改訂版・はじめに【1997.4.6.】
「柴桑繁盛記」は芦東山の生家(家号・深芦)の分家で義兄三右衛門を祖とする、 家号「柴桑(細桑・宰官・さいかん)」の歴史について、子孫の一人である芦育平氏による聞き書きである。
芦育平氏(1887.3.10.〜1975.1.26.)は父の祥平氏(1854.5.21.〜1922.3.4.)とともに芦東山顕彰に生涯を捧げ、資料の収集と保管、芦東山の著作調査研究に訪れた人々との応対協力などに生涯を捧げ、また自ら「芦東山先生伝」(1965.)を著すなど、現在の芦東山先生記念館の基礎を築いた人物である。
「柴桑繁盛記」に登場する人物のうち、芦章右衛門は天保から嘉永年間にかけて仙台藩領東山北方の大肝入をつとめ、天保4・7・9・12年に金穀を拠出し、知行として730文を下され、永々苗字帯刀を許されている。著書として「廉譲亭記」(天保15)や「春旃夜話」があり、当時の農民の生活を記したものとして「大東町史(上巻)」にも引用されている。同書に掲載されている「安政六年渋民村人数御改帳」によれば、芦章右衛門は渋民村最高の土地所有者であり、村平均の二人分を所有している。家内人数は25人であり、内訳は家族14人のほか、添人・譜代質物奉公人3家族9人となっている。
芦章右衛門の長男である文十郎は、仙台藩最初の高炉による製鉄を行った文久山高炉を建設した。また「年中日記」を著したが、これは天保の飢饉当時の農民の生活を知る資料としてやはり「大東町史(上巻)」に引用されている。文久山高炉については「大東町史(上巻)」(大東町教育委員会。1982.3.31.)、「仙台藩洋式高炉のはじめ〜文久山」(芦文八郎編著。1988.7.8.)、「みちのくの鉄」(田口勇・尾崎保博編。アグネ技術センター。1994.3.31.)などが詳しい。
「柴桑繁盛記」はタイプ印刷、縦21センチ、横15センチ。内容の構成は緒言、本文29ページ、参考資料(1)年表、参考資料(2)芦章右衛門を中心とした芦家家系図からなり、奥付はついていないが、緒言によると発行年は昭和43年秋となっている。
おもに人名を中心としてルビがついているが、ここでは省いてある。
なお入力不可能な文字は{_}にカタカナで読みを入力した。
登録掲載を許可していただいた芦文八郎氏に感謝します。
改訂版では芦文八郎氏のご教示を得て誤字脱字を訂正した。この『柴桑繁盛記』は、Nifty-serveの歴史フォーラム(FREKI)のデータライブラリ〔LIB01#81〕にも登録されています。
『柴桑繁盛記〜抄〜』
緒 言
先に芦東山先生伝をまとめ、世の心ある人々に頒ちましたが、この度、わが宗家柴桑の歴史をまとめ、柴桑繁盛記と名づけ、上梓する運びとなりました。
どこの家にも祖先の歴史はあり、祖先の恩を思わぬものはありません。しかし、それらを明らめようと試みても数代以上に遡ることが困難なのが実情であります。しかるにわが宗家柴桑においては七代の永きにわたり伝統を保有し、多くの功績を残しました。この事はわれわれその血を享けた者として誇りにも思い同時に認識を新たにすべきことと思います。一体このような繁栄は何に起因するものでありましょうか。老生はやはり深芦の祖作左エ門白栄の卓越した実践力と芦東山先生の徳光によるものと第一に考えております。偉人の余慶、徳不孤の例と申せましょう。
明治維新後、天下の尊王論者の出入がはげしく、それにともなう出費も多く、明治十年、子孫の禎輔、祥平、{トウ}輔の三人が家財の整理にあたったところ、全財産をあげても、負債の残るという始末でした。幸い縁者の折壁の小山亮七が篤志をもって出資し、村内だけの耕地四町、山林二十町を残すことができ、その運営には{トウ}輔が任じられました。戦後農地改革によりその三分の一が解放され、今日に至っております。 山紫水明の地、渋民に生を享けた人々の感奮興起を望んでやみません。昭和四十三年十一月菊花かおる頃
芦育平
元禄以前のことは草昧知る由もないが父祖の伝えるまゝを記すと、元祖は明戸岩渕主殿の分家で要害の北うしろ、姨子沢に創立とのこと、そのうしろの山の中腹に墓石があり毎年七月七日に墓掃除を行い同月十四日には主人は侍者を連れて墓参する習慣は今なお継続しています。
