自己中心なイスラエル


創世記34章のヤコブ一族とヒビ人ハモル一族のやりとりから、ヤコブ(後のイスラエル)
一族、ひいては旧約聖書全体におけるユダヤ人の自己中心的な側面を追求しましょう




創世記34章

創世記34章は、ヤコブ(アブラハムの孫でイサクの息子)がラバンの家での14年間の放牧を終え、2人の妻(レアとラケルで2人ともラバンの娘)と2人の側女と、子供達を連れて父イサクの故郷へ帰還する途中のシケムの町での事件であります。

シケムの町で、宿営を張っている時に、娘のディナが土地の娘に挨拶しに行こうと出かけたところ、土地の 首長ハモルの息子シケムが、ディナに一目惚れし強引に襲った。

シケムは父ハモルに相談し、ディナを嫁にするように頼み込み、ハモルはシケムの気持ちを受け入れ、ヤコブ達に姻戚関係を結ぶ事を相談した。

しかしヤコブの息子達(シメオンとレビ)は、ハモルの一族が割礼をするなら、その条件をのみましょうと言った(詐欺ですが)。

ハモル達は条件をのみ、町へ戻り一族を説得して全員は割礼をした。

それから3日目にシメオンとレビは、町へ入り男達をことごとく殺し、更に町中を略奪し、財物を奪い取り、女子供をすべて捕虜にした。

ヤコブは「困った事をしてくれたものだ。わたしはこの土地に住むカナン人やペリジ人の憎まれものになり、のけ者になってしまった。こちらは少人数なのだから、彼らが集まって攻撃してきたら、わたしも家族も滅ぼされてしまうではないか」
シメオンとレビは「わたしたちの妹が娼婦のように扱われてもかまわないのですか」


感想

シケムがディナをレイプしたと書いてあるが、男は一目惚れした女をレイプするだろうか?またレイプした女を嫁に迎えると言う意識になるだろうか?、この話には疑問が生じます。
むしろディナさんもある程度シケムに好意を持ち、合意の上で結ばれた物をヤコブの息子達が一方的にレイプと決めつけたのではないだろうか(我らの娘をあんな連中に嫁がせるのはとんでもないことだ!!)。

私の価値観はおかしいのでしょうか?、ハモルとシケムは十分誠意をつくしている様に思うのです。親子関係もしっかりしているし(シケムは直ぐハモルに相談し、ハモルはシケムの気持ちをくみ取っている)、一族の信頼も受けている(割礼の要求を受け入れている)のです。

それに比べ、兄弟達は妹がレイプされたと根に持ち、ハモル達を騙して、一族の男を皆殺し、女子供を捕虜にすると言う残虐さです(おそらく捕虜をレイプしたでしょう)、しかもヤコブに全く相談もせず(後から怒られている)に。

ハモルの言葉に(34/21−22)
「あの人たちは、我々と仲良くやっていける人たちだ。彼らをここに住まわせ、この土地を自由に使ってもらうことにしようではないか。土地はご覧のとおり十分広いから、彼らが来ても大丈夫だ。そして、彼らの娘たちを嫁として迎え、我々の娘たちを彼らに与えようではないか。ただ次の条件がかなえられれば、あの人たちは我々と一緒に住み、一つの民となることに同意するというのだ。」

ハモルは太っ腹の大きい度量の持ち主だろう...村の衆にも信頼され、家族からも信頼された人である事がうかがい知れる。
しかしこの人の良さは完璧に欺かれて野蛮で残酷なシメオンとレビの犠牲になってしまいました。
ヤコブはどう考えていたのであろうか?ハモル一族を襲ったシメオン達に「困った事をしてくれたものだ。」と言ってるのであるから、少なくとも襲う意思は全くなかったのだろう。ハモルの要請を受け入れて、娘(ディナ)を嫁に出すつもりだったかも知れない。
オツムの弱い息子達の暴挙に呆れ果てたのではなかろうか?。今日の不良ドラ息子に手を焼く親父を想像してしまう。

これはほんの一例です

創世記34章の例は、イスラエルが大変な自己中心的で残虐な一族である事を示す、ほんの一例にすぎません。
もっと如実な例はヨシュア記でしょう、詳しくは佐倉哲さんの 殺せ!と神が命じるときをご覧ください。

戦争が残虐な物である事は、古今東西同じでありますが、旧約聖書における戦争や大量殺害のいきさつには、イスラエルの民の自己中心的で、全く公平さを欠き、勝手な価値観を露わにしています。

今日のイスラエルの民がこの様な人達だとは、全く思っていませんので、誤解の無い様にお願いします

この文章にご意見のある方は、私宛にメールしてください。


とりあえず終わりです