モーセの出エジプト



モーセの出エジプトの物語は、殆どがフィクションである


モーセ5書は、BC7世紀に書かれたとされる申命記を除いて、バビロン捕因からパレスチナに帰還する時期(BC6〜4世紀)に書かれたとされる。
キリスト教団においては、長らくモーセの編集としていたが、BC13世紀に出エジプトしたとされるモーセが編集したとするには、全く時期的に合わない。
出エジプト記の記事の信憑性を、実際に出エジプト記が編集されたBC6〜4世紀よりも前に書かれたとされる列王記・申命記・士師記・サムエル・ヨシュア記などの記事と照合してみた所、出エジプト記の記事の殆どがフィクションではないかと考えられるので、それをまとめてみました。

過ぎ越しの祭り

列王記U23/21〜23
王はすべての民に命じて言った。「この契約の書に記されているとおり、あなたたちの神、主の過越祭を祝え。」
士師たちがイスラエルを治めていた時代からこの方、イスラエルの王、ユダの王の時代を通じて、このような過越祭が祝われることはなかった。
ヨシヤ王の治世第十八年に、エルサレムでこの主の過越祭が祝われた。
ヨシア王(BC640〜609)の治世18年と言うと、BC622になります。
「この契約の書」と書かれているものが、モーセ由来の律法書とされる物ですが、はたして当時の書物がBC13世紀からBC7世紀まで保存できただろうか?。
誰も開けなかった事も疑問ですし、BC13世紀にヘブライ語などあったのだろうか?
明らかに当時の神官による捏造です。
ヨシュア記5/10〜11
イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕刻、エリコの平野で過越祭を祝った。
過越祭の翌日、その日のうちに彼らは土地の産物を、酵母を入れないパンや炒り麦にして食べた。
ヨシュア記が書かれたのも、BC7世紀とされています。
列王記にしても、ヨシュア記にしても、出エジプト記の様なモーセに係った物語ではなく、イスラエルのある部族の祭りだった様です。
それを、BC622にヨシヤ王がエルサレム(首都)で、国家的な祭りとして制定したのが、列王記の記事です。
出エジプトの過越祭の記事(出エジプト12/1〜28)は、この部族の祭りだった過越祭をユダヤ人の伝承的英雄であるモーセに絡めて、祭りの権威付けを図ったフィクションでしょう。

YHWHの啓示

士師記18/30〜31
ダンの人々は、自分たちが拝むために例の彫像を立てることにした。またモーセの孫でゲルショムの子であるヨナタンとその子孫が、その地の民が捕囚とされる日までダンの部族の祭司を勤めた。
こうして、神殿がシロにあった間、ずっと彼らはミカの造った彫像を保っていた。
士師記が書かれたのもBC7世紀とされてます。
出エジプトのYHWHの啓示の記事(出エジプト3/14〜15)が真実だとしたら、士師記の編者はモーセの孫(ヨナタン)とその子孫が偶像崇拝をしている神殿の祭司をしていたなどと言う伝承を書くだろうか?
申命記32/8〜9
いと高き神が国々に嗣業の土地を分け、人の子らを割りふられたとき、神の子らの数に従い、国々の境を設けられた。
主に割り当てられたのはその民、ヤコブが主に定められた嗣業。
申命記が書かれたのもBC7世紀とされてます。
出エジプトのYHWHの啓示の記事(出エジプト3/14〜15)が真実だとしたら、申命記の編者は、YHWHがより高位の神からイスラエル地域を御拝領いただいたなどと言う記事を書くだろうか?
出エジプトのYHWHの啓示の記事(出エジプト3/14〜15)の記事も、あたかもYHWHがユダヤ人の伝承的英雄であるモーセに啓示したかの様なシナリオにして、YHWHの権威付けを図ったフィクションでしょう。

モーセの出自とアロンとの関係

ヨシュア記24/5
わたしはモーセとアロンを遣わし、エジプトに災いをくだしたが、それはわたしが彼らの中にくだしたことである。その後、わたしはあなたたちを導き出した。
サムエルT12/6
サムエルは民に話した。「主は、モーセとアロンを用いて、あなたたちの先祖をエジプトから導き上った方だ。
出エジプトのモーセとアロンは血縁関係として描かれているが、出エジプトより前のヨシュア記やサムエル記には、その様な記事はない。
また、出エジプト記において、モーセはレビ族出身であるかの様に描かれているが、出エジプトより前に書かれた書物に、モーセの出自を示す記事はない。
モーセがレビ族の出身でありアロンと血縁があるとする出エジプトの記事は、モーセの権威を高める為のフィクションでしょう。

蛇の銅像(民数記ですが)

列王記U18/4
聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。イスラエルの人々は、このころまでこれをネフシュタンと呼んで、これに香をたいていたからである。
もし民数記21/6〜9の様な、蛇の銅像の故事をヒゼキア王が知ってるのであれば、ヒゼキア王が青銅の蛇を打ち砕く様な事はしないだろう。
民数記の青銅の蛇の物語は、ヒゼキア王の行為はやり過ぎだと考え、モーセが造ったとされる青銅の蛇の存在を容認する為のフィクションでしょう。
偶像崇拝を戒める、モーセ5書にしてはイレギュラーな物語です。

モーセ一行紅海を渡る

ヨシュア記24/6〜7
わたしがあなたたちの先祖をエジプトから導き出し、彼らが葦の海に着くころ、エジプト軍は戦車と騎兵を差し向け、後を追って来た。
彼らが主に助けを求めて叫ぶと、主はエジプト軍との間を暗闇で隔て、海を彼らに襲いかからせて彼らを覆われた。わたしがエジプトに対して行ったことは、あなたたちがその目で見たとおりである。その後、長い間荒れ野に住んでいた
出エジプト(14章)のモーセ一行の出エジプトの記事とは大分違ってるでしょ。出エジプトの編者は、ヨシュアのシナリオでは不十分だと考え、大幅にアレンジしたのでしょう。

その他の疑問−1

出エジプト記1/11〜14
エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。
イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した。
しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イスラエルの人々を酷使し、粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。
彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。
この部分を読むと、イスラエル人は過酷な強制労働を強いられていた事になり、それがモーセをして出エジプトをするに至ったとあるが
出エジプト16/3
イスラエルの人々は彼らに言った。
「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。
あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。
あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」
そんな過酷な生活状態ではなく、結構恵まれた生活状態だった様である。
又昨今のエジプト考古学の研究でも、二日酔いで仕事をサボった記録が発掘されたらしい。
出エジプト記1/11〜14の記事は、モーセの役割を創出する為のフィクションではなかろうか?

その他の疑問−2

出エジプト記には、エジプトの話でありながら、ピラミッドやスフィンクスの話もなく、エジプトの神様の名前も出て来ない。
又、ファラオは何回か出て来るが、実際の名前が全く書かれていない。
出エジプト記の編者には、エジプトを良く知ってる編者がいなかったのではなかろうか?

とりあえず終わりです
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