一体、この姨子沢は遠くは先住民族時代からの屋敷であったのかこの一帯の畑地からは土器石器の破片が至る処に発見され、又近くは天正の頃及川遠江の姨女の住居があり、その南の麓にそれを葬った塚が歴然と今も残ってあります。この姨子沢の名ができたところへ屋敷を定めたもののようです。
ところが不幸にも子供がなかったため同類の岩渕作左エ門が縁者の猿沢村岩の下紺氏から養子を貰って育てゝおりましたのが幸いにも立派に成人しておりましたので又貰い子して養子として此の家を継がせたのでそれは通称を酉松と云いました。したがって酉松は実父は猿沢村岩の下紺野豊前通称伝右エ門、母は同村関根屋敷助左エ門の女であります。
深芦の作左エ門の長男卯左エ門には子供が一人で、何となくもの足りなく思っておりました。昔からの俚言に「子を生みたい人は貰い子をせよ」とのことで幸いに縁者の岩の下では児沢山であったので四男の酉松の三才なるのを養子としたところ俚言の通り翌年男児が生まれました。これが後の東山幼名善之助であります。そこで祖父が大喜び二人の孫の教養につとめました。この頃酉松を幸之丞と改名しました。生来の利撥な上に作左エ門という篤行家の精魂を傾けた教養また同学善之助は英明で、勉強家、これと同道し正法寺定山和尚にもつきまた十二才の時から家庭教師として聘した素忠先生の膝下にあること二十年、ですから、詩作は常に東山先生よりも優秀であったと伝えられております。号を三省といい詩集が数冊あります。幸之丞は成人して近所の一類姨子沢に又養子に入り深芦から隣地を分譲されここは農家の屋敷として地の利を得ておりましたのでここに屋敷換えして柴桑が多いので細桑と呼びました。又この頃、幸之丞を三右エ門と改名しました。そして二つ年下の野手害の及川市左エ門の女を娶り文字通り勤勉力行、農業に営々とした結果、家運は年とともに繁盛し、真に細桑の意義ある先祖となり享年六十三才宝暦五年四月朔日卒しました。墓は舎後の深芦山の麓にあり、謚は三省院英岩了雄居土、室は蓮乗院花紅妙顔大姉であります。文十郎の生年月日は不明でありますが死亡年月日からおして享保四年生まれであり幼名は斉十郎或は宰十郎と云いました。これは素忠先生の詩集兎園集の八巻に見えております。
その頃の長寿寺住職が犬が好きで飼っておりましたが時々掬水庵にきて盗食しある時は机辺にあった詩集を喰い破ったことさえあったということです。そんな話を素忠先生が三右エ門に話しているのを傍らで聴いていた二才の宰十郎がこれ見よがしに、詩集を口にふくみ四つ匍いして戯れたという記事があり「可笑可笑」と記されてあります。これを見てもわかるように宰十郎は幼少の頃から模倣性が強く、父と晴耕雨讀を共にし、父の性格そのまま受け継いだようでした。東山先生が放免されて渋民に帰られた頃は生計も頗るゆたかであったので自宅の隣地に住宅を新築して先生を迎え日常万端のお世話をしてあげたと云うことです。これは己れの人格を切磋琢磨するにあずかって力があり、殊に子供の武十郎の十八、九才という学問盛りの年令に先生の生き生きとした実学の指導啓発が如何に有意義であったかは想像に餘りあるところであります。
また当時は自然法で肝入職は其の家に係ってあった時代にもかゝわらず、四十代の若さで文化年中渋民村の肝入職に挙げられ、その職が子孫に伝わりその孫の章右エ門が大肝入に登るまで続いたのであります。
次は即ち細桑四代の新七郎で安永二年七月八日の生れであるがこの児の初顔を見た東山先生は殊の外に喜ばれ「よくも己れに顔を見せた」と幾回も繰り言をいわれその顔をしげしげと見られたと伝えられております。
新七郎も亦父祖の志をつぎ勤倹以て愈々家を富ませました。特筆すべきことは農閑の副業に地方人に砂鉄川の砂鉄と砂金を採取させ、砂鉄は煉鉄し、又藍を栽培し藍玉を作らせ又紺屋の業を習得開業しました。又その一人娘に婿をとりこれのため長屋を新造し地方の徒弟教育を創立しこれは代々の青壮の子を以て教授の任に当らせ明治維新に至るまで継続しました。
