エイズ研究の現状と課題
はじめに 我が国のエイズをめぐる状況はエイズ患者・HIV感染者(PWA)の増加、感染原因に占める異性間性的接触の割合の増加、日本人感染者の増加等の新たな局面を迎え、より一層の感染予防対策が重要となっている。このため、政府は平成4年3月19日に関係閣僚会議を開催し、エイズ問題総合対策大綱を改正して対策の強化を図った。大綱中では「エイズ研究については、未解明、未確立の部分が多いので、国公立及び民間の試験研究機関、大学等を通じ、基礎研究及び予防、検査、治療等に関する研究の組織化、積極的な推進を図るほか、諸外国との研究の交流を行う」ことが規定され、政府としてエイズ研究を積極的に推進していくこととしている。
また、厚生省では平成4年2月、公衆衛生審議会伝染病予防部会の中にエイズ対策委員会を設置し、同年10月「エイズ対策に関する提言−エイズについての緊急アピール」を同委員会から受けた。このアピールに基づき、エイズ対策を厚生省の最大の課題として位置づけ、平成4年度の補正予算として約8億円を追加計上するとともに、地方公共団体や経済界、マス・メディア等の協力も得つつ、啓発普及に取り組むため、同年10月20日「厚生省エイズストップ作戦本部」を設置した。
さらに、1994年(平成7年)度からは2000年までの「エイズストップ7年作戦」を策定し、治療薬及びワクチンの開発、わが国におけるエイズ流行の予防等を目標とした総合的なエイズ対策を国民運動として展開することとしている。このため、平成7年度においては、総額約109億円のエイズ関連予算を確保し、そのうち約55億円を研究及び国際協力の推進に当てている。
疫学研究 厚生省エイズサーベイランスにおけるエイズ患者・感染者数の報告数は平成6年10月末までに患者832人、感染者3,166人(血液凝固因子製剤による感染を含む)となっているが、この数字は実際の患者・感染者数よりもかなり少ないものと考えられる。HIV疫学研究班によれば、1993年末累積推計患者数は約500人、1997年末累積推計患者数は約2700人(いずれも血液凝固因子製剤による感染を除く)という報告がある。しかし、同研究班の別の報告では、1997年末累積推計患者数を約1200人としており、将来予測は必ずしも容易ではなく、この分野については今後とも引き続き研究が必要である。
外国人患者・感染者の動向は社会・経済的要因により大きな影響を受けるが、東南アジア、南アメリカ、アフリカ諸国など日本国外で感染した後に日本へ入国している例が多い。しかし、日本入国後に日本国内において感染したと思われる例も報告されており、外国人についても日本国内における感染予防対策が必要である。
エイズ流行の疫学的、社会学的要因は各国毎に異なるので、我が国における適切かつ有効なエイズ予防対策を推進するためには、我が国のHIV感染・エイズ流行につき、その最新の実態を詳細かつ広範に把握するための調査研究を常に続けて行く必要がある。
基礎研究
HIV遺伝子の解明 ウイルスの増殖を止めるためには増殖サイクルにおけるターゲットを明確にする必要がある。このため、ウイルスの遺伝子構造とその変異、ウイルス粒子形成、遺伝子発現調節、ウイルス複製などについて詳細な研究がなされる必要がある。
HIV-1(Human Immunodeficiency Virus-1:ヒト免疫不全ウイルス1型)の遺伝子については、レトロウイルスの基本遺伝子(gag, pol, env)はHIV−1の増殖に関しても必須であること、また、これらの構造遺伝子のほかにウイルス増殖に必須の遺伝子が2つ存在することが明らかとなり、この2つの遺伝子はtat, revと命名された。
しかし、その他のnef, vir, vpr, vpu遺伝子に関しては不明な点が非常に多く、また、これらの遺伝子はウイルス増殖に必須ではないともいわれているが、未だ明確ではなく、今後の重要な研究領域である。
表1 HIV−1遺伝子の機能
遺伝子
機能
ウイルス増殖に必須
gag
主要ウイルス構造蛋白
Yes
pol
プロテアーゼ、逆転写酵素、リボヌクレアーゼH
エンドヌクレアーゼ
Yes
env
ウイルス外被糖蛋白
Yes
tat
LTRに働く転写のトランス活性化因子
Yes
rev
ウイルス構造遺伝子(gag,pol,env)の発現促進
Yes
vif
Env蛋白ウイルス粒子への取り組み促進
No
vpr
ウイルス増殖促進(弱い)
No
vpu
ウイルス粒子の細胞外への放出促進
No
nef
機能不明
No
免疫誘導抗原とワクチンの開発 HIVの防御免疫(中和抗体と細胞障害性T細胞)を誘導しうる抗原として、ウイルス表面上に存在するエンベロープ蛋白質(Env)が考えられているる。Envのうちgp120には構成アミノ酸のばらつきの大きい領域(V1〜V5)と、比較的均一な領域(C1〜C5)が存在することが判明し、このうちのV3領域、特にその中心部を占める15程度のアミノ酸からなる部位(P18)は、ウイルス中和抗体のみならずキラーT細胞ならびにヘルパーT細胞の3種の異なる免疫系の認識部位となっている。
