小鳥の和音
k o t o r i n o w a o n
 中学生のころ・・・
 ただただピアノを弾くことが好きで、鍵盤に向かっては好き勝手に指を走らせていたころ、なんとなく気に入ってしまって気がつくとしょっちゅう弾いているある和音があった。

 ボクはこの和音を、自分勝手に「小鳥の和音」とよんでいた。

 それは右手の親指から中指だけの3本の指だけを使って弾ける和音で、白い鍵盤だけ使って親指の隣の音に人差し指、そしてひとつ跳ばして中指を置く小さな(コンパクトな)和音だった。
 弾くのはどの音でもよかった。なんとなく指をその形にして鍵盤の上に置いたら、そのままコンコンコンコンと短めにたたいてみる。10回でも20回でも、好きなだけコンコンコンコンとやったら、今度は好きなところに移動する。ときどき、とても離れているところに移動してみたり、順に隣の音に移ってみたり・・・いつ弾いても、何度弾いても、この和音にだけは飽きることがなかった。

 どうして「小鳥の」和音だったのかは、今は覚えていない。コンコンコンコンという音が、えさをついばむ様を連想させたからだったかもしれない。またはあるとき、その音が“チュンチュン”と聞こえたからだったかもしれない。
 ともかく、それはボクが見つけた、ボクだけの小鳥の和音だった。

 やがて、ちょっと勉強してコードネームがわかるようになると、ボクの好きな小鳥の和音が、ある譜面では Am9 と書いてあったり、別の譜では FM7 だったり C(add2) だったりした。

 でも、これって、ちょっとちがうな と思った。

 そうやって、譜面を見ながら Am9 や FM7 を弾いてみると、たとえ同じ音を弾いていても、もうそれはボクの小鳥の和音の音じゃなかった。

 やがて、ボクは譜面を見ながら Am9 や FM7 や C(add2) という和音を弾いてみて、自分の書いてみた曲にもそういうコードを書いてみたりするようになって、そうしているうちに、ボクはだんだん小鳥の和音のことを忘れてしまった。
 それからボクはいろいろな和音に出会って、いろいろな和音のことを知った。和音がどのように積み重なって、どのようにつながってゆくのか知ることにワクワクした。自分だけの新しい和音を作ることに挑戦もした。何十曲も、何百曲も、ちがった和音を持つ曲を知り、そうやって何十年間かピアノを弾いてきた。

 でも最近になって、どんなにいろいろな曲をいろいろなふうに弾いていても、いつも同じような和音しか弾いていないんじゃないだろうか…という思いが心をよぎるようになった。もう、ピアノで今まで弾いたことのない新しい和音を見つけるなんていうことはないんじゃないだろうか…ふとそんな気持ちになった。

 そんなときボクは、もうどんな曲を弾く気も失せて、どんな音を出すこともいやになって、ピアノの前でボーッとして座っていたりする。

 ある日、そうやってボーッとしながら、なにげなく鍵盤に指をおいてチョンと押したら、ボクは思いがけずに、そしてあまりにも唐突に、何十年ぶりで「小鳥の和音」と再会してしまった。それは Am9 や FM7 なんていうコードネームを持たない、純粋な小鳥の和音だった。
 そして、その小鳥の和音はボクに、初めてピアノに触れて、そこから発せられる音を、余計なことを考えずにただ心から楽しんでいたころの自分を思い起こさせてくれた。

 ボクは、この小鳥の和音を、これからずっと大切にしてゆこう と思った。

 最近になって、ヲノサトルさんという人が書いた、おもしろい音楽の本をみつけた。その本の中には、なんとボクのあの小鳥の和音のことがちゃんと書いてあった。そして、ヲノサトルさんはその和音を「甘い和音」とよんでいた。

 なんだか、とてもうれしくなってしまった。
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