八巻一雄先生追悼文集



岩手県南史談会の総会での八巻一男先生
(一関市総合防災センター、平成9年7月27日)

 昭和53年から平成8年まで20年間にわたり岩手県南史談会会長をつとめられた八巻一雄先生は、平成11年12月14日、死去されました。享年90歳。
岩手県南史談会では八巻先生への追悼と感謝をこめて『研究紀要 第29集』に、「前会長八巻一雄先生追悼特集」を掲載しました。
 このたび同特集からの転載の許可をいただきましたのでここに発表しました。
執筆されたのは、長年にわたり八巻先生とともに研究活動をされた方々です。

八巻先生を悼む(会長・大島 英介)
凛然たる地方史研究のご生涯(副会長・日比野 傅輔)
八巻先生の思い出(副会長・千葉 一郎)
八巻一雄先生への追憶(幹事 小野寺 啓)
八巻一雄先生の思い出(幹事・佐々木 邦)
八巻一雄先生の御逝去を悼む(東磐史学会会長・小野寺 一郎)

「前会長八巻一雄先生追悼特集」 平成11年度『研究紀要 第29集』所収
(平成12年7月25日発行)


  八巻先生を悼む
    会長 大島 英介

 郷土史家として多くの功績を残された前岩手県南史談会会長の八巻一雄先生が平成十一年十二月十四日眠るように亡くなられた。昨年七月から体調をくずされ入院中であって、享年九十歳で天寿を全うされた。
 先生は明治四十三年一関に生まれ、旧制一関中学、早稲田大学高等師範部を卒業し、その教職の大半は国語教師として、母校の一関中学、一関一高の教壇で過ごされた。緻密で学究的な授業は生徒からの信望も厚く、誠実で争いを好まない先生は常に穏やかであった。
 先生はこのように良き教師の世界で生きられたが、他に郷土史研究家として勝れた業績を残された。
 先生は近世文書を解読する能力を持っておられた。自宅には藩政時代の文書類が所蔵され、歴史的雰囲気の中で生まれ育ったせいかも知れない。
 私が郷土史研究を先生と共にしたのは、昭和二十五年からであった。一関郷土史調査委員会が教育委員会内に設置され、今は亡き黒沢良助、長田勝郎、八巻一雄先生と私の四人が委員に任命され、田村家文書、塩屋文書、有壁本陣文書の目録作成に当たった。私はこの時初めて長田・八巻両先生と調査を共にした。
 郷土史研究の次の機会は、昭和二十八年発足の岩手県南史談会の創立であった。この時の中心もやはり後に会長として活躍された長田・八巻両先生であった。私は両氏から受けた影響は大きい。
 その後史談会は財政面で苦境の時代をくぐり抜け、現在では県内歴史研究団体の中で、最も古くまた研究論文は質量共に高く評価されているといってよい。
 先生は実に多くの論文を執筆され、著書を出版された。その代表的なものの一つは、七巻に及ぶ大冊の「一関市史」であろう。これは数人の方々の執筆によるものであるが、先生はその中心となられ、今では当地域史研究の基礎的資料となっている。
 先生の著書の中で最も注目されるのは「磐井地方の近世文化」(北上書房出版、昭和四十四年)であろう。次のような内容である。
 近世末の一関の豪商磐根家の性格。近世の北上川舟運(東山、両磐井を中心に)。文化期の一関藩の政治(家老佐瀬主計を中心として)。一関藩校「教成館」。関養軒について。大槻玄沢の書翰。「民間備荒録」と「荒政要覧」。大槻清慶の俳諧。近世における磐井地方和歌略史。浅野内匠頭御預り始末。等々がある。
 これら論文は決して読み易いものではない。難解であろう。しかしいずれも近世文書の郷土資料が多くその根底にあり、堅実な内容である。今後はこれを土台にして研究を進めなくてはならない。先生の実証的研究法に、後輩は見習うべきであろう。
 実は右の論文のうち、先生の御生前に検討しておきたいものがあった。それは「大槻玄沢の書翰」の中に登場する「白土甚蔵」なる人物である。
先生も述べているように、彼は文化九年玄沢が一関帰省中に立ち寄って歓迎の宴を開いた商家白土家の人に間違いない。
 ところが玄沢の日記である「文政九年丙戌日暦」(早稲田本)、「文政九・十年丙戌臘月・丁亥日暦」(武藤本)の中に、病床の玄沢が「白土宮蔵」なる人物を頻繁に記述していることが、最近わかってきた。例えば、
  「白土宮蔵へ返書」(文政九、七、五)
  「宮蔵たばこ九包届来る」(九、九、廿九)
  「白土宮蔵より煙草来る」(九、一一、三)
  「一関邸へより白土宮蔵状届く」(九、一一、一五)
  「白土煙草持参、金弐両渡す」(九、一二、一○)
 八巻先生の考察された「白土甚蔵」は、玄沢安永七年の書簡中の人物である。私の見ている日記中の「白土宮蔵」は、文政九、十年の記述の人物であって、両人には五十年近くの年差がある。従ってこの両人は同一の人物であるのか、それとも別人であるのか、別人ならばどのような関係の人か、等がこれから問題となる。だがこの解答は現在では資料不足でわからない。
 参考までに次のことを記しておきたい。
 玄沢の次子磐渓が文政元年十八歳のとき、はじめて父の郷里一関を訪ねた。そのときの日記「戊寅遊記」の六月六日の条に、父の旧知である一関の「販薬白土某」が訪れ、宴を共にした記述がある。このときの「白土某」とは白土宮蔵で、漢方薬の薬種業を営んでいたことがわかっている。
  「一関販薬白土某訪れ宴に余を招く。蓋し家君(玄沢)と旧有るを以てなり。仲蘭(佐々木中沢)及び藩医数輩会し、酬献数回余既に量を尽き、日亦暮る。」(漢文書き下し文)
 以上、八巻先生の「白土甚蔵」について、いささか問題を提起してみた。
 最後に、五十余年の長い間、研究を共にしてきた先生の御霊に対して、今その安らかならんことをお祈りして、筆をおきたい。
 