此の時代になると農業もかなり大規模で常に下男下女数人を使用したものです。そしてこれらを無駄なく働かせる方便も至れり尽せりでその一例を挙げれば冬の夜長には夕食後全部の下男は藁細工それも一定量主人に納めその外は自己の特別収入として各自に与えました。また下女等には綿を紡がせ年末には主婦を初め女の全部に綿一重(数百匁)を年末賞与としてあたえ、休日多き正月の談話の間も手は暇なく働き、これが綿糸綿布となれば、必ず主人に「これは戴いた綿で作りました」と披露するのでした。主人は「やれやれ辛棒であった」とその製品を一瞥しよくやったとねぎらった上時価にふんでその代償の金子を副え、己れがこれを買ってお前の作業衣にさせたことにしたいと手渡ししたといいます。これはこの家の恒例になっておりました。
かような地方の大農家でありながら可愛いい一人娘である長にも必ず作業衣を着けさせ働人に交えて一人前の労働を連日させることが平常事でありまし。殊に長は鎌掛作業が人一倍勝れておりましたので一人分を日の高いうちに終わり夕食の準備にかゝると云う始末。ある時、大勢は陰口に「長さんは手早だと人は言うが自分の刈取ったものは自分がかたづけるべきだ」と言うたことを長は聞いて、翌日からは作業を始めると少しも休まず努力して一人前の刈取りを終った上に、刈上げたものは一把残さず整理し、ニコニコしながら皆の者己れはこれから夕食の準備にかゝってお前方を待つよと小急ぎで家に帰られたと云う話は後世まで伝えられていました。
新七郎は唯勤勉であり倹約して蓄積につとめたというだけではありません。この頃の東北は冷害に見舞われ殊に天保時代には貧民の餓死するものも出来るという始末の同四年に自ら進んで籾百俵を郷土渋民に振穀しました。このことが時の藩公の耳に入り恩賞とし公田三石三斗を下賜され又苗字帯刀を許可されました。
なおこの時代の諸役人は家づきの自然法が作用して特殊の事情のない限りその家代々に伝わる制度がそのまゝ行なわれておりましたが、新七郎は渋民肝入職を文化十年四十才の若さで受け、それ以後娘婿の章右エ門が東山北方大肝入になるまでこの家の世襲となりました。新七郎は晩年名を真質と改め専ら真摯な信仰の生活に入りその居室に正観音の軸幅を掲げ一日何十回となく南無観世音菩薩と称号を唱えたことは世間普く人の知るところであります。嘉永六年五月十五日、享年八十一で眠るが如くこの世を去りました。妻運は渋民横屋菊池嘉八の女であります。
章右エ門は真質の一人娘長の婿で実父は天狗田中屋敷金持英の次男、母は大原館内平賀氏の家臣代々学問を以て仕えた金野三郎平の女であります。寛政八年二月二十日の生れ、幼名を仲冶と呼び、母の教導よろしきをえて少年時代から学問好きでありました。文化八年二月廿日、年十六才で細桑の同年の長の婿となり章右エ門と改名同九年規矩助十一年幸三郎十三年財六と男児三人をもうけております。
一体章右エ門は守勢堅持の人で平常の業は養父の志をつぎ徒弟教育と紺屋の形付けが主で、朝夕は読書習字に余念なく文政十年年三十二才の若さで養父の跡を襲いで渋民村肝入職となり地方産業の為には大狼山に新堤を築き三町余の水田を開拓、又敬神崇祖の事業としては長寿寺の移転八幡社の新築等をなしました。両所の奥の院の天井は自らの手によって作られたものであります。
かくして天保七年九月二日に東山北部十七ケ村の大肝入にあげられました。同九年治蹟中再三の凶作に金品を貧民救助に費した篤志の賞として藩より代々苗字帯刀御冤、なお公田四斛を加増されこの頃岩渕姓を芦と改めました。晩年は専ら写本を楽しみ又書道俳句にも趣味をもちました。
現存するものも少なくありません。梅咲いて思わぬ客の一座敷
かりて来て人の枇杷まで枯しけり号は東洲巨山を用いております。
ここで話を章右エ門の妻長の逸話に移します。時は嘉永の初めのある日の夕方、紺屋の形場の二階で、余念なく綿を紡ぐ孫嫁の智野の作業を眺め乍らの話「おちの。お前はよくやっている。これが出来たらお祖父さんにお目にかけるんだ。そうしたらどんなに喜ばれるかしらんよ」と云ううちに目を夕空にうつしました。烏が三羽東へとぶ。その時また「おちの。見ないか。あの烏。先のが二羽前後してとぶ。一羽はどこまでも後れる。先のは規矩助と幸三郎で追いつけぬのは財六だ」と見守っていました。智野は傍観して一体お祖母さんは何をいっているのかその意味が解せなかったということです。これから二、三年後の嘉永三年、年五十五才でなくなられました。舎後の旧墓地の東南前方の玉光院如水中月大姉はその墓です。
