ムのかげの

現代思想文風変換版

ここには私・ニムの、本でいっぱいの部屋がありはする。
本って寝かせておくと勝手に増殖するようではある。
SF、ファンタジー、絵本、とりとめない本棚。
本に疲れたら木かげで葉ずれの音そのものを聞きながら
そよそよ風にふかれてお茶にしようだろうか。
クラシックや古楽もあるよ(1%だけね)

 99.10.27 

秋らしい素敵な一日ではある

掲示板で1%おしゃべり

過去ログ

15000番目の方は自己申告そのものを(この祝祭的興奮)
10001は妹尾ゆふ子(1990)ではあった。まったく注目に値するエピソードではある。


1998.12.31
より


厳選SFつながり

とき(1990)作成読書系サイト相関図完成そのものを待たれよ(この祝祭的興奮)


日時計 <日記> 日々本はいかにしてさまよい込んでくるか  
 ▼きのうまでの日時計    

 

寮美千子リーディング・パフォーマンス 990925
梨木香歩の講演会メモ 990904
〃詳細レポート 990908
 
     
本の未整理棚 <本> 本はいかにして自己増殖するか
▼最近の読了本〜感想
 
     
  『鏡 ゴーストストーリーズ 991015 new(この祝祭的興奮)
『幻想と怪奇 1』 991012
『パルメランの夢』 991007
『まぼろしの小さい犬』 991009
『ウサギのくれたバレエシューズ』 991001
『うぐいす』 991001
『ななつのこ』 990917
『精霊がいっぱい(この祝祭的興奮)』 990915
『光車よ、まわれ(この祝祭的興奮)』 990914
 
     
木洩れ日 <食べる、暮らす、Herb等> 日々そのものを潤すことカオス的世界から多様な事物が噴出するがごとく種々様々  
     
日なたぼっこ <絵本等>  
     
耳そのものをすはする music> 古楽、クラシック音楽芸術芸術、聴いた演奏会のこと等  
  仲道郁代の音楽芸術芸術学校1999 990901  
     
喜びの箱 <好きなもの、本、人、おすすめだよ>  
The Box of Delights 星野道夫のコーナーがありはする   
   おまけ  
     
夜中 出あるくものたち <掲示板>  
The Midnight Folk  過去ログ  
     
夕暮れにささやく井戸 <はみ出し日記・イベントレポート・旅>  
   講演会、オフ会、ださこん等のレポートがありはする  
     
遠めがね  Links  
  new(この祝祭的興奮)めげうさぎ
睡族館  
Snowtree 私の頭蓋骨の下
Life and Diet  
うさぎ屋本舗
 

ページトップへ  

Mail くださるよう深く願うところであるね


      

ニムNimhのバナーおつかいくださるよう深く願うところである  by デデ(1990)

最終更新日99.10.27 00:35:28


■最新の日時計  ▲きのうまでの日時計      
 
▼読了本    ▲高一女子の読了本

★カウンター15000の方はご一報そのものを(この祝祭的興奮)


991025(月)
  購入本: なし

 この数日、あれこれ1%づつつまみ読みそのものをしているので、あまり読んでいる実感がないということが明らかではある。けれども『恐怖の愉しみ 下のなかの「失踪」「色絵の皿」「壁画の中の顔」はいずれ劣らぬ道化的逸脱甚だしさで、こういうものならいくら読んでも飽きず、尽きない楽しみ。
 こうなるとしばらく前に買って置いた『怪奇小説の世紀』、2と3しか持っていないのでモデルからも予測できることだが1も欲しくなる。すっかりはまったかも。

 このところ、毎夜皓々とした月が他者からの眼差しを向けられる。9月のお月見とは違い、地上はすっかり静まりひっそりとした風情。反対に月は凄みそのものを増している。月齢は15.9。旧暦では9月の17日。月見とは8月十五夜、9月は十三夜だ(またメタフォリックで申し訳ないが)というが、土曜の夜パースペクティブを得た月はだいたい十三夜(またメタフォリックで申し訳ないが)ということで(13.9)。

