ペテロの足跡


カトリックこよれば、イエスの弟子の代表であり、初代ローマ法王と
されるペテロについて、どんな経過をたどった人なのかまとめてみた

1  おいたち
   「ペテロ」の正式名は、「シモン・ペテロ」である、使徒言行録やパウロ書簡では、「ケ
   ファ」と呼ばれている。マタイ福音書16/17では、イエスは「シモン・バルヨナ」と
   呼んでいる。「バルヨナ」とはバルヨニムの事でイスカリオテ同様に差別された共同体で
   反ローマ色の強い熱心党の流れと思われる、また常に懐刀を所持していたのでシーカリ(
   熱心党の中の急進的なグループでテロリスト)の可能性もある。
   マタイ福音書4/18の記述によれば、イエスに会う前はガリラヤ湖畔で漁師をしていた。
   弟(アンデレ)がおり、ともにイエスに付き従っている。
   イエスよりは数年年下と思われるので、AD元年頃の生まれか。

2  イエスとのやりとり
   イエスとのやりとりは福音書に沢山記述されているのですが、最も重要なポイントは以下
   のところだろう、すべてマタイ福音書からで、それを自分なりの注釈をする形で描いてみ
   ましょう

   (16/13−16/15)イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子た
   ちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
   弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。
   ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
   イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

   イエスのグループがある程度活動していた頃の会話であろう、人の噂に「洗礼者ヨハネ」
   があがっているが、ヨハネの人気が実際に高かった事を示している、「エリア」とは「メ
   シア」の前に登場すると考えられた天使の1人、「エレミヤ」は旧約聖書で黙示的な文章
   を残した人、人の噂とはその程度である。

   (16/16)シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。

   ペテロはイエスがメシア(イスラエルの国王)になるべき人であると考えていたのだろう

   (16/17)すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。
   あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
   (16/18)わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教
   会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。

   イエスの独立(宗派?政党?政府?)宣言と思われる

   (16/19)わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天
   上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
   (16/20)それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないよう
   に、と弟子たちに命じられた。
   (16/21)このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司
   長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、
   と弟子たちに打ち明け始められた。

   イエスは自分が律法学者達と敵対関係にあり、抹殺されるであろうと予見していた。それ
   で自分亡き後をペトロに託した物と思われる、自分達の目的が独立(?)である事を外部
   に漏らさない様に命令している。

   (16/22)すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、と
   んでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
   (16/23)イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは
   わたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

   ペテロがどの様にイエスを諌めたかが、大変興味ある所であるが、その後のイエスの叱責
   の激しさやヨハネ福音書の神殿襲撃の事件や、イエスがローマ帝国への反逆罪で処刑され
   た事を考えると、ペテロはイエスに対し
   「自分達に軍事部隊(熱心党)が付き、戦闘に勝ち、イエスが王様になると言った」
   しかしイエスはそれが自分達(熱心党)の一時的な勝利にすぎず、神の事(民衆の事、イ
   スラエルの事)を全く考えていないと叱責したのだろう

   (16/24−16/28)それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者
   は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
   自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得
   る。
   人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命
   を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
   人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて
   報いるのである。
   はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見
   るまでは、決して死なない者がいる。」

   イエスはこれから行おうとしている事が大変困難なことで、弟子達に十分な覚悟をする様
   に激をとばしている

   イエスがなぜ十字架にかけられたかを暗示する文面であるが、イエスの激しさに比べ、ペ
   テロのいささか楽天な面が覗える。

3 イエス逮捕処刑の時のペテロ
   イエスが逮捕され処刑されている時に、ペテロや他の弟子達は官憲の追跡を逃れて(多分
   )ガリラヤへ逃げたのであろう、ペテロが追ってに捕まり(鶏が鳴く前に3度イエスの事
   を知らないと言い通す話は有名)イエスを知らないと言い通した。

4  その後
   しばらくしてほとぼりが醒めた頃、再び使徒達、イエスの親族等がエルサレムに集まり1
   20人ほどの小さな集団で活動している。使徒言行録(1/12−1/15)
   
   ペテロはできたてのエルサレム教会のリーダーになった。
   ペテロはヨエル書や詩編などの旧約聖書を引用し、イエスが、神の約束した預言者である
   事を演説した。使徒言行録(2/14−3/26)