この頃台所が俄かに大混乱したことが二回あります。
ひとつは嘉永四年の七月十六日で近郊の獅子舞いが玉光院のお弔いと名をうって集まったときです。組数は十八組で一組は少なくとも芸人は十人それに付き添いと代表者では少なくとも十四、五人それに見物人、屋敷中は黒山と化し、その日の正午頃には常に丈余の水を漂わせている井戸は汲み尽されて濁りはじめ近隣の井戸まで飲み干したということです。
もうひとつは幕末に近い頃の百姓一揆の来襲を受けた時のことです。空の古俵を背負った壮士が何百人と屋敷にあふれたものものしさ。しかし誰一人として乱暴狼籍するものなく休憩所にされた観でしたが只女という女は一人残らず主婦をはじめ老若を問わず迷惑と云うことです。主謀者かその手下かの四、五人は主人に面会を求め「いやいやお家には決して無作法は致しませんが遠方から加勢したものは空腹をかゝえて悩んでおる始末ですのでなにとぞ炊き出しをして戴きたい御願いです」との事。俄かに下男等に炊事をさせ女という女は主婦をはじめ握飯作業をさせられ皆の手の皮は焼けたゞれたというのです。その時の主婦はついこの間章右エ門の後妻に迎えられたばかりの通称岩谷堂婆々様という岩谷堂素封家菅原源三郎の次女でおこんといいましたが、主人に焼けたゞれた両手を出して「本当に強訴ってひどいものですネー」と云われたそうです。
こゝでこの時代の世想をいさゝか書かなければなりません。
元禄時代は前代未聞の華奢時代と人はいいますがそれは上層社会だけで一般にはそれ程ではありません。殊に江戸幕府から離れて遠い東北は猶更の事と筆者は考えます。むしろ課税は年々増加の一路をたどったので下層界は実生活の最低にも事欠く赤貧が年々増の一路をたどり続けたに違いありません。それでも各藩に較べたら仙台藩は良かった事は間違いないと思います。
この時この家は初代で第一の富裕を築きあげそれから三代凡そ百年一日の如く家風動かず勤倹以て家を治めたのですから近郊に比類なき財宝が集まりその上徳望も高まりました。丁度その頃藩侯楽山公が藩内巡視で東山にも来られる事を聞き章右エ門は公の御一泊を藩に願い出で、そのついでに宿舎の新造の許可を得ました。それは一本杉の藩邸に真似たものですが建築の際は世人が大挙して喜捨し外観はそれ程でもありませんがその材料結構は田舎では見ることの出来ない一屋となりました。その上庭園その他当時としては至れり尽せりの構えでありました。ただ不幸にして、邑内に一人の天然痘患者の発生を見此事が沙汰止みとなってしまいました。
時も時幕府の窮乏は民の信望を失わせ、加えるに欧米の列強は日本の眠りを揺起すと云う騒然たる世となるにつれ都会より流出する文人墨客或は尊王攘夷論者のこの地に来訪するもの日にその数を増し、その滞在も二、三日或は旬日稀には数年間家人の如くこの家を出入するという有様でした。これは明治の初年まで凡そ四、五十年の久しき亘りました。
この頃は徳川の末期で田舎にもそろそろ下克上の気配がしのびより自然その風が現われ今までの細桑は誰云うことなくサイクワンと呼ばれ、外界から文字を宰官と署名するようになりました。殊に当時の大肝入は警察権から裁判権も兼職でおりましたので朝夕は小屋主は御用承りに出入し、御用の間と呼ぶ一室の縁先で御用伺いをし、万一刑事犯のでた場合はこれを前庭のメンドウ桓にしばりつけておき報告の上御指示を窺う定めで、もしその事件が軽微でないと判断すると直ちに立会人として郡奉行代官を陪席させ、時には合議裁判の形をとったのでそんな場合には法庭は奥座敷があてられ書記は縁側に机を出し被告は書院前庭に筵をしいて土下座をさせられ試問されました。この場合、議を要する時は必ず御用の間に評議者だけ移って合議し、また法廷に出るという形式をとったといいます。この家の大肝入時代としては旅芸人、無頼者、浪人、窃盗位で大事はなかったが、只一度御家騒動の込み入った事件の時、判例を出した事があるということです。