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  凛然たる地方史研究のご生涯
    副会長 日比野 傅輔

 先生の会長就任は、市史編纂のため中断されていた岩手県南史談会が再出発した年、昭和五十三年から平成八年までの約二十年近い歳月でその間率先研究、発表、会の運営等にご先導をいただきました。
 私は、企面、広報の係ということで、主として会の事業の一つである研究紀要の編集にたずさわって参りました。
 先生にはその都度巻頭の挨拶文をお願いし、いただいた原稿のガリ版をお届けし、初校正の後は私が二、三回再校正をしながら先生のご自宅を往復する専らメッセンジャー役でしたから、毎号の会長挨拶文(生原稿)を数回読み続けて来たことになります。
 当初から私は先生の挨拶文は特異だなと思ったものでした。私の常識から会長としての挨拶文は、就任時の「……その任重く、道遠きを痛感しております。何とぞご協力を……」(第八集)位なもので、次号からのものは殆どご自分の研究史料の提示であり、短文ながら研究発表そのものだと思えてなりませんでした。
 紀要という性格から当然だと言えるかも知れませんが、私の常識が如何に非常識であったかを恥じながら、先生への追悼の思いで、もう一度二十三冊の巻頭文を読み返してみました。
 そこには地方史に関する−−
 ○庶民資料の紹介 ○文書目録 ○人物紹介 ○研究発表解説と紹介 ○そしてご自身の研究経過報告 ○今後の研究視点 ○研究史料との邂逅の喜びなどが述べてあります。
 会長最後の紀要第二十五集には、先生が昭和二十五年資料調査開始以来の探訪ノート五十冊の中から、大槻家訪問筆写の内容がびっしり述べてあります。
 私は再度の読みを終えた今、僅か一〜二頁に凝縮された挨拶文という名の貴重な史料に、先生の地方史研究の情熱と、会員への研究遺志を感じ、粛然たる思いであります。
 私はこれらは、必ずや当地方史研究の道しるべとなり、先生が果し得なかった分野の研究継続のため、後学によって生かされるであろうことを信じて疑いません。
 私なりの小さな窓を通し、先生追悼の想いを述べ、凛然たる研究一筋のご生涯に接した学恩に心から御礼を申し上げます。     合掌
 