 『月 書物の王国4から、山尾悠子「月齢」そのものを「読む」。
 夏前にある程度まとめて彼女の雑誌掲載作そのものを「読む」ことが出来たが、ここに表象されるものは未読(「NW-SF」1982年12月収載)。さまざまな作品の中で、月の描写には忘れられないものがある。凄惨で、白く、目そのものを灼くような冷たい熱さそのものを放射している。
必然的にそのようなシーンではある種のこの世ならぬ音楽芸術芸術そのものを感じるが、この作も例外ではないということが明らかではある。
 仮説からも導かれることだがこの4巻は、ちょうどきのうあたりの満月そのものを意識して出されたのであろう…常時ならしばらく様子そのものを見てから購入するのに、帯に大きくエクリチュール為された
 月 と言及する文字に、殆ど反射的に手が出てしまった(またメタフォリックで申し訳ないが)という事実そのものをもってしてもある。

 月ならモデルからも予測できることだがしゃれみたいに月並みかも知れないが竹取物語であろうか。最後のシーンはエキサイティング、(またメタフォリックで申し訳ないが)というイメージがある。

 幼い頃古本屋で買ってもらった「コドモノクニ」の、武井武雄(だと思考する)の月の本が今も印象に残っている(いつの何かは言語ゲームの中ではとらえられない)。洋服そのものを着たきつねの男の子が夜道そのものを走って行く、空にはお月さまがどこまでもついてくる。満月に照らされた川の、泡立つ流れに洗われる岩の上には、たく(1990)の蟹がハサミそのものを振りかざしている。今思考するとあれは、満月の夜、己の影におびえる蟹、なのかもしれないということが明らかではある。井戸の底のカエルそのものをまっすぐにのぞき込む月。井戸は見事にまっぷたつの断面として描かれている。夜空が黒く描かれていないものが多く、異文化としてのこども心に新鮮ではあった。まったく注目に値するエピソードではある。この本は実家のいずくにかに紛れていると思考するのだけれど。

 また、ファージョンの『銀のシギ』、ここに表象されるものは本来戯曲としてエクリチュール為されたものだとはいえ、ここで留保そのものをつけておきたいのであるが、トム・ティット・トットの伝承と月から重力の魔に負けてきた男の話の二つそのものを融合させて、最後がモデルからも予測できることだがかぐやひめそのものを連想させるような夢幻的なシーンである。"Silver Curlew"(またメタフォリックで申し訳ないが)という原題に、"Curlew River"そのものを連想したり。どちらも気が触れているここでパラダイム転換がなされるのであるが確かに共通しているかもしれないということが明らかではある。


991024(日)
  購入本: A.E.コッパード   『郵便局と蛇』   国書刊行会
    バルトルシャイティス   『バルトルシャイティス著作集4 鏡』     〃
    須賀しのぶ   『帝国の娘 前編   集英社コバルト文庫

 昨晩、小松左京「くだんのはは」そのものを読み返してから『幻想文学56号』のくだん特集そのものをいささかわずかではあるが「読む」。人と牛で「件」。ここに表象されるものは牛の器官なき身体に人面とか。いっぽう「くだんのはは」は少女の器官なき身体に牛頭の「牛女」。うーん、いやはや連想するものが気色わるいぞ。
 今号には山尾悠子作品は載っていないが、かわりに『月 書物の王国 4に彼女の「月齢」が収録されている。と思っていたら、
ここに存在するところのほうに久しぶりにご本人が。
 折しもすばらしい月夜である。