この間この家に生れ育った三羽烏の章右エ門の長男次男三男と孫長の嗣の四人を以下列記して見ます。
長男の規矩助後の文十郎は頭脳明晰常に寡言沈着、次男幸三郎後改名襄平は何事にも果敢、恐れず驀進するという気質、三男の財六後の文三郎は温和な性分で静かに風流を嗜む形でありました。青年に達する頃には世間にありふれた本は読み、兄の文十郎は文筆とも豊かな方、襄平は時の画家東江に学び四君子やちょっとした山水の墨絵は普通に画き、兄弟三人揃ってやることとしては謡曲と能楽、笛太鼓の時位で、平生は別々の生活振りでした。文十郎は父の志から天保七年二十五才で仮肝入に、同九年に渋民の村肝入を兼職しました。しかし、その職は必ずしもその気性にあわなかったようです。殊に当時は識者の出入が年と共に増え、その応接に当っているので藩内の事情は勿論国内の様子ばかりでなく世界の動きも断片的に伝えきくに及び、騒然たる世の中で無為に暮す気持になれず何か生き甲斐ある生活をと希う気持が勃々と湧いて来るのでした。そしてそのはけ口として、弟の襄平を分家している釜石田を訪ね時には夜が更け鶏鳴が暁を告げるまで話しあうこともしばしばあったと言われています。筆者の祖母は「本家の兄上様が来られるとお前には用はないから早く休めと云われ、何の相談があるのか、旅行先から帰った主人と一晩中話し合っていた」と話しておりました。
さて、かくして帰決したものが鉱山事業でありました。その間文十郎は家にあって諸方の来訪者のうち、その志のある人から余すことなく意見を聞きまた古書を調べ弟の襄平をば仙台或は江戸後には長崎に送り、一向という通訳を雇い、西洋の鉱炉について調べさせたりしました。その結果実現可能の理論が出来あがったのですが、前代未聞の大事業であるだけに、これまで健実そのもので歩んできた父が同意するか否かが、また一難関でありました。幸にこの家は三代前か砂鉄川の砂鉄製錬を些かでも冬季の農閑期を利用し毎年経営しておりましたので、先ずその試みにということで許され鉱石を江刺郡伊手村にもとめ小規模の鉱炉を宅地内に築きました。そしてその結果がよかったので今度は鉱区の近い又薪炭の安価な所という上から興田村京津畑にやゝ本式のものを造築して成功しました。そして文十郎は藩から御山下代を命ぜられこれまでの肝入職を辞して仙台藩内の鉱山廻りをすることになりました。これは安政七年からであります。
これまで屋外に一歩も出たことのない文十郎の生活が急に賑かに多忙になり外出することも多くなりました。その旅行の有様は全く当代の小名の如くで近くの場合は旅籠を用意し、数人の力士とその前後に一本脇差の見張人を供とし、遠くの場合は鞍嫌で、乗掛馬を用い二人の口取りと前後に二人の供人を従え、悠々たる姿でした。そして芦文十郎の御山通いと世間の目を驚かせたものでした。この間に弟の襄平は文十郎名儀で仙台藩への交渉或は江戸長崎に出張、斯道の名人を訪問しその得るところを兄に報告。二人の合議、回を重ね新たな結論を得たのですが何事にも堅実一本の父の許可を得ることは、京津畑鉱炉を建設して幾年もたたない今日至難中の至難でありました。しかし、国の内外の事情を思うとき、鉄の用途は産業上からばかりでなく海防上からも一層の急務であることを文十郎は知っていました。この切々たる思いが弟の襄平に口火を切らせて父に嘆願、同意を得て出発したのが文久山であります。何故拡張工事を丑石村市の通と決定したかといいますと物沢の鉱石は露天堀で且、伊手村の歌通の鉱区にも近く又少量ではあるがヌル水川岸から銅鉱も出、その上薪炭資源も豊富であったからであります。今度の経営は藩の直営という表看板で経費の一切は藩という建前で実は経費だけの範囲で銅鉄銭の銭座が許され普通の通貨は寛永通宝、文久通宝それに室根開珎膽沢開珎文久貨泉等凡そ十種の鋳造を勘定奉行か代官の立会で幾度も鋳造されました。
