平成9年度岩手県南史談会定期総会



平成9年7月27日(日)、一関市総合防災センターを会場に岩手県南史談会の定期総会が開かれた。
 開会の言葉、大島会長の挨拶、市長の祝辞(博物館長の代読)、一関市図書館長の祝辞につづき、平成8年度事業報告および会計決算承認、平成9年度事業計画、予算案が承認された。
 平成9年の事業計画のうち第120回例会として、史跡文化財めぐり「後三年の役の史跡を訪ねて」秋田県横手方面が10月5日に予定されている。また第121回例会として平成10年新春講演会並びに交賀会が平成10年1月24日(土)一関市文化センターにおいて安富有恒先生による講演が予定されている。
 総会のあと第119回例会として研究発表会が開かれた。

今回の発表者とテーマは以下の通り。

畠山喜一「戊辰戦争(秋田戦争)の資料──小太鼓にまつわる話題」
 戊辰戦争のさい、一ノ関藩士も奥羽越列藩同盟の一員として戦場に出たが、藩士伊藤敬(ひろし)の陣中日記による「秋田戦争追想記」(深見秋太郎著)をもとに秋田戦争と一ノ関藩とのかかわりをとりあげた。また伊藤敬の二男である伊藤永助、三男の須藤虎の経歴、墓誌、資料として敬、永助、虎の写真も発表。さらに永助が使用した陣中小太鼓、および木製陣貝の説明があった。


千葉一郎「秋田戦争における一関藩の農民動員状況」
 秋田戦争に動員された農民層についての資料として、昭和初期(7年)に旧一関中学校教諭であった深見秋太郎氏が地元紙(現「岩手日日」か)に発表した「秋田戦争追想記」の記事から、用語、出身の村、任務などについて説明、参考資料として農民の村別戦死者の氏名(「戊辰羽役線状略記」)を発表。「秋田戦争追想記」は、当時、秋田戦争出征者中ただ一人の生存者であった、須藤虎(一ノ関兵学者伊藤敬の三男)の追想談を交えて連載されたいうが断片的にしか遺されたいない。須藤虎は安政元年生まれ、明治元年15才で出征、甲三番隊鼓手、昭和7年当時79才)。なお深見秋太郎氏はほかに、「南部藩を仮想敵としての関城防衛策」、「廃藩と一関」、「明治維新と一関」などの連載を同新聞におこなったという。

小野寺啓「中里秀屋系図の小野寺氏について」
 一関市中里の家号・秀屋小野寺氏の系図についての発表。同家の系図については岩手県史中世編・一関市史でも紹介されているという。小野寺氏は栃木県下都賀郡岩舟町を発祥の地としている。その祖は桓武天皇という。建久2年磐井郡中里に居館を持つ。小野寺胤勝を中里小野寺家の初代とする。ただ、城主として定住したのは8代光胤からではないかとのことである。その後12代内善正のときに中里小野寺氏は滅亡する。秀屋小野寺家は中里小野寺家の分家だという。資料として中里城、前堀城跡の説明略図、中里小野寺氏家老子孫「秀屋」家紋、柵瀬小野寺総領家・柵瀬小野寺一門小野寺家の家紋を発表。

鈴木五助「舞川地区における和算道場について
   ──佐藤円右衛門・操について」
 一関市舞川地区の関流和算道場の果たした役割、および道場に指導者としてかかわった佐藤円右衛門とその長男操についての調査発表。舞川地区の和算道場は昭和30年代まで行われていたという。発表者の鈴木氏は以前にも、「研究紀要・24集」に「舞川地区における最後の和算免許状伝授のこと--関流数学見題免許状授与式参列記--」を発表されているが、和算についての知識のないものにとっても興味深い話である。 舞川地区の道場は廻り道場という形を取っていたという。一般の家(後には公民館なども)を道場宿としていたという。ただ教える内容は本格的なものではなく算盤を使い、八算(わり算のこと)を主としたという。1回の講習は1週間くらい、朝9時から夜9時までの12時間。机は各自持参か畳に座ったままだったという。道場生の年齢は高等小学校卒業者(14、15才)くらいから25才くらい。講習が終了したときには(道場開きといったという)をする。総出で料理を作り、会食したという。和算道場がいつ頃から始まったのか不明だそうだが、遺された佐藤円右衛門の学習帳や大正10年代、昭和10年代に道場で学んだ者たちのノートを資料として発表。次の研究成果の発表を期待したい。

 当日、会員の佐藤鐵太郎氏によって所蔵の書が公開された。
伊達慶邦(仙台藩主第二十九世)の歌、および夫人の孝子(八代姫、後夫人徳川斎昭ノ女)、泰子(純姫、内大臣広幡基豊ノ女)、田村村顕(一関藩主第三代)、高平真藤、佐々木親覧、大槻文彦らの歌である。
 また、研究発表をされた畠山喜一氏により秋田戦争当時使われたという、陣中小太鼓(伊藤永助が使用)と木製の陣貝が展示された。


伊達慶邦の歌

 ほととぎすのきはにちかく鳴く
  こゑをあな面白と共にきくなり

(右の書の上が伊達慶邦、下の二枚が夫人の歌、中央は田村村顕の書)



 最後に当日配布された「研究紀要第26集」の巻頭に掲載されている、会長による「刊行にあたって」を掲載する。


 紀要刊行に当たって

     会長大島英介

 歴史とは人間生命の営みの足跡であり、これを探ることは、人間生存の意義を知ることにあると思う。地域の歴史研究会としての「岩手県南史談会」の存在理由である。
 そこで「史談会」の過去を振り返ってみたい。その発足は昭和二十八年二月で、今から四十四年前で非常に古い。その間、若干の中断期間はあったが、これ程長期にわたり運営された研究会は県内でも少ない。
 会員の研究発表の場である、年一回発行の「研究紀要」も二十五集に達し、その研究内容の豊富さは甚大である。これから地域文化財の歴史的解明を志す者にとって、第一にひもどかなければならない基礎的研究の宝の山と云ってよい。
 また史跡文化財めぐり旅行も十七回に達し、その足あとは県内は勿論のこと、宮城、福島、青森、秋田の諸県に及んでいる。
 それだけに、今まで歩んできた「史談会」の活動には、その時代なりの苦難の道があり、これを支えてきていたゞいた会員の先輩諸氏の御努力に感謝申し上げねばならない。反面現在では、思いの満ち足りた誇りが、会員の方々にはあってよいと思う。
 しかし、「史談会」も現在、第二の時代に入ったと私は思う。それを率直に申し上げたい。
 今まで研究一筋の活動できたことはよいとして、これからは会の財政的基礎を考えねばならないという心配が起こってきているのである。このことを無視すると、最も大切な「研究紀要」の、頁数にも影響し、十分な研究成果の場が失われかねないことゝなる。
 具体的に申し上げると、会員数の増加を真剣に考えねばならないということである。
 「岩手県南史談会」という名称に恥じないよう、一関にだけとゞまらず、近隣の町村へ会員の増加をお願いしなければならない。そのためには会の運営に当たって、地域の方々の要望をできるだけとり入れた考えが大切だと思う。
 今まで、こうした、心配がとり上げられずにやってこられたことは、幸いであったのかも知れない。だがこれからは、それが許されない。会員の方々、そして地域の方々からの、厳しくとも温かい眼と御援助を、お願いしたいのである。(平成九・四・一三)


1997.8.16.
2001.2.14.更新。

文責:熊谷博道