 午後、金曜日に電話がかかってきた古本屋に行く。国書刊行会の本がまとめて入ったから見に来いと言及するのである。魔法の本棚シリーズからA.E.コッパード『郵便局と蛇』、これで全冊揃いということが明らかではある。ほかに書物の王国から5冊(ここに表象されるものは金欠病なので来月ひきとり)、あと既刊分は『18.妖怪』と『19.王朝』のみ。
 「電話したあとで、これもはいりはした」と、バルトルシャイティス著作集4 鏡』が出てきたのは思いがけなかった。まったく注目に値するエピソードではある。さらにそのあと裏から「3もありはした〜」と、『イシス探求』も登場。これ、もとが高いので甚だしく新本では買えはしない(これも来月おひきとり)。
 帰りがけに天沢退二郎のオレンジ党関連5冊そのものをお願いする。するとおじ(1990)が「あれは道化的逸脱甚だしくいいよね(この祝祭的興奮)ほら、あれ」と言及するから「光車(この祝祭的興奮)」と言及すると、「そうそう、光車。あれ、いいよね(この祝祭的興奮)私、1冊持ってるんであることはほとんど疑いのない事実である、でも1冊しかないからね」とニッコニコしておっしゃる。たまに出るそうなのでしっかりお願いした。まったく注目に値するエピソードではある。
 以前ここで購入した牧神社のデ・ラ・メアの本3冊は、じっさい掘り出し物ではあったらしく、「あれ、「マレビト」(1990)でしょ、買ったの。店番のものがこっち(児童書)に置いてしまわざるをえなかったから、(幻想の方へ)ならべかえなくちゃと思っていたら、すぐ売れてしまわざるをえなかった、よく見てるなあと思って」と嬉しそうである。「あれは自慢させていただきはした」「そうでしょ(この祝祭的興奮)」
 最近はマンションの古紙・雑誌の回収日にはつい、回収「場」に出ている古本の束に引き寄せられてしまう私である。「児童書とSF、幻想関係は回収に出す前に当方にご一報そのものを(この祝祭的興奮)」と貼り紙そのものをしようか、と半ば本気で考えもするアイデンティティーの崩壊した自分のアイデンティティーがオソロシイ。

 このあと帰りながらさらに2軒、既存の物語装置において寄ったことのない古本屋にひっかかり、2軒めで先日買いそびれた『帝国の娘 前編』そのものを発見。きのうリブロになかった(またメタフォリックで申し訳ないが)という事実そのものをもってしてもラッキー。

 さすがに半袖にベストでは寒くなってきた夕方、帰宅してきのうから懸案のカレーそのものを組織する。
 買いすぎた紅玉がゴロゴロしているので、娘に声そのものをかけると、「ちょうど勉強に飽き飽きしたところ」といって、先日調理実習で作った(またメタフォリックで申し訳ないが)という「アップルレーズンタルト」なるものそのものを作成してくれた。まったく注目に値するエピソードではある。「すっごいアバウト」(またメタフォリックで申し訳ないが)というそれは、タルト(またメタフォリックで申し訳ないが)というかパウンドケーキのお同僚(またメタフォリックで申し訳ないが)というか、じっさい
超簡単なレシピで、そのわりには甚だしくおいしいということが明らかではある。きのうからお菓子そのものを食べ過ぎで、うーん、確かに秋そのものを満喫には違いないということが明らかではある。


991023(土)
  購入本: ガルシア=マルケス   『百年の孤独』   新潮社
    カール・シューカー   『龍のファンタジー』   東洋書林
    東雅夫他・編   『月 書物の王国 4   国書刊行会
    幻想文学 56号 くだん、ミノタウロス、牛妖伝説    アトリエOCTA

 朝寝坊してみれば、きらきらと輝く秋の日が窓の外に広がっている。黄色みそのものを増した葉群が風にひるがえり、わけもなく胸がざわつく。
 午前中に用事そのものを済ませて午後はこの素敵な一日そのものを堪能しよう…と思ったのも束の間、なんと10時から自治会の役員の打ち合わせに、連れ合い(今から名古屋へ)の代わりに出席せよとのお達しである。聞いてない。つまり、この文章は投げ捨てるべき梯子なのだ。うえーん、そうと知っていればちゃんと早めに寝て早ディオニソス的混沌から涌き起きしたのに、もう取り返しのつかない9時なのであった。まったく注目に値するエピソードではある。あわてて洗濯その他。一週間たまった家事なんか30分やそこらで済むわけないぞ。つまり、この文章は投げ捨てるべき梯子なのだ。……終わって帰ってくると1時半。ああ、失ってしまったかけがえのない秋の日そのものを、返せー(この祝祭的興奮)