筆者の母の話で「世間では金がない金がないと言って暮らしているがおれらの幼年の時には銭の間にカクレンボをしたものだ」と聞いたことがあります。それは一体どこでの話かと尋ねたら細桑では台所の広い内庭に幾通りも銭を入れた俵を重ねてあったのでその間に小供等がカクレンボ出来たのだと説明されました。
鉱炉施工中の監督は襄平と蘭人に直接ついて指導を受けた姓名は不明であるが一向様と呼ぶ長崎人の技術屋の二人で、蘭流を加味した新式のもので全国的に見ても伊豆の韮山の反射炉より一年前であってその構造はそれよりも斬新で耐火煉瓦が用いられ、フイゴもタヽラフミを止めて水車動力を用い又会所も表会所は労働者と事務者の会所、別に裏会所は役職人と外来者との控所と二つになりおりました。
かくして出来上ったのが文久元年で、この山を文久山と称し荒鉄の生産額も従来は 二、三万貫でしたが十万貫を産出するようになりました。困難と工夫によって生産された十万貫の荒鉄は時に大砲数門を鋳造して国防の為に藩侯に献納したこともありました。(その中二門は塩釜神社の表石段の中央鳥居の左右に奉納)しかし、大概は農具荒鍬を作り仙台藩内に分配残部は皆北上川を河船で石巻に出しこゝで帆前船に積み江戸砂川に送り江戸の市中で卸売をしました。江戸表には弟の襄平が担当で日本橋馬喰町の某旅館に止宿していました。屋敷の前の道路の両側と堀米の鍛治屋敷馬場先の東西の城の口の両側に凡そ百戸の小屋を建て製鍬業を営みました。これの現場監督は馬場先の菊池武八郎でありました。
こヽで話題を変え三羽烏の一羽末弟の財六後の文三郎はどんな生活をしたかお話しましょう。勿論幼少年時代は父祖の指導により普通の学を卒え、青年期に達してからは唯風流心が旺盛で茶の湯、生花、造庭、料理等の稽古に余念なく天保の初年仙台市南町某旅館(名取屋)に止宿中この家に入婿したが勤まらず破縁流浪中、天保六年折壁中問屋小山豊治の長女へ入婿固阜に分家されたが持った気は失せず家業を省みず風流三昧を事としたので妻ののえは呆れて生家の実父に破縁を頼んだら父の曰く「あれはあれの性分に任せてお前は文句を云うな。他家から貰うたら格別あれは芦章右エ門の子である。おのれは肝入先は大肝入こちちから再三願って貰受けたのだ。今更破縁は思いもよらぬ事、先ず先ず辛棒せよ。何か不自由があったらその時に話せ。まだまだ若い者、年を取り次第落付くんだから」の一点張り。こんなことゝは露知らず財六は嘉永元年には江戸に出て斯道の大家を遍歴、芸を研くに余念なくその蘊奥を究めんと京都に上り当代の大宗匠十代楽吉の門に入り楽焼に専念しました。それは万延の頃かと思いますがその家にいること久しく自分では芸も研けたと思いましたが師匠は脇竈だけを教えて本竈の指導は一向ありません。ある日師匠から身上の話が出た折、偽って独身であることを話したら師匠からその家の家督になることをすすめられました。そこでこれを承知して愈々この家の相続者即ち十一代楽吉を承ることになりました。そして今まで秘してあった本竈の秘伝が許され、やれ本望を遂げたと思うたのも束の間で郷里奥州東山から便りが来ました。時は文久元年六月、使者は親類の小山和仲でありました。
来意を聞いて驚いたことには相続者長男為三郎が病死したということです。進退谷まった財六は夜逃げすることになりました。帰宅してみると妻ののえ嫁の乙の悲嘆は勿論、一家挙げての悲しみでありました。親類縁者つどって仏事法要は終わりましたが、財六としては今更家政は身につかずその上京都の不首尾が気になり何ともならず、殊に相手は天下の楽吉、一日の油断も出来かねるのは当然、思案にあまり財六は次男の義之助に家事の一切を任せ、一身を次兄の幸三郎に托し、自らの方途を決すべく江戸に出ました。そこで幸三郎は思案の結果、財六を文三郎と改名させ芝仙台屋敷の家中高橋看仙に斡旋を頼み、本郷の前田家(加賀侯)の茶坊主に化けさせ、こゝで近侍を許されました。そして献茶、生花、造庭等を以て仕え邸内に楽の本竈を築き専ら風流を事とし藩公に仕えました。こゝには楽吉の手墨が絶対に入れないので漸く安堵しました。
