悔い改め


悔い改め
昨年、「悔い改めについてシリーズで書き込んだ物のコピーを掲載します
悔い改め−旧約では
旧約では、ヨブと第1イザヤとエゼキエルだけです。
個々の悔い改めた(なかった)人(達)が誰であるかを考えたら、
どういう内容をどの様に悔い改めた(なかった)かが判ります。
詳細は省きます。

ヨブ記42/6
”それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、「悔い改め」ます。”
ここで悔い改めた人はヨブさん自身です

第一イザヤ1/27
”シオンは裁きをとおして贖われ、「悔い改め」る者は恵みの御業によって贖われる。”
第一イザヤ6/10
”この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、
 耳で聞くことなく、その心で理解することなく、「悔い改め」ていやされる
 ことのないために。」”
これは「悔い改め」なかった。シオン(ダビデ王朝)の退廃を批判した言葉です。
敵の攻撃でボロボロになった、ユダの国の退廃した様子が描かれてます。
イザヤはそのボロボロの中から新たなる
新根の様な物が出てきて、ユダの民の再生を預言します。

エゼキエル14/6
”それゆえ、あなたはイスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。
 「悔い改め」て、お前たちの偶像から離れ、すべての忌まわしいものから顔を背けよ。”
エゼキエル18/28
”彼は「悔い改め」て、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。
 死ぬことはない。”
エゼキエル18/30
”それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、
 と主なる神は言われる。「悔い改め」て、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。
 罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。”
イザヤ以降、ユダの国は何人かの王によって、何度か持ち直したのですが
バビロンと言う強力な国家の侵略によって、ついにユダ王国は崩壊します。
エゼキエルは、その時の状況を描いてます。

悔い改め−2 新約を検索する前に
悔い改めの中身を説明する前に、馬鹿どものくだらない論議はほって置いて、 
「悔い改める」と言うのは、「考えを改める」とか「価値観を変える」と 
言う意味なんです。だから具体的に「それまでどの様に考えていたもの」 
を「これからはどの様に考えろ」と言う中身を言わないと、聞いても 
「何の事かさっぱり判らない」し、「お前は何を言いたいのか?」と問い 
直されるのがオチですよ... 
だから、アホな聖職者や信者が「悔い改めよ」って言ってたら、こいつ等 
頭おかしいんだよとか、胡散臭く聞いてるんだよ...「何をどの様に」 
と言う中身がない為ですよ...それでそいつ等に中身を言わせたら 
、大体お「前等なんかの言う事は相手にしたくない」と言うのがオチなん 
だけどね... 
「悔い改めよ」と言う時は、せめて「**をOOに悔い改めよ」と言う 
表現をしてもらわないと、相手にもされないのが、一般社会の常識だよ 
悔い改めで検索していて気がついて事ですが、実はヨハネ文書には
「悔い改め」の文字がヒットしないんですね。翻訳によっては
ヨハネ福音書12/40に一箇所だけ見つかるんですが、イザヤ書の
引用で、ヨハネの編者の文章じゃないんです。新約の意味での「悔い改め」
かどうかは疑問です。

悔い改め−3  マタイでは 3/1−9

”そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
「悔い改めよ(お前達は考えを改めよ)。天の国は近づいた」と言った。
これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々が
ヨハネのもとに来て、罪を告白(今までの信仰が価値のないものになっている事を認識)し、
ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。
『我々の父はアブラハムだ(我々は誇り高きユダヤ人だ)』などと思ってもみるな。
言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たち(ユダヤ民族)を造り出すことがおできになる。”

洗礼者ヨハネがこの様な考えを持っていたかどうかは疑問ですが、キリスト教団の
デタラメな翻訳の為に、全く違う認識を持ってしまってる例です。
エルサレムが崩壊して、ユダヤの民に価値観の変革を迫ってる文章が、キリスト教流の
「悔い改め」と「罪の告白」に摩り替わってしまってるんですね。
この「悔い改め」をする人達は、ユダヤの民でありますし、その内容は
それまでのユダヤ教的な価値観、ユダヤ人として誇りをかなぐり捨てて
新たな価値観を追い求めよと言ってるんですね