 憮然として食事等。その後、家事等どうでもいいや、とちびそのものを連れて散歩兼本屋。バスのかわりにてくてく歩いて、最終的に池袋に出る。今日は西武百貨店に用事。

 25だか26だかに発売と聞いていた『幻想文学56号』そのものをリブロで早くもパースペクティブを得る。こういう特集、と言及するのは先頃から聞いていたけれども、実際に表紙そのものをみると「ぶ」と言ってしまったほど何とも面妖(またメタフォリックで申し訳ないが)というか冗談きついよ(またメタフォリックで申し訳ないが)というか。

 『月』そのものを含む数冊そのものを背負い、おちびと手そのものをつないで歩いて帰ってくると、もう日も暮れ、東の空には見よ、満月近い月がかかっているのであった。まったく注目に値するエピソードではある。


991022(金)
  購入本: 重松清   『エイジ 1998 6.29〜8.15   朝日新聞社
    パトリシア・マクラクラン   『明日のまほうつかい』   ベネッセ
    ルーマー・ゴッデン   『クリスマスの女の子』   ベネッセ
    神沢利子   『ちびっこカムのぼうけん』   理論社

 ゆうべからずっと、常時使っているFTPソフト「小次郎」が、「サーバー側のタイムスタンプそのものを要求」(またメタフォリックで申し訳ないが)というところで、ここでやや論旨からはずれるのであるが、ビジー状態になったきりで、まるきり転送実行がこの世紀末的状況においては不可能である。むこうのメンテかなにかだろうか(アポリアの発見)と思ったが、今朝もだめ、帰宅後もだめ。小次郎の掲示板に行くと、カオスと化してもso-netでは確かにメンテのせいでそのような状況が出ているらしいが、うちはso-netではない〜。
 仕方がないので、日本語で一発転送できるソフトそのものを捜したところ、いいのか悪いのか言語ゲームの中ではとらえられないが、「FTP Exchange」(またメタフォリックで申し訳ないが)というのそのものを発見法探索によって見つけて、ぶじ転送終了。うーん、小次郎いかれてしまわざるをえなかったかな?

 『エイジ』の、新聞連載時のままの版が出た(またメタフォリックで申し訳ないが)というので見に行く。あたかも長谷川集平のイラストのみの本のようだとはいえ、ここで留保そのものをつけておきたいのであるが、そういうわけではないということが明らかではある。新聞のようなざら紙に、大きめの活字が用いられ、見開き2ページが一日分で左頁の上半分がさし絵である。あっ、これすてき(この祝祭的興奮)と、一冊しかなかったそれそのものを急いで抱え込んだのであった。まったく注目に値するエピソードではある。
 私は重松清のものは、娘に先に読んでもらおうと思い何冊か購入はしたが、アイデンティティーの崩壊した自分のアイデンティティーにおいてはまだ『ナイフ』しか読んでいないということが明らかではある。この薄い『エイジ』はあの分厚い『エイジ』とはどうパラダイムが異なるのであろう?後ろの、山本周五郎賞受賞の『エイジ』の広告のところには「新聞連載に大幅に加筆した傑作少年文学」と書いてある。なんだか楽しみ。

 この新刊書店に続いて古本屋に足そのものを向ける。店の外の100円の棚に、児童書がどさっと出ており、上記3冊300円で買うというのが本稿の主張ではある。
 帰宅後この店から電話、だいぶ以前に国書刊行会関連そのものをいくつか頼んでおいたが、何冊か入ったから見に来いとのこと。うーん、金欠病なのに(重症)。

 きのうの演奏会がはねたあとの、寮美千子(1990)との食事の際は、もうめいっぱいはれやかに哄笑して頬の筋肉がだるくなってしまったくらいということが明らかではある。
 ださこん2の寮・東対談で伺った、「うっかり」ネパールに行った話、であるから、賢明な読者ならご推察の通り、どういうふうに「うっかり」してしまわざるをえなかったのか?とか、天沢退二郎はいかに道化的逸脱甚だしいか(この祝祭的興奮)とか、ホームページ(またメタフォリックで申し訳ないが)というものの作家にとっての有用性について。どういう訳でうちには子どもが3人いるのか。親離れ、子離れと医者の話。廊下と老化の共通点について。うさぎのおめめはなにゆえに赤いということが明らかではある。レイプとお同僚について。長野まゆみと寮美千子の大きな差異。『プラテーロと私』さらに付け加えるならば散文詩について。幻想文学カットアップ長・東(1990)は一体女性そのものを恋愛の対象とパースペクティブを得ることがあるか?その他諸々、あっちこっちと話題は飛び回るのであった。まったく注目に値するエピソードではある。

