パウロとイエス

何故パウロはイエスの言動を語らないのでしょうか


はじめに

実はかような疑問をもたれた方からメールをいただき、僕もかねてより大きな疑問を感じていましたので、微力ながらまとめてみましたが、全てはパウロの腹の中ですから、真相は解るわけ有りませんか゛

パウロとイエスの関わり

パウロは直接イエスに接してはいません。パウロは当初イエスの弟子達を取り締まる立場にあり、ある時突然ダマスコでイエスの声を聞き、3日3晩魘されていたところに、エルサレムから来たアナニアと言う宣教師に宣教を受けて、キリスト教徒になったとされています(使徒9/1−9/19)
キリスト教徒になったと言っても、すぐに本山のイエスの弟子達と接触したわけではなく、3年程アラビアに行ったり、ダマスコに戻ったりでそれほど強力な意志を持っていなかったのか、エルサレム教会にあまり興味を持っていなかったのかもしれません(ガラテ1/15−17)
その後パウロはペテロに逢おうとして(彼の意識の中では、ペテロがリーダーだと思ったのでしょう)エルサレムにのぼり15日間滞在したのですが、ペテロや主だった弟子達は、先の官憲の摘発を逃れて各地に散らばっていたのでしょう、実質的な宗主であるヤコブ(イエスの弟)と面会したようです(ガラテ1/18−19)
その後は、諸教会におもむき知り合いは少なかったのですが、各地で受け入れられたようです(ガラテ1/21−24)

パウロ書簡の順番

パウロ書簡は私の想像する範囲においては、書いた順番に
        1..テサロニケ第1書簡....AD50−52年頃
        2..テサロニケ第2書簡....AD51−53年頃
        3..ガラティア書簡......AD52−54年頃
        4..コリント第1書簡.....AD55−58年頃
        5..コリント第2書簡.....AD55−58年頃
        6..フィレモン書簡......AD56−59年頃
        7..ピリフォ書簡.......AD56−59年頃
        8..ローマ書簡........AD56−59年頃
の8巻だと思う、コロサイ書簡は自筆かどうか論議が分かれていて、自分も読んだ範囲では判断つきかねた、エフェソス書簡が挟まっているが文体から見てどうもヨハネ書簡と同じ時期だろう。
テモテ書簡はさらに時期が経ってからの書簡である。

パウロ書簡で

パウロが書簡を書き始めたのは、エルサレム会議の後の第2回ヨーロッパ宣教以降です。第一回ヨーロッパ宣教はある程度成果を上げたわけですが、エルサレム会議で律法の放棄のお墨付きをもらい、自信を持ってヨーロッパへ臨んだのが2回目の宣教で、このときに宣教した地域の人たちとの連絡メールが幾つかのパウロ自筆書簡です。
ガラティア書簡とコリント書簡の間に数年の経過があり、思想的にも少し変遷が感じ取れる
以下は荒井献氏の文献ですが
われわれはコリント人への手紙から、パウロがコリント教会を去った後にパレスチナからこの教会に「ことなる福音」をもたらした複数の人物によって起こされたコリント教会の状況を推定する事ができる。彼らは巡回霊能者として自らの被扶養権を主張し、イエスの言葉の秘教性とその解釈を一義的に主張した。これは福音の自由のために被扶養権を放棄し、十字架の愚かさに逆説的救済を見いだそうととしたパウロの使徒としての役割に疑問が呈される。コリント教会における富裕知識人たちは、彼らの霊肉二次元的な人間理解を受容し、死人の復活を否認するに至ったため、貧者達の間に霊的熱狂主義をひき起こした。すなわち彼らは、「神の国」が霊においてすでに実現していると熱狂的に信じ、霊的な富と支配を誇って、世俗的なものを二次的とみなし、極端な禁欲主義に陥いった。パウロは書簡によりこの様な事態を批判し、彼固有の立場からイエスの言葉を引用し、イエスにおける啓示の秘教性と逆説性を強調している
アダムの原罪を主張し出したのもコリント以降で、正当派(?)教会とグノーシスの確執はすでにこの段階で根を持っていたらしい。

少ない理由

パウロ書簡では、イエスその人の言動の記録はほとんどありません、ひたすら信仰対象としてのイエス・キリストの言葉であります。その幾つかの原因を推測してみましょう。
   1...イエスその人についての情報がほとんどなかった可能性がもっとも
       考えられるのですが、エルサレム教会は、イエスその人の言動を知
       ってる人が多いので、その残像を言葉にして宣教しているのと、偉
       大なる師匠の言葉として宣教しているのに比べ、パウロは実在のイ
       エスを知らないために、ライバル意識として神の子イエス像を宣教
       の論理としたのだろうか、また彼のテリトリー(異邦人地域)では
       イエスその人よりも、神の子イエスの方が宣教しやすかったのかも
       しれない
   2...特にコリント書簡以降がその色合いが強いのだが、パウロと違う教
       派のキリスト教があって、それらの連中との論議をするために、彼
       のイエス・キリスト論が強く打ち出され、イエスその人の言動は彼
       の宣教においてはあまり意味をなさなかった
   3...イエスの残像に重きを置くユダヤ系キリスト教会と、イエス・キリ
       ストに重きを置く異邦人キリスト教会では当初より宗派の違いが存
       在していた。
1,2はこのどちらの可能性も否定できないのですが、3はむしろこの後のユダヤ系のマタイ教会とテモテやルカの異邦人教会になるまで、それほどはっきりした違いはないのでしょうから、パウロの段階では否定した方がいいかもしれません
イエスの残像は主にユダヤ人達によって、言葉や文章になってQ資料や原マルコにまとめられたのでしょうから、パウロの時期(AD50−60)には、エルサレム教会の人たちの弟子や長老の記憶の中にとどまっていただけなのでしょう、この方々にとっては神格化したイエス・キリストの概念はほとんどなく、偉大なる師匠としてのイエスですから、むしろパウロのイエス・キリストの概念から触発され、その記憶を振り絞り、Q資料や原マルコが編纂されたと言うのが順番かもしれません。


とりあえず終わりです