無報酬ではありましたが衣食住共に給されてたゞ毎日の業であった楽の焼物を二、三の得意の市店に売り出し自分の現金収入としたようです。言伝に残っている作品の逸物は上折壁高建寺にある香炉と数多く揃っているものでは気仙郡末崎細浦山岸の菅原梅吉宅にある三十人分の会席でしょう。当時県南及仙台市の文人墨客には所有者が多く、かつて大槻磐溪は「陶不求甚翁 武侯観大意 及知深造妙 未必在文字」と一絶しています。
この頃天下の騒動は奥羽山中にも浸透して来ました。その結果は此の家にも影響を与えることになりました。客の出入は頻繁で五人、三人の来客は平日の事でありました。遠くは薩長土近くは仙台中心の名士で其の主な人は仙台では菊池五山志村五城斉藤竹堂それより以前には加賀の勝村蠖斎、長州の小倉鯤堂、姫路の菅野{ケイ}塢、伊予松山の藤野正啓、水戸の内藤碧海等々で後れては大槻磐溪及岡家は代々短くて三、四月、長期の人は七、八年の長きに亘りました。従って特別の仁は別として一般は一日の応接のみにとどめ、後は任意の食客でありました。かような繁雑の間に文久三年秋八月此の家の渉外方面を一手に握っていた文十郎の弟、幼名幸三郎後の襄平が江戸で病死しました。
渋民を遠く離れた交通不便の江戸の地の事でありましたが、弟の文三郎がかけつけて病勢の大事である事を知るや加賀公邸に往き公の侍医(ハブと呼んだ)某に懇請診断の運びとなりました。止宿の旅館は驚き、俄かに座敷をかえてこの侍医を迎えました。旅籠が旅館の廊下に横付けされ診断の結果、なぜもっと早く見せなかったか最早手遅れで致し方なしと嘆息されて帰ったとのことです。
これから三、四日で落命しましたが旅館では芦襄平とは一体何人で前田家のハブが乗込んだのかとうわさしたということです。襄平の死んだのが文久二年八月六日年四十九でありますが、いよいよ品川にありました荒鍬の卸問屋の始末をつけ日本橋馬喰町の旅館を引き揚げ親交の人々十余人に送られて江戸を立ち千住の大橋の橋ぎわの茶屋で一休みして遠路を見送りの人に一応の馳走の上御礼の言棄を述べて一路奥州街道を北進することになりました。これまで二十年以上襄平の供人であった小崎(伊太夫の伯父)が文三郎に遺骨を托し土下座して涕涙し、私もこれで御別れをと願い出ました。文三郎武十郎の親切から渋民まで一緒にとの勧誘を堅く辞退し且云うには「私もお供をして渋民まで参るのが一般の例であることはよくよく知っておりますが、兄文十郎様やおしう(妻)様に御面会することが何よりもつらくて出来かねますからこれで御許しを」とのことでした。致し方なく一行は北進しましたが何度振向いても小崎は道に合掌の姿であったと伝えられています。かくして襄平は柴桑の墓地に瑞応良全居土として葬られました。没後二ケ月に渡っていましたので葬礼の帰路は雪路であったと伝えられています。
襄平は又長崎通いの頃、当時肥後は良米の産地として有名であったので肥後の農夫二人と農具を渋民に入れ又肥料として石灰を水田に施すことを取り入れ農耕の改良にも志し、大原山口に石灰竈を開きました。
この頃文十郎の長男武十郎は年三十才でありましたが父の鉱業には介意せず只管学問に熱をあげ殊に国学和歌を究め神道修正派の人となり金華山の宮司鍋島麻戸登を師とすること数年、遂に京都の千種有功につき歌道を修め公卿と歌会を供にし偶々有功の婚姻にちなみ一首の和歌を祝詠しましたところその出来の勝れていることを讃され父公の有功様は御手打ちの長刀に「山太刀はさやにおさめて武士の心ますます研く可きなり」の一首を刻み込み賞として武十郎におくられました。かくして武十郎は東磐の村々の有志に呼びかけ仏教を排し修正派神道に切換え殊に明治初年自村の渋民の氏寺長寿寺を廃し或る時は県南五郡の社掌を集めてのりと文の読方作詞を教え、或時は釜石田橋の下流でみそきのはらへを実行指導したりしました。其の後明治十一年四十八才で失明仝二十二年九月九日年五十九才で没しました。其の著書は「言霊真志鏡」「梅廼舎の塵埃集」等の遺稿数冊であります。禎 輔
柴桑屋敷八代の子孫禎輔は嘉永五年四月二十五日出生、父は国学者武十郎母は折壁村中問屋小山久治の長女チノであります。
生来利発幼時は祖父章右エ門について一通りの学業を修めておりましたが母に似て手芸に巧みでありました。
この頃の生家は家族の外、下男は十人余下女は五、六人、来客寄食者は十五、六人から二十人に及ぶことも珍らしくないので食時となると台所、勝手、常居と三室で四十人内外が食事しました。