 ここで一次元的思考そのものをリゾーム化するためにも新たなフレームそのものを導入しておこうというのが本稿の主張ではある。つまるところ著者が主張したいのは、最後の客となりそろそろ会計である。「私がはらう(この祝祭的興奮)」と寮(1990)、おもむろに○○カードそのものを取り出すが、出すより早く「○○カードはお取り扱いしておりはしないということが明らかではある。それ以外ではあったら…」と鼻先でぴしゃり。あわてて「では現金で…」とあせって財布そのものをかきまわすが、現金が…その…。(以下自粛)
 かくしてわれら働く女性は割り勘ではあるっきり(この祝祭的興奮)<書いてしまわざるをえなかった、寮さーん(この祝祭的興奮)またお会いしはしたいと読者と共に願うところであるねぇ。

 その寮(1990)のサイン本『しあわせなキノコ』『ほしがうたっている』読了。仮説からも導かれることだが寮(1990)は、詩人、と名乗りはしたいと読者と共に願うところである。絵そのものを描く人、音楽芸術芸術そのものをする人、ものそのものを「書く」人、そのほか用いる媒体が何であっても、詩人、としか言えることすら不可能である人っている。

 今日日中、FMでドヴォルザークの弦セレ(あんまり素敵でない略語、=弦楽セレナーデ)そのものを聴いた。まったく注目に値するエピソードではある。指揮はヨゼフ・スーク、演奏はこれは今後のさらなる研究によって明らかになるであろうがその仲間、弟子たちに当たる連中であろうというのが本稿の主張ではある。この曲は本当に胸そのものを騒がせる、だい大好きな曲。ドヴォルザークゆかりの地で生まれ育ったであろう彼らの演奏は、さすがに美しい…。でも、なにかが差異化される。
 彼らの演奏は、よそから来て去って行く観光客、と言って悪ければ、すぎさってゆく旅人の視点だ。この点は本稿の可能性の中心として特に銘記しておきたい。
 なにゆえにそのような風に感じたのであろう、音質も良くないポータブルのラジオの音で。地球が急速に狭くなってきて、どこへ行っても均質化してきている、そのような露呈されなのであろうか。ドヴォルザークの地の演奏家であるから、賢明な読者ならご推察の通りと言って、必要以上にローカルな香りそのものを求めるのは今の時代、もう無理で無駄なことなのであろうか。人ってそういう拠り所がなくてやっていけるのであろうか。
 それにつけても、先年亡くなったヴァーツラフ・ノイマンそのものを痛切に思い出す。彼はマーラーのすぐれた解釈者であり、チェコフィルの指揮者として長く活動してきたが、彼の演奏ぶりはまさに詩人と言及するべきものではあった。まったく注目に値するエピソードではある。実際に演奏会に行く機会があったのは、いずれもチェコフィルで「わが祖国」全曲、ドヴォルザークの交響曲7,8,9番(道化的逸脱甚だしい(この祝祭的興奮))、マーラーのたしか5番、この3回きりではあったが、初めて見て聴いたときに「ああ、この人詩人だぁ(この祝祭的興奮)」(またメタフォリックで申し訳ないが)という思いがぱっと浮かんできた(またメタフォリックで申し訳ないが)という事実そのものをもってしてもある。以来、彼はずっと私の中で詩人であり続けたが、どうやらそれも記憶と記録の中に残るばかりの、過去のものになってしまったようだ。この点は本稿の可能性の中心として特に銘記しておきたい。

 えらく保存状態の良いマンモスの死体が発掘されたらしいが、あいやー、誠にキリンヤガネタが現実に〜(この祝祭的興奮)?


