現実主義者ヤコブ



イエスの弟でありペテロの後エルサレム教会の指導者になり
晩年殉教したヤコブと言う人間を追いかけた       


ヤコブについて


カトリックにおいては、イエスを神として扱う目的や母マリヤの処女性を求める為に、ヤコブを
従兄弟としているが、パウロの主の兄弟の言葉はあくまで同じ母親の兄弟を示していると考える
べきだろう

生まれは:ガリラヤ地方ナザレ...イエスについてはベツレヘムと主張する立場の人もいると
     思うが、マタイ・ルカ福音書ともイエス生誕後比較的短い期間で家族がナザレに行っ
     た事が示されており、弟であるヤコブはナザレで生を受けたと考えるのに異論はない
     と思う
両親は :父ヨゼフ・母マリア...これもイエスの従兄弟とする立場の人は異論を唱えるだろ
     うが、兄弟と考える人には疑義はないと思う
兄弟は :兄はもちろんイエス、他3人の弟と複数の姉妹
     マルコ福音書6/3:マタイ福音書13/55.56
妻子は :コリント書簡上9/5から少なくとも妻はいたと思われる
生年月日:イエスより数年下と思えるので紀元前後も月日は不明

あらすじ

マルコ福音書6/3の記述は、洗礼者ヨハネが逮捕されまもなく処刑される時期で、イエスは独立してガリラヤ地方を宣教している時期で、家族と同行している様子からイエスのグループには交わっていない事が推測される。

この頃のイエスの活動は、自分の家族や共同体には受入れられず、ルカ福音書(3/16−3/30)によれば、郷土ナザレの人達に反感をかい、殺されかけている。
またイエスもルカ福音書(8/19−8/21)で、わざわざ会いに来た家族を軽蔑して、会わなかった様にも取れる発言をしている

ヨハネ福音書(7/1−7/9)で兄弟の会話が見うけられるが、ヨハネ福音書そのものが他の共感福音書とかなり様相が異なり、グノーシスの影響を受けており、ところどころで文章の形態が変わりイエスと言う人の捉え方が定着していない、以下の文章はその辺を考慮して読むべきか。
7/3−7/4...イエスの兄弟たち(ヤコブ)が言った。「ここ(ガリラヤ)をさってユダヤに行き、あなた(イエス)のしている業を弟子たち(ペテロやヨハネ)にも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」
ヤコブは行動をおこさないイエスを批判している、これに対しイエスは
7/6−7/8...イエスは言われた。「わたし(イエス)の時はまだ来ていない。しかし、あなたがた(ヤコブ達)の時はいつでも備えられている。世はあなたがた(ヤコブ達)を憎むことができないが、わたし(イエス)を憎んでいる。わたし(イエス)が、世の行っている業が悪いと証ししているからだ。あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたし(イエス)はこの祭りには上って行かない。わたし(イエス)の時がきていないからである。」
と発言している。しかしながらその後イエスは、こっそりとユダヤへのぼり、神殿で演説している。
何故ヨハネ福音書にだけ、この様ないきさつが説明されているのかが大きな疑問として残るのですが、共感福音書だけでは、イエス在命中の兄弟達のスタンスが説明が付かない為の様な気がします。

この後しばらく聖書には登場しない、イエス処刑の折りに母マリアはエルサレムに来ていて、その母マリアを聖書は「ヤコブとヨセフの母マリア」と記述しているが、ヤコブがその場にいたかどうか不明
使徒言行録1/14から、エルサレム教会発足当初の120人の中にイエスの兄弟達の事が記述されており、おそらくこの中にヤコブはいたと思われる(AD31年頃)

コリント上15/7ではイエスの権現がヤコブに現れた後、すべての使徒に現れたとしている
エルサレム教会はしばらくペテロをリーダとして活動をしているが、ステファノの殉教以後官憲の弾圧が厳しくなり、使徒ヨハネの弟のヤコブは官憲によって殺害される
パウロはこの頃、パリサイ派の信者でエルサレム教会の信者達を摘発する立場にいて、何人もの信者を監獄に送り込み死に追いやった

ペテロは(おそらく難を逃れる為に)各地への宣教の旅に出る
ヤコブは、官憲からはノーマークだったのだろうか、この頃エルサレム教会の指導者になったと思われる。パウロがダマスコでの改心した3年後にペテロに会おうとしてエルサレムへ行った(AD34年頃)がペテロには会えずヤコブに接触している

ヤコブ達はここで以前はエルサレム教会の人達を迫害していたパウロをバルナバの仲裁もあって、同士として受け入れた(ガラティア書簡1/18−24)
ヤコブを宗主とするエルサレム教会は、弾圧を受けながら有力な信者の宣教により民衆の支持を得て、信者は地方にも増えていき、取り分けアンティオキアにはギリシャ語を喋る信者が集まり、エルサレム教会は設立当初からの有力な信者であるバルナバをアンティオキアに派遣した。(使徒言行録11/22)
バルナバは派遣されるとすぐ、タルソスに籠もっていたパウロを連れ出し、アンティオキアはエルサレム教会の異邦人宣教の前戦基地になる(AD40−45)
パウロとヤコブ接見の14年後、パウロ達がエルサレムを訪れ、ヤコブ達と会議を開いた(エルサレム会議:AD48年頃)

会議の大きなテーマはパウロ達が宣教した地域では異邦人の信者が多く、パウロ達はその者たちに律法の遵守(特に割礼や食べ物に関して)を求めていない事を、一部のユダヤ教から宗替えした人達が抗議しており、エルサレム教会本山の見解を求める為である
指導的立場のヤコブとペテロは、パウロに同調したのだろうが、ユダヤ人信者に染みついた生活習慣を無視することはできなかったのだろう。

