるが、偶像の肉の問題はコリント8章でパウロが論議している様に、教会の司祭クラスの人間は重々承知の事である、さらに淫らな行為はヨハネの道徳観による物なので、はたして一般司祭の道徳観で淫らな事であったかは分からない
エフェソス教会に対して、愛の無さ(2/4−)を追求し悔い改めなければ、燭台を取りのける(破門?裁き?)と言っている。愛の無さはどう言う基準で判断するのだろう、ヨハネの感性による物以外になさそうな気がするのだが、それに対して破門や裁きを口にするのは、ヨハネの知的水準を示している
まだあるのですが、ヨハネの聖書の知識は断片的で、しかも自分本位の解釈で、文章に全く知性も感じさせません。まるで現在のカルト教団の教祖みたいな物でしょう。このメールを受け取った教会の司祭達は「あの馬鹿司祭は、ずっとパトモスに閉じこめておいた方が良い」と思ったのではないでしょうか


天上の礼拝からハルマゲドンまで...倒錯した世界(黙示録4/1−16/21)
黙示録の4/1−20/15は、その他の部分のと編者が違うのではないかと思います。この部分を要約・注釈する気は、相当期間起こらないと思いますので、他の優れたホムペを参照する事をお勧めします。
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何も書かないわけにもいかないでしょうから、ここの部分で幾つか自分が調べた物事を説明します。

14万4千人の人身御供
7/4−7/8に示される、12の部族の14万4千人がどういう役割を持っているのか調べたい。
12の部族名は伝統的にユダヤの12部族として示されてるが(民数記26/19−37)、バビロン補因 の前のアッシリアによる北イスラエル制圧の時に大半は行方不明になったと言われてる。エズラ記に示されてる部族名は民数記とは全く違ってるのはその為だと思われる。
黙示録の時期に確かなのはユダ部族位の物だろう、ヨハネは民数記の方を採用したわけだが、象徴的にユダヤ人全部族からと言う意味と思われる。
さて、その使命であるが、14万4千人は14章で再び登場し、その要件を確認すればさほど謎めいた役割でもない。
14/3 彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老の前で、新しい歌のたぐいをうたった...
14/4 彼らは、女に触れて身を汚したことのない者である...
     この者たちは、神と子羊に献げられる初穂として、人々の中から購われた者たちで、
     口には偽り偽りがなく、とがめられるところのない者たちである。
これだけの文章があれば、この14万4千人は、罪深きユダヤ人の為の人身御供と考えて良い。
黙示録より数十年前は、イエス・キリストがユダヤ人の人身御供であったのだが、恐らくイエス・キリストが、神と同質の者と捉えられ、一方クリスチャンにとって全く事態が改善されないために、別の人身御供を必要としたのではないだろうか?
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大淫婦の裁きから最後の大審判まで...1000年後の預言(黙示録17/1−20/15)
黙示録の4/1−20/15は、その他の部分のと編者が違うのではないかと思います。この部分を要約・注釈する気は、相当期間起こらないと思いますので、他の優れたホムペを参照する事をお勧めします。
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1000年統治で蘇るのはだれ?
これもさほど難しくはないと思います。
20/4 わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。
額や手に獣の刻印を受ける者とは、
13/16−17 また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。
そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。
で示されてる、過酷なドミティアヌス帝の弾圧を示してるのだが、それに抵抗して処刑された者をしめしてる。...また2/13の証人アンティパスの殉教も念頭にあるのだろう
**一部の教団では、14万4千人の人身御供と、殉教した信者を混同してる様に見受けるが、1000年統治で蘇るのは、あくまでドミティアヌス帝の弾圧によって殉教した者達であって、14万4千人の神と子羊に献げられる初穂として、人々の中から購われた者たちではない。
大審判で裁かれるのは誰?
これもさほど難しくないと思います。
20/8−9 地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。
彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。
これに引き続き
20/12−15 わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。
海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。
死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。
つまり、68−74年のイスラエル戦争で「聖なる者達の陣営と、愛された都とを囲んだ」人達で、概ねローマ軍の事を示してます。
従ってこの大審判とは、現代で言うと戦争裁判だと思います。「命の書」とは、審判調書です。A級戦犯、B級戦犯、無罪などの言葉を挙げれば、解りやすいと思います。
**これも多くの教会で、全ての人が裁きを受けると誤解してる様ですが、それは
22/15 犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。
で示されてる人達の存在が矛盾します。
この人達は、その地域の通常の官憲が取り締まる人達であり、大審判で裁く対象者には入ってません。
多くの教会は、閻魔様が天国と地獄を振り分ける様な話があった方が、信者の仕付けになると考えて、大審判は全ての人に及ぶと考えてるのでしょうか?


新しい天と地...エルサレムしか描けない民族主義の主張(黙示録21/1−22/21)
最後の審判が下り、新しい天と新しい地を予言しています。その地では死もなく(永遠の生命)悲しみも嘆きも苦労も無いとしています(21/4)。
その後新しいエルサレムを説明しています。エルサレムの宮殿(神殿)についての、詳細な説明がされています(21/11−21/21)が、それ以外に描いているのはエルサレム周辺だけです(22/1−22/5)
さらに大審判の裁き(20/12−20/15)があって、忌まわしい人間は滅ぼされたハズなのですが、汚れた者、忌まわしい事と偽りを行う者が都の外に存在する事を示しています。そのもの達を都には入れず、都に入るときのIDチェックをするとしています(21/27・22/14−22/15)。大審判の裁きは一体何なのでしょう、大審判の裁きや新しい天と地とはエルサレムだけの事なのでしょうか、ヨハネの知的水準の低さを露呈した言葉でしょうか??
最後に黙示録に加筆や削除を禁止している言葉がありますが(22/18−22/19)、そこでも「命の木と聖なる都から」としています。
おそらく4/1−20/15のシナリオを十分理解しない編者が、自らのエルサレム崩壊の体験や、その後のユダヤ人の苦難に接した(エルサレム周辺の)聖職者だった人物が、聖地エルサレム再建の夢を託して書き上げた物ではないかと思います。

以上で終わりです