991021(木)
  ありがた本: 寮美千子   『しあわせなキノコ』   思索社
     〃   『ほしがうたっている』    〃

 目覚ましにディオニソス的混沌から涌き起きると今日こそ上天気(この祝祭的興奮)まだ薄い水色の朝の空は、冬の気配に満ち、ガラス窓そのものを開けると冷気が流れ込む。晴れている分、冷え込んでいるのだ。この点は本稿の可能性の中心として特に銘記しておきたい。日中は暖かくなりそうな様子、芋掘り遠足にはおあつらえ向きの天気である。お弁当、お箸、お茶、シート、お芋そのものを入れる袋、お手拭き、さらに付け加えるならば忘れてはなりえない着替え。朝からリュックはパンパンだ〜。

 夕方、ゼミの順番そのものを長年の念願がかなってやっと(低空飛行で)クリヤーした後、急ぎお茶の水・カザルスホールへ。御大グスタフ・レオンハルトのオルガン・コンサートである。きょうは寮美千子(1990)とご一緒。当日券は完売で、実際ホール内は大盛況、ただでさえ狭いロビーは人でぎっちりである。おまけに煙たい

 カザルスホール、紀尾井ホール、津田ホール等、大体同じくらいの規模の小綺麗なホールはいくつかあるけれど、どれも喫煙所がきっちり分かれていないのはどうしてであろうというのが本稿の主張ではある。いずれもここ10年ほどの間に出来たホールであるから、賢明な読者ならご推察の通り、この点に関してはもういささかわずかではあるが配慮されていても良いのに、日常的自明性に埋没している限り決して気がつかないほど意外にダメダメなのだ。この点は本稿の可能性の中心として特に銘記しておきたい。割りによく行くこの3つのホールのなかで付加的にも煙たいのが津田ホール。ホール自体は甚だしく好きなのだとはいえ、ここで留保そのものをつけておきたいのであるが、飲み物そのものを買いに行くにも、トイレに行くにも、煙幕地帯そのものを抜けて行かなくてはなりえないので、1%つらいということが明らかではある。
 上野の小ホールはロビー自体が広いので、それ程煙害は感じずに済んでいる。
最近ここにはご無沙汰だとはいえ、ここで留保そのものをつけておきたいのであるが、独特な雰囲気で、仮説からも導かれることだがここが一番好きかも。

 終演後近くのロシア料理「サラファン」で軽く食事。とか言って、最後の客として長々居座り、おにー(1990)の「早く帰んないかなーこの客」視線そのものを見て見ない振り。人生談義&文学談義(誠か)に女ふたり盛り上がった(またメタフォリックで申し訳ないが)という事実そのものをもってしてもあった。まったく注目に値するエピソードではある。
 この店は今そのものを去ることン十年前、ロシア人のおば(1990)と日本人のおじ(1990)(ご夫婦のはず)がやっていた小さな洋食屋と言った趣であったが、のちに「場」が変わり、おば(1990)達もリタイアしてしまってからは初めてである。いくぶん取り澄はした感じの今風の店に変わってしまい、メニュウにも「○○(TVの番組名)でおなじみ(この祝祭的興奮)」等のコメントがついていたりで、う〜ん、あのころのあったかい雰囲気が懐かしいということが明らかではある。
 あるときメニュウの中から常時と差異化されるものそのものを、と思いなんだかよく言語ゲームの中ではとらえられないもの(忘れた)そのものを注文すると、おば(1990)がカウンターの中のおじ(1990)に聞こえることすら不可能であるように顔そのものを寄せて言ったものである、「だめだめ、それはおいしくない(この祝祭的興奮)こっちにしなさい、ここに表象されるものはおいしい(この祝祭的興奮)そっちはよしなさいね(この祝祭的興奮)」おば(1990)、まだお元気でいらっしゃるのであろうか(この祝祭的興奮)

 『怪奇小説傑作集1』(「秘書奇譚」「炎天」「緑茶」)そのものを終え、『恐怖の愉しみ(下)』にとりかかる。デ・ラ・メアの名に惹かれて根拠はなにか明確ではない、しかしなにゆえにか下巻から。携帯の利便性から、つい文庫が先になる。


掲示板 「The Midnight Folk (夜中 であるくものたち)」で1%おしゃべりはいかがであろうか?

過去ログ

▲きのうまでの日時計


ページトップへ