   エルサレム教会は、エッセネーの共同体の生活習慣を踏襲し、土地売却代金の一部だけを
   納付したアナニアとサフィラ夫婦のごまかしを諮問して、死に追いやった。使徒言行録(
   5/1−5/11)

   エルサレム教会に対して次第に官憲の弾圧が始まり、有力な信者であるステファノが、ユ
   ダヤ教会冒涜の罪で殺害される。使徒言行録(7/1−8/1)

   パウロは当初、パリサイの信者で、この集団を取り締まる立場であり、多くのエルサレム
   教会の信者を摘発し、死に追いやったが、恐らく律法に矛盾に感じていたのだろう、その
   後ダマスコへ信者の摘発に行く途中でイエスの声を聞き(たぶんノイローゼ状態)、ダマ
   スコのアナニアの宣教に目覚め、イエスを求める様になった。使徒言行録(8/1−8/
   19)

   ペテロは教会への弾圧から逃れる為と、弾圧で地方に逃れた人達と交わる為に、ユダヤ、
   サマリアへ宣教し、一部異邦人にも宣教してエルサレムへ帰還したところで逮捕された。
   ペテロは夜中に奇跡的に脱走し、マルコの母親の家に逃げ込み、そこにいた信者達に脱走
   した事を、ヤコブ(イエスの弟:エルサレム教会の総宗)に伝える様に託して、さらにど
   こか「ほかの所」に逃げ込んだ。使徒言行録(9/32−12/19)


   カトリックでは、この「ほかの所」をローマとしているが、まったくあり得ないこじつけ
   である。脱走直後の着の身着のままのペテロが、夜中に逃げ込めるのは、精々エルサレム 
   から数十キロだろう。その前の宣教で懇ろになった信者の家に匿われたのではないか。


   アンティオケを足場にしているパウロ・バルナバとエルサレム教会のヤコブ・ペテロ・ヨ
   ハネはAD48年頃エルサレムで宗教会議を開き、ペテロは


   兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになり
   ました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためで
   す。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも精霊
   を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また彼らの心を信仰によ
   って清め、わたしたちと彼らの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ
   今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に懸
   けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると
   信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。使徒言行録(15/7−15
   /11)


   実は聖書に記述されてるペテロの発言は、これが最後です。

   この後ペテロはエルサレムを去りアンティオケを含む他の地を巡回伝道して、AD49年
   頃アンティオケにいて、ヤコブのもとから来た「ある人々」を恐れて異邦人と食事を共に
   する事を避けたかどで、パウロから叱責されている。ガラティア書簡(2/11−2/1
   4)

   ペテロは各地を巡回し最終的にはローマでネロの迫害によりパウロと前後して殉教したと
   されるが、その伝承はペテロをイエスの一番弟子として、ローマに赴き初代法王として据
   える為のでっち上げで、ペテロの宣教テリトリーはイスラエルから精々シリアまでで、ユ
   ダヤ人が主な相手であったと思われる。

   エルサレムからさほど遠くない場所で、常にヤコブ達と連絡を取りながら、宣教していた
   のだろう。

   ヤコブを指導者としていたエルサレム教会は、ヤコブの処刑(AD62とされる)、AD
   70年頃のユダヤ戦争の後、地方に散らばり(多くはヨルダン川東岸のペラに移住したと
   される)、マニ教やグノーシス的な展開をしていくが3−4世紀に原始キリスト教とよば
   れる一分の共同体を除き自然消滅する。
 
   パウロ派はパウロの殉教の後、いくつかの福音書の完成と共にキリスト教の主流派となり
   カトリックに引き継がれていく。

   二世紀中頃になると、単独の司教を頂点とする聖職位階制が説かれ、主流派教会内に現わ
   れたグノーシス派(キリストの受肉を否認している)への対抗的にペテロを初代法王と呼
   ぶようになった。(ペテロの名前の書簡もこの頃主流派の人が制作した物だろう)。

   グノーシス派の書物(トマス12章)ではペテロではなく義人ヤコブの名前が示されてお
   り、(トマス114章)ではペテロに「女は人間の価値がない」と言わせ、イエスが「女
   も男になれば(性別を超えて)、同様に人間の価値がある」と言っており、パウロ派の女
   性差別の批判の引き合いとして登場させている。
      

とりあえず終わりです


最初へ