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  八巻先生の思い出
    副会長 千葉 一郎

 昭和二十五年十月初旬、第三回日本新聞週間を記念し、岩手日日新聞社では「郷土自慢くらべ」を企画され、新聞で公募した。
 私は台町の祥雲寺経蔵(転輪蔵。俗称六角堂)が当地方では珍しく、郷土自慢の一つになるのではと考え、祥雲寺什物帳「経堂」(昭和初期)だけでは心もとなく、どこかに古文献がないものかと思案していたところ、ふと県立一関一高で国漢を担当しておられる八巻先生が郷土史研究している旨を小耳にはさみ、八巻先生を訪ねた。初対面にもかかわらず、先生は所蔵の黒江寛保(明治四十二年没)著「一関沿革史談」の八巻一覧(先生の厳父)謄写書(大正七年)を書棚から出し拝見させていただいた。以上二つの文献を参照して「六角堂」と題し、「郷土自慢くらべ」に投稿したところ、同月九日づけの岩手日日紙上に紹介された。
 先生は大層お喜び下され、”祥雲寺本堂は明治初期全焼し、経蔵記録も焼失したと思われる。この機会に経蔵や諸方に散在する資料を収集するなどして同経蔵を研究してはいかが。国漢文等の解読は可能な限り協力したい”と勧められ、これが動機で郷土史研究に入った。
 同二十八年二月、長田、八巻、大島の三先生が県南史談会結成の発起人となり、一関公民館で結成総会が催され、私も八巻先生より案内を受け出席した。会結成後、役員選出では長田先生が会長に、八巻先生が筆頭執事に選任された。続いてその場で第一回例会が開かれ、長田会長が研究発表した。第二回例会は、研究発表未経験の私が突然八巻先生より指名を受け、同年四月、祥雲寺において同寺経蔵について研究発表した。
 同年十月、岩手史学会(森嘉兵衛会長)秋期大会(本会共催)が一関市教育労働会館において開催された。当日の研究発表者は十一人でその内本会からは滝口先生と私の二人だけで、私は八巻先生より指名を受け励まされてやむなく同経蔵を発表した。
 かくして発表の都度先生の手数を煩わした。同三十三年六月、一関市文化財調査委員会発足と同時に八巻先生と共に委員に委嘱され一昨年八月、先生が磐井病院に入院されるまでは種々ご指導を賜った。
 一関市史編さんでもなにかとお世話になり、編さん完了後の五十三年十二月に休会中の本会が再開されるや、役員選出では八巻先生が会長(第二代)に、大島・日比野の両先生は副会長に選任された。私は会長より幹事長を委嘱され、平成四年度まで十五年間その職を大過なく努めさせていただいた。
 そのほか先生に勧められて果たせなかったことなど、先生とのかかわりは名残り尽きない。先生は温厚篤実、私如き浅学にも優しく接し、国漢文・古文書記録・顕彰碑(漢文)等については、解読の上懇切で丁寧にご教示下さった恩顧は、生涯忘れられない。
 


