みみをすます
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外連検診のすすめ

 「外連」という言葉がある。「けれん」と読む。
 江戸は元禄の時代に、歌舞伎に宙乗りや早替わりなどの演出を組み込み、当時の観客を驚かせ、喜ばせたことが、後に「外連芸」と言われるようになった。この言葉には、本来、人をだます、ごまかすという意味があり、近代の大劇場における歌舞伎では、外連芸が「俗受けをねらった、芸の本道からはずれる業」としてご法度になっていた。
 ところが最近、この種の演出が復活し、「外連」という言葉がうたい文句として使われているようですらある。「世は元禄」と言われ、江戸文化が見直されている風潮のひとつの表れでもあるのだろうか(もっとも、元禄文化そのものは上方中心の文化であったが)。
 同時に、「外連」の意味も少しずつ変化してきているようである。

 さまざまな分野の表現者、特に舞台表現に携わる者が一度は(人によっては常に)対峙(じ)しなければならない課題のひとつに、表現する者(=自分)と、それを見る者とのかかわりを考えるという事がある。自分の表現としての芸や技をいかに他者に対してアピールするか考える時に、外連という要素が入り込んでくることは避けられない。なにしろ現代では、外連味(けれんみ)のない事すら一種の外連と受け止められてしまうからだ。
 もともとは、舞台という一種の「ハレの空間」における技法であったのだが、ハレとふだんの生活の境目があいまいになった今日、外連は日常の生活にもどんどん入り込んできている。それは職場や、宴会の席や、組合の寄り合いにおいてだけではなく、友達や家族といった普通の人間関係においても、自分をことさらに印象づけたり、よく見せたりするために言動や表情について考えることを重要視する傾向にうかがい知ることができる。
 そればかりではない。今では、テレビも雑誌も、音楽も芝居も、そしてあらゆる商品広告が“外連”満載でわたしたちに刺激を送り続けている。

 「外連」の本来の意味とその効果を再認識して、慢性的に鈍化しつつある感覚を見直す必要があるのではないだろうか。

(1992/2/22 河北新報夕刊に掲載されました。)
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