ヤコブは総責任者として、異邦人に対しては4項目(偶像に捧げた肉を食べない事、絞め殺した動物の肉を食べない事、血を飲まない事、みだらな行為をしない事...レビ記17章参照)の掟だけ守り、それ以外の異邦人の生活習慣を容認する発言をして、パウロ達の言い分を容認し、書簡を書いてユダとシラスに託してアンティオキアで朗読させた(使徒言行録15/19−21)

このあとパウロはしばらくアンティオキアにとどまり、すぐ後にペテロがアンティオキアに来たときに、ヤコブのもとから来た人達をおそれて食事の席をしり込みしたことを強く非難した(ガラティア書簡2/11−14:AD49年頃)
パウロはその後ヨーロッパに2度の宣教を行い、2度目の宣教の帰還時に再びエルサレムへヤコブを訪ねて行く(AD55−58)

ヤコブ達はエルサレム教会に何万人もの信者がいて、みんな熱心に律法を守っているが、この人達の一部にパウロがモーセの律法から離れる様に説いていると聞いていて、パウロに敵意を持っている事をパウロに伝え、エルサレム教会の入神者4人と清めの儀式をして、パウロも熱心に律法を守っている事を示す様に要請しパウロも同意した。

しかしこの苦労は無為に終わり、神殿にいる時にパウロを知っている一般信者に見つかり、群衆に知れ渡り大騒ぎになってパウロを引きずり出し殺そうとしている時に、この騒ぎが千人隊長の耳に入って官憲がパウロを身柄確保し、そのまま官憲に拘束されながら、2−3年かけて、企らずもかねてよりの希望の地である、ローマへ護送された。
ヤコブについてはこの後の資料は聖書にはないが、ヨゼフスの古代史(20巻9章)にAD62年頃大祭司アナノス二世により、律法をないがしろにしているとの容疑により石投げの刑で処刑されたとある

以上ヤコブが関わっている事柄をまとめてみたが、ルカやパウロの資料の為どうしてもヤコブについては少ししか登場しません。

パウロから見たヤコブ

パウロは彼の直筆と思われる、ガラティア書簡やコリント書簡で、さかんにヤコブやエルサレム教会や使徒達について言及しているが、とりわけコリント書簡ではエルサレム教会を(神の教会)、使徒達を(大いなる使徒)と呼び、敬意をはらっている、改心を認めてくれた事への感謝もあるだろうし、エルサレム会議において、パウロ達の言い分を大幅に容認してくれた事もあるだろう
パウロはヤコブを自分の上司として見ていたと考えたい

とりまとめ

ヤコブは約30年間エルサレム教会の指導者として度重なる迫害に耐え教会を守り、一方においてパウロ達の異邦人宣教を支援していた
ヤコブはかたくなに律法を神の掟とは考えていなかったのだろうが、立場上パウロの様に律法をないがしろにする発言はできなかったのだろう
パウロも無節操に律法を否定していたわけではなく、使徒言行録を読む限り、地域や相手によって発言は注意していたとおもわれる。

しかしユダヤ教徒からマークされ、各地で迫害を受けており、最後のヨーロッパ宣教の後のエルサレム訪問の時に群衆に殺されかけている
当時としては一番近代化された国の大都会の人達へ送る文書と、古いユダヤ教の律法に凝り固まって一寸した発言が摘発される様な地域での発言や行動とは全く違っていて当然だろう
ましてヤコブの場合、思想や意識はパウロと近かったのかもしれないが、よりユダヤ教の本山であるエルサレムでは、より命がけの発言となってしまう、兄イエスの事件も意識の中にあるはずであるし。

ヤコブについての言葉は、グノーシス派文章にも出てくる。
トマス福音書12−弟子たちがイエスに言った。”あなたがわたしたちから去っていかれることを
         わたしたちは知っています。だれがわたしたちの上に長となるのでしょうか”
         。イエスは彼らに言われた。”あなたがたが行く場所で、義人ヤコブのもとに
         行くがよい。天も地も彼のゆえに造られたのである”。
グノーシス文書ではペテロを否定的に扱うケースがよくあり、それはカトリックがイエスの一番弟子のペテロがローマで殉教し初代ローマ法王として扱われていることに対しての反発から、この文章もその意味においてヤコブの名前が出てきたのかもしれないが、イエスの継承者がヤコブであることをハッキリと示している

イエスの教えを継承し、使徒達が創った教会はエルサレム教会であり、使徒達を摘発し(死に追いやられた者もいる)憎しむべきパウロの改心を認め、仲間として受け入れたのはヤコブであり度量の大きさや人を見る目の確かさをおおいに評価すべである
キリスト教においてエルサレム教会なりヤコブなりは、もっとクローズアップされてしかるべきと思われるが、カトリックにおいては律法を遵守しユダヤ教に近いエルサレム教会の存在は不都合なのかもしれない、そうとう堪能なクリスチャンでもエルサレム教会の存在を認識している人は少ない、弟ヤコブの存在もイエス・キリストの神格化においてかなり不都合だったのであろう。AD70年頃のイスラエル戦争で実質崩壊してしまったエルサレム教会を深く取りざたしなくなったのだろう

感想

私は弟ヤコブこそ「イエスの教え」の継承者ではないかと思うのですが、この人の人柄を表す文章として、エルサレム会議の後に異邦人信者達に宛てた書簡をルカが記録しているので最後に紹介しましょう
使徒15/23−29
「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。
それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。
このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。
それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。
聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。
すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」


以上で終わりです

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