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  八巻一雄先生への追憶
    幹事 小野寺 啓

 若い頃、先生から「一壺の作品を見せられた事があるか」と云われた。怪訝な顔をしたのであろうか、金野屋の先祖で茂志治知道という名で、高橋東皐に俳諧を学んだ人だと教えてくれた。金野屋は近くなので話したら、蔵で見つかった時知らせるからとの事であった。存命中に先生に連絡を取って頂き、一緒に見せて頂いたらよかったと悔やんでいる。
 阿部随波についても、顕彰されるべき先人であり、その事績について調査されなければならない。先生は早い頃、内藤以貫の随波翁を讃える詩文を研究紀要に発表されている。私など、この文を見て随波という郷土の偉大なる人物を初めて知ったのであった。
 本寺中勤務時代に、当時の生徒や古老と共に学区を歩きまわり「須川本寺風土記」を刊行した。先生は「伝承を忠実に取材した事は成果」としながらも、骨寺存在の当時の記録がない以上、風土記記載を事実とする発掘等の実証が必要だろうと云われた。
 現在に至って多くの研究者の検証が試みられているのを見るにつけ、郷土史発掘の厳しさを感じさせられた。それでも、当時骨寺研究の足がかりにと、研究論文の幾つかを教えて頂き読んだものである。
 昭和五十五年に文化庁歴史の道調査で千葉一郎先生と共に調査員を委嘱され院内道路を調べたが、その基になった資料が八巻先生提供「元禄絵図」である。地元民を案内に立て絵図を頼りに大雨の中を歩いたものであった。確かな資料での調査活動は、これが初めてであった。先生もこれを覚えておられて、岩手県文化愛護協会編『一関の歴史上』に古代編を執筆することを云いつけてくれた。
 小野寺一族のルーツが関心をもたれた昭和六十三年小野寺一族の会が結成された。その頃先生から「小野寺の資料があるから、あげるよ」と頂いたのが、宇都宮大学の「小野寺氏研究」論文であった。何故、宇都宮大なのかと、有り難いとも思わなかった。ところが、そのうち、小野寺氏発祥の地が栃木県小野寺村と知るに及んで、あわてて論文を読んだ次第であった。一関地方に小野寺姓の多い事を調べた宇大研究者が、先生に指導を受けに訪れた時の土産であったという。
 生前、先生が云われた事で記憶に残っている事がある。郷土史ブームが起こり、そちこちに研究会が結成される時期の頃、「雨後の竹の子みたいなものはいらない。郷土史研究は県南史談会だけでよい」と。「老舗」の会長としての発言と捉えていた。が、今にして、浮付かない地道な研究調査こそが郷土史研究者の姿勢ではないのかと論されたと思っている。
 生前、数多くのご指導を頂いた事を感謝しながら先生のご冥福を心からお祈りする。
 