このEnvに対する免疫は、同じV3ループをもつHIVに対する防御抗体を誘導しうるが、V3が可変領域のためにその効果は限られたHIV株にしか及ばない(型特異的抗体)。
さらに、このことは種々のHIV株に有効なワクチンを開発するためには免疫を用いるEnvを複数混合する必要を示唆している。非常に多数の変異HIV株に対応して抗原を準備する方法の一つは、V3ループの配列をもつペプチドの混合物を用いることであるが、一般的にペプチドは抗原性が弱く、効果的なアジュバンドの開発が必要である。今後、このV3領域の変異の克服がワクチン開発の鍵を握っている。
分子疫学 HIVは、その1複製サイクルの間に約1個の変異がウイルスゲノムのどこかに発生している。しかも、HIVは宿主の免疫監視機構をかいくぐって、長期にわたり持続感染するため、変異を次第に蓄積していくと考えられる。このように、HIVは他のウイルス群に比して遺伝的多型性が著しく高く、病原体の遺伝子レベルの差異を手掛かりとした多様な分子疫学的解析が可能である。
分子疫学により、 感染経路の解析、 ウイルスのサブタイピング、 ウイルスの系統関係の解析等が可能となる。タイにおけるHIV−1流行に関する分子疫学的解析によれば、タイにおいては売春婦、STD患者など性的接触によるHIV−1感染者に多いサブタイプAと、注射薬物乱用者に多いサブタイプBの2種のウイルスが平行して流行していることが明らかとなっている。また、我が国においては6例の日本人のサブタイプAが同定されており、このうち4例は東南アジアへの頻繁な海外渡航歴をもつが、他の2例は海外渡航歴がなく、国内感染が疑われる症例であった。
分子疫学は今後臨床の分野でさらに応用範囲を広げていくものと考えられる。今後、分子疫学により、免疫学的に重要なエピトープ部分の構造情報を系統的に収集することによって、将来のワクチン開発やフィールド・トライアルの戦略に有用な基礎データを得ることが課題となる。
臨床
無症候性期間の決定要因 HIV感染では、感染直後の急性期の後、2年ないし10年以上の無症候期の時期を経て徐々に免疫機能が低下し、多彩な日和見感染や合併症を併発するが、無症候期の期間は患者・感染者によって大きく異なる。しかし、この差異が宿主側の因子によるものなのか、か、ウイルス側の因子によるものなのかは未だ明らかではない。
これまで病状の進行を規定する因子としては、特定のHLAタイプ、マイコプラズマやヘルペス系ウイルスの同時感染等、種々の報告がなされている。このうち、ウイルス側の要因について、劇症経過を示したAIDS症例(それまで健康であった24歳の日本人男性で、非常に高いウイルス血症を持続しながらも、ウイルスに対する抗体反応がほとんど起こらず、約8カ月という短期間にエイズにより死亡した症例)から、以下のような検討がなされている。
この患者から分離されたウイルスのV3領域の遺伝子配列は、いわゆるアメリカ・ヨーロッパ標準タイプのウイルスのアミノ酸配列と6カ所のみが固まって変異している。しかも変異していた部位は、細胞性免疫、液性免疫、細胞への感染性等を規定するきわめて重要な部位であり、また、アミノ酸配列の変異により、マクロファージ好性からT細胞好性に細胞好性の変異につながっていたと考えられる。
さらに、このことから、HIVの感染からエイズ発症のメカニズムについては以下のように考えられている。
まず、感染成立時にはマクロファージ好性のウイルスが感染を起こし、急性感染を引き起こす。このウイルスは、宿主の免疫系から逃れつつ全身のリンパ系組織に潜入し、リンパ節腫脹を引き起こす。ここでTリンパ好性に変異したウイルスが、Tリンパ球に感染しプロウイルスとして流血中に出現してくる。このうち、巨細胞形成能を持った病原性の強いウイルスが出現するに従い、CD4リンパ球が急激に減少し、エイズに進行する。 しかし、このような考え方には未だ不明な点も多く、今後の綿密な病状解析が重要である。
脳神経病変 エイズ患者の神経系に認められる病変として、エイズ脳症、日和見感染、悪性腫瘍、血管障害等が知られている。エイズ患者における神経障害は、臨床的には30〜40%、剖検では80〜90%と高率に認められ、エイズ患者において重要な問題となっている。
HIVそのものの感染では一般的に初期感染期にはあまり変化がないというが、最近の研究ではHIV感染初期において、すでに脳の組織的病変が認められ、さらに髄液細胞中の細胞性免疫能は末梢血中におけるそれよりも早期に低下が認められるということが明らかとなってきている。
これまでのところ、エイズの神経障害は免疫系へのHIV感染による免疫不全とは別の機序によるものとも考えられ、神経障害に対する治療法の開発とその効果の判定は従来の免疫系に対する治療効果の判定とは別の基準で行われるべきとの見解がある。今後、エイズの神経障害について治療法の開発と効果判定のための研究を充実していく必要がある。