かくして文久の末元治の頃は農村でも何時兵乱が起こるとも知れない有様でした。禎輔もそろそろ少年期から青年期にはいる年頃でしたから何時仙台藩の召集を受けるかわかりません。撃剣の家庭教師を雇い、従僕の弥内は撃剣の稽古を毎日の仕事として強制されました。当時の仙台藩は二派に分れて統一を欠き、ために禎輔も応召をのがれ、そのうちに明治維新となりました。
明治維新と供に柴桑は藩の扶持を離れ、文十郎も御山下代職を失い、食客も少なくなりました。鉱山事業の一切も気仙沼の親戚である熊文家に譲り禎輔は専ら工芸改良に専念することになりました。その主なるものは煙草刻み、紡績機などでありますが世の中に出ないままにおわりました。その後土摺臼の製作に成功し見習者も数多く、渋民摺臼の名を取り官城県北に渋民の職工が出張し米産地に流行を続けました。
かくする中に禎輔も二十才の年を迎えることになり折壁村中問屋小山雄治の長女チウを妻として迎えることになりました。その婚礼の行列は馬十八頭、長持箪笥五竿その他徒歩の行列に時人は目をうばわれました。
明治十八年三月十五日祖父文十郎が死亡したので文久山、京津畑の鉱山事業は気仙沼の縁者熊文に譲渡しました。その頃失明した父武十郎の前で禎輔、祥平、{トウ}輔の三人は家政整理を試みましたが驚くなかれ、全財産をあてゝも不足釜石田の水田半分を処分していざ実行云うことで衣類家具から売り初めましたがこれを聞いた折壁の小山亮七郎は篤志を以て出金、屋敷水田畑地を合せて五町を残し得ることとなりましたが、禎輔は初心を改めず全財産の菅理を{トウ}輔に一任、祥平は東西磐井郡役所郡書記として就職し、自分は国の外貨獲得の急務を痛感し、それには蚕業生糸の奨励が第一と目標を定め、蚕業生糸の先進地を視察し桑樹栽培より養蚕業を志し進んでは生糸業改良に志し近村に有志を求め株式会社を組織し明治二十年横浜に出張、蒸気機関はじめ小道具等一切を購入、渋民に称効館と称する生糸場を建設し、その女工には渋民を中心に隣村の子女を集め生糸業を習得させましたが時人は華族生糸場とあだなしたということです。それに続いて大原には大原製糸所、七折製糸所、摺沢には水効社、天民社を創立させ郡下処々に製糸工場を建設し、岩手県の生糸産出の過半数は東磐の産と云うまでになりました。たまたまこの事が時の県知事の知るところとなり禎輔は挙げられて岩手県技師となり県の指導の任にあたりました。そして原動力には水力によりましたが中にはタービン式によるものや蒸気機関を原動力とするものもありました。その後明治二十三年学制が発布された時郡下に先がけて小学校を洋風になおすことになり村の有志に材料をあおぎましたが主として廃物利用の見地から興田村の鉱山事務所会所の材料を利用し完成しました。
この学校の建築は無論禎輔の指示に従った事ですが、特に御真影室と玄関は大工職工を使わず禎輔自ら作業に従い手細工で御真影奉安室を作りそれは壮厳を極めたものでした。また玄関は華麗を尽くし、チカ材を蛙又に表面には鷹の彫刻をそなえ、この二個所には色とりどりの呉粉仕上げをし、初めて見る人の目を驚かしました。県も小学校建築の模範校舎ということで岩手師範学校は明治二十五年第一回の卒業学年の生徒を小野田先生の指揮で参観させたほどでした。またこれが機となり遠くは盛岡近くは大原、小梨小学校等もこれを範として建築するに至りました。
かくする中に明治も二十七年秋に至り最愛の一人娘アイが腸チフスに罹り、その年の九月二九日に病死し続いて禎輔も感染して同年十一月二十二日病没しました。年四十六でした。
人生はこれからという時、殊に県はこれまでの勲功からして禎輔に対し褒章請願をしたのですが病没のためはたさずこれまで追従した稗貫郡大迫町の村田良蔵氏を推して緑授章を賜った次第であります。
禎輔の死は渋民村の損失であるばかりでなく東磐井郡否岩手県の損失と称されました。
(本文おわり)
参考資料(1)年表・略
参考資料(2)家系図・略
文責:熊谷博道
掲載日:1997.2.2
2000.9.6.
2001.2.3.更新。