悔い改め−4 マタイ福音書3/11
”わたしは、「悔い改め」に導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、
 わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物
 をお脱がせする値打ちもない。その方(イエス)は、「聖霊」と「火」であな
 たたちに洗礼をお授けになる(った)”

これも「悔い改め(意識変革)」を求める相手は、ユダヤ人たちであります。
「聖なる霊」は何かと言うと言ったらまた馬鹿が喚くのでやめときます。
「火」は戦火の事(つまりエルサレムを廃墟にした戦争の火)です。
マタイの編者は主の僕ネブカドネツァルがエルサレムを廃墟にしたエレミヤ記を
念頭に入れてます。つまりユダヤ戦争によって廃墟になったエルサレムの荒廃を
マタイ(他の新約の編者も含めて)の編者は「神の洗礼」だと言ってるんですね。

悔い改め−5 発言者がヨハネからイエスに変わる 
マタイ福音書4/17
”そのときから、イエスは、「(悔い改め){考えを改め}よ。天の国は近づいた」
 と言って、宣べ伝え始められた。”
マタイ福音書11/20−21
”それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が(悔い改め){考えを改め}なかったので、
 叱り始められた。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。
 お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、
 これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって(悔い改め){考えを改め}たにちがいない。”
マタイ福音書12/41
”ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪
 に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて(悔い改め){考えを改め}たからである。
 ここに、ヨナにまさるものがある。”
ティルスとシドンはイザヤ書の23章を読んでください。BC8世紀にアッシリアに
滅ぼされた町です。
ニネベはBC8世紀のアッシリア(憎むべき敵)の首都です。ヨナ書はBC2世紀頃の
文書だと思いますが、熱烈な民族主義者達を揶揄した話だろうと思いますが、マタイの編者
は、それを意識して言ってる分けではないと思います。
ここで(悔い改め){考えを改め}よとうったえてる相手は、ユダヤ人(教徒)たちです。
これは言うまでもありませんが、ここでイエスが言った様な文章になってますが、
もちろんマタイ教団の聖職者達の主張です。

悔い改め−6 ローマ人への書簡2/4
”あるいは、神の憐れみが(あなた)を「悔い改め(意識改革)に導く
 ことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。”

(あなた)とは誰の事でしょう?....なんて言う質問をすると、
キリスト教徒は全く反応しないどころか、答えられない事を逆恨み
するのがオチです。中にはこういう所でイスラムの話を持ち出す
どうしようもないアホもいます。
実は自分もよく判らないので、ローマ書簡を読み返しているところです。
何回か読み直せば、この(あなた)が誰であるか判ると思います。
普通の人であれば、パウロが誰に対して言ってるのか興味があるだろう
と思いますが、キリスト教徒はそんな事はどうでも良いのでしょう
「悔い改め」と言う言葉をパウロが使ってるだけで、後は十八番の
「神に帰る」か、「キリスト教徒になる事」だと言うドグマを
展開するのでしょう...それしか頭にないんでしょうね...

悔い改め−7 黙示録編 
「悔い改め」を今日のキリスト教団と同じ様な意味で捉えてるのは 
黙示録くらいのものだと思うw...黙示録の編者のオツムと語学力 
の乏しさを考えたら、今日のキリスト教徒と同じで、メタノイアを 
自己流に解釈して、「不道徳な行いを改める事」と理解したんだろうと 
思います。キリスト教のドグマに打ってつけなので、自分達で 
探してください。

悔い改め−8 第2コリント書簡
7/9−10
”今は喜んでいます。(あなたがた)がただ悲しんだからではなく、
 悲しんで(悔い改め{反省し})たからです。(あなたがた)が
 悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは
 何の害も受けずに済みました。
 神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通
 じる(悔い改め{反省})を生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。”
12/21
”再びそちらに行くとき、わたしの神が(あなたがた)の前でわたしに
 面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。以前に罪を犯
 した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、
 ふしだらな行いを(悔い改め{反省せ})ずにいるのを、わたしは嘆き悲しむ
 ことになるのではないだろうか。

この(あなたがた)はコリント人達です。
キリスト教会の好きな(悔い改め{反省する})は、どうやらパウロから
出たものの様ですね。共観福音書の(悔い改め{価値観を変える})とは
全然違うものだと思います。ユダヤ戦争の前後で、(悔い改め)の意味が
変わったのかも知れません。


以上で終わりです