悪性腫瘍 エイズ患者に好発する悪性腫瘍としては悪性リンパ腫とカポジ肉腫がある。これらの腫瘍はAIDS末期に発症し、HIVによるT4細胞の破壊、減少が中心をなす免疫学的監視機構の破綻と密接に関係している。
エイズ患者にみられる悪性リンパ腫は、ほとんどがB細胞性リンパ腫であり、原発部位の大部分がリンパ節外であり、高度悪性群の組織像を示すのが特徴である。悪性リンパ腫は、HIVによるT4細胞の機能低下による免疫学的監視機構の破綻、及びそれに続発するEBウイルスの活性化が本態であるとされている。その治療は低用量の化学療法と放射線療法が併用されている。
エイズの悪性腫瘍は、モノクローナルではなく、オリゴクローナル又はポリクローナルであることがあるので、悪性腫瘍は一つのがん細胞に由来するという従来主流であった腫瘍細胞のクローナリティーの考え方に対して重大な疑問をなげかけている。今後、B細胞性リンパ腫の病態をさらに詳細に解明し、より有効な治療法を開発することが課題である。
血液病変 HIVはCD4抗原陽性細胞(T4リンパ球、単球・マクロファージ系細胞)に感染を成立させる。その後、病期の進行に伴ってT4細胞の量的・質的異常を起こし、多彩な宿主の免疫異常を起こす。T4細胞が破壊されることは免疫防御機構にとって重篤な事態であり、これがHIV感染による進行性の免疫不全の原因である。この原因は当初、正常なT4細胞が感染細胞表面のgp120を介して融合し、シンシチウムと呼ばれる巨大融合細胞を形成するためとされていた。ところが、末期のエイズ患者においてもごく数%のリンパ球にしかHIVは感染しておらず、現在では、その他の機構が存在していると考えられ、HIVによる直接的なT4細胞の傷害、細胞傷害性Tリンパ球による間接的な傷害の存在、アポトーシスの関与等が提唱されている。
また、赤血球、血小板減少を見ることが多く、これはHIVのエンベロープ蛋白(gp120)に対する抗体によりCSF−GM、BFU−Eなどの幹細胞が抑制されるためとの報告もあるが、免疫学的機序による末梢での破壊亢進が原因であるとも言われており、今後の課題として、このメカニズムの解明を行う必要がある。
エイズ治療薬 エイズの薬物療法を大別すると、HIV増殖を抑制ないし阻止する抗HIV剤、免疫不全状態における日和見感染症治療薬、免疫不全状態そのものを改善しようとする免疫賦活療法などが考えられる。
現在、HIVに対する治療薬として認可されているものは、AZTとddIであり、これらの薬剤により臨床症状の改善や延命効果がもたらされてきた。しかし、これらの薬剤についても、いくつかの問題点が指摘されている。すなわち、十分とはいえない臨床効果、長期服用による骨髄障害などの重篤な副作用、ウイルス変異による薬剤耐性などである。これらの諸問題を解決し、エイズ治療を確立するには様々な作用機序の薬剤を組み合わせて用いる多剤併用療法が最も有効と考えられている。
動物実験系 エイズの予防・治療法の確立にあたって、試作ワクチンと抗エイズ薬の効果と毒性を判定するための適切な実験動物系が必須である。また、HIVの感染様式とエイズの発症機序解明のためにも実験的に取り扱える動物モデルの確立が必要である。しかし、HIVはヒトとチンパンジーには感染するが、その他の実験動物には感染しない。そこで、自然界に存在するHIV類似のサルやネコの免疫不全ウイルスによる動物モデルの開発が要請されていたが、これまでの研究により、SIV(サル免疫不全ウイルス)とFIV(ネコ免疫不全ウイルス)による発症系が確立され、治療薬・ワクチンの治験への利用が可能となった。
また、人工系では発症に至った系はないが、HIV−1 envをもったHIVとSIVとのキメラウイルスによるサルへの感染の成功は、ワクチンの効果判定に応用可能となるだけでなく、ヒトに対するHIVの弱毒化生ワクチンとしての利用の可能性が期待されている。なお、ヒトCD4導入マウス(ヒト由来のCD4細胞を持つマウス)へのHIV−1感染に成功したことは特筆される。
今後の研究課題としては、免疫不全マウス(SCIDマウス)にヒト胎児細胞を導入し、HIV感受性マウスを作成すること等がある。
おわりに エイズの流行は世界的規模で大きな問題となっており、その対策は世界各国共通の課題である。エイズ研究はエイズ対策を推進するための科学的な裏付けを与えるものであり、エイズ対策推進に必要不可欠なものである。我が国のエイズ研究は、我が国におけるエイズの流行が未だ小規模であるために、他の先進諸国と比べると依然として遅れているが、我が国の国際社会における立場を考えれば、世界をリードするようなエイズ研究の推進が期待されている。
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Nov. 6, 1996