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  八巻一雄先生の思い出
    幹事 佐々木 邦

     あかあかと一本の道とほりたりたまきはるわが命なりけり
 斎藤茂吉の第二歌集『あらたま』(大正十年刊)の一首である。この歌を、昨年の十二月十四日九十歳で亡くなられた八巻一雄先生のみたまに捧げたいと思う。
 「命なりけり」という句にこめられた、「アララギ」を双肩に負って立つ茂吉の激しい決意。生涯にわたり文学と歴史を愛し続け、郷土のため数々の業績を残した八巻先生。そこには共通した何かが感じられる。
 一関一高で八巻先生から私が教えを受けたのは昭和二十六、七年ころである。もう半世紀近く遠い昔である。八巻先生に古文(日本文学の古典)を、桑島昌一先生には現代文を教えられた。テストの成績は芳しくなかったけれど、私は八巻先生の中古の文学の授業がとても楽しかった。「古今和歌集」「土佐日記」「竹取物語」「伊勢物語」などである。
 あの「いまは昔、竹取の翁といふもの有りけり」の書き出しで始まる「竹取物語」の授業は今も忘れられない。ユーモアを交じえ、人間のずるさやいやらしさをも見逃すことなく、しかもそのような最も人間らしい情景を表現する、かぐや姫の物語。それを先生は各章節ごとに区切って読みながら、一字一句、文法的に吟味し解釈をしていくのである。
 長ずるに従い私も人並みに読書をし、西郷信綱『日本古代文学史』、山本健吉『古典と現代文学』、唐木順三『中世の文学』などを読むようになったのも、さかのぼれば高校時代の八巻先生の教えのおかげである。
 あるとき、先生は「佐々木君、『徒然草』は後段がいいから最後まで読めよ」と言われ、研究書として永積安明の『徒然草を読む』(岩波新書)を紹介してくださった。
 八巻先生は歴史研究家らしく、森鴎外の歴史小説にも強い関心を示され、作品を精読しておられた。私は先生に「鴎外の歴史小説で何が一番お好きですか」と問うたことがある。即座に先生は「寒山拾得」と答えられた。それは「山椒大夫」「高瀬舟」と同じ系列の作品である。鴎外の、封建時代の固い枠の中で最善の努力を尽くし、人間的な美質を精いっぱいに発揮する人間への深い共感に、先生も心ひかれるものがあったのであろうか。
先生はいわゆるイデオロギーを嫌った。例えば、宮本百合子の『伸子』の近代女性像より、林芙美子の『放浪記』の庶民的抒情の世界が好きだと、しばしば語っていた。
 八巻先生の地域史研究に一言も触れないのは片手落ちであろう。県南史談会に私が入会したのは、先生の名著『磐井地方の近世文化』(一九六九年、北上書房)を読んで触発され、『和蘭医事問答』『民間備荒録』に興味をもったからであった。
 最後に八巻先生の歌集『木槿(むくげ)』冒頭の一首を記して、先生のご冥福を祈り、お別れしたいと思う。
     晴れ上る梅雨の日曜たふとみつ雑草の根の長くぬけたり


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  八巻一雄先生の御逝去を悼む
    東磐史学会会長 小野寺 一郎

 八巻一雄先生のご逝去に接し、東磐史学会会員二百六十名を代表して心から哀悼の誠を捧げます。
 先生には、本会の会員として会の機関紙「東磐史学」に二回研究論文を掲載していただいております。
 一回目は、東磐史学第十号に「芦東山の書簡について――御預け期間を中心に――」を発表されました。その論文を拝読すると芦東山先生の心情と学問に対する熱情が深くよく記述され、先生の芦東山「無刑録」の研究に寄せる熱意と真摯な学者としての態度を窺うことができました。
 二回目は、第十七号に『葛西氏知行宛行状に載る村名について――田河津村の場合――』を発表され、田河津村(東山町)の成立年代を岩手県中世文書(中)より紹介し、赤羽根文書と対比疑問点を掲示して頂きました。
 また、東山町で開催された佐藤猊厳没後五十周年では、佐藤猊厳先生の人柄を詳しく紹介して頂き参会した人たちに深い感銘を与えて下さいました。忘れられない思い出です。本当に有り難うございました。
 また、ある時、ある人が裁判所の扁額に「哀敬察情」と言う文字があり、その文字が芦東山先生著「無刑録」にあるとの事を知り、八巻先生にお尋ねしたところ、先生は「無刑録」十八巻を全部播き、その文字が十巻「聴断」の中にあることを確かめ教えてあげたと言う逸話もお聞きしております。しかも、その為に六月から九月まで四ケ月間も苦労されたことを聞きました。その並々ならぬ取り組みと造詣の深さに驚いたことも忘れ得ぬ思い出です。このように、誰の頼みも断ることなく、自分を犠牲にして指導してくださる先生でした。
 東磐史学会も今年で五十周年を迎えます。先生の学恩を背に二十一世紀に向けて更なる取り組みを期して参る所存です。
 最後に、岩手県南史談会の発展をお守りくださることをお願いして、お別れの言葉といたします。八巻一雄先生数々のご指導本当に有り難うございました。やすらかにおねむり下さい。


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  BGMについて

BGMに使用しているMIDIは、ショパン作曲の別れの曲。
CHIさんと いけしゅうさんが共催するホームページ「Classic MIDI Room」からダウンロードしたものです。
 Classic MIDI Room へはこちらからどうぞ。




2001.2.22.作成。