八巻先生を悼む
会長 大島 英介
郷土史家として多くの功績を残された前岩手県南史談会会長の八巻一雄先生が平成十一年十二月十四日眠るように亡くなられた。昨年七月から体調をくずされ入院中であって、享年九十歳で天寿を全うされた。
先生は明治四十三年一関に生まれ、旧制一関中学、早稲田大学高等師範部を卒業し、その教職の大半は国語教師として、母校の一関中学、一関一高の教壇で過ごされた。緻密で学究的な授業は生徒からの信望も厚く、誠実で争いを好まない先生は常に穏やかであった。
先生はこのように良き教師の世界で生きられたが、他に郷土史研究家として勝れた業績を残された。
先生は近世文書を解読する能力を持っておられた。自宅には藩政時代の文書類が所蔵され、歴史的雰囲気の中で生まれ育ったせいかも知れない。
私が郷土史研究を先生と共にしたのは、昭和二十五年からであった。一関郷土史調査委員会が教育委員会内に設置され、今は亡き黒沢良助、長田勝郎、八巻一雄先生と私の四人が委員に任命され、田村家文書、塩屋文書、有壁本陣文書の目録作成に当たった。私はこの時初めて長田・八巻両先生と調査を共にした。
郷土史研究の次の機会は、昭和二十八年発足の岩手県南史談会の創立であった。この時の中心もやはり後に会長として活躍された長田・八巻両先生であった。私は両氏から受けた影響は大きい。
その後史談会は財政面で苦境の時代をくぐり抜け、現在では県内歴史研究団体の中で、最も古くまた研究論文は質量共に高く評価されているといってよい。
先生は実に多くの論文を執筆され、著書を出版された。その代表的なものの一つは、七巻に及ぶ大冊の「一関市史」であろう。これは数人の方々の執筆によるものであるが、先生はその中心となられ、今では当地域史研究の基礎的資料となっている。
先生の著書の中で最も注目されるのは「磐井地方の近世文化」(北上書房出版、昭和四十四年)であろう。次のような内容である。
近世末の一関の豪商磐根家の性格。近世の北上川舟運(東山、両磐井を中心に)。文化期の一関藩の政治(家老佐瀬主計を中心として)。一関藩校「教成館」。関養軒について。大槻玄沢の書翰。「民間備荒録」と「荒政要覧」。大槻清慶の俳諧。近世における磐井地方和歌略史。浅野内匠頭御預り始末。等々がある。
これら論文は決して読み易いものではない。難解であろう。しかしいずれも近世文書の郷土資料が多くその根底にあり、堅実な内容である。今後はこれを土台にして研究を進めなくてはならない。先生の実証的研究法に、後輩は見習うべきであろう。
実は右の論文のうち、先生の御生前に検討しておきたいものがあった。それは「大槻玄沢の書翰」の中に登場する「白土甚蔵」なる人物である。
先生も述べているように、彼は文化九年玄沢が一関帰省中に立ち寄って歓迎の宴を開いた商家白土家の人に間違いない。
ところが玄沢の日記である「文政九年丙戌日暦」(早稲田本)、「文政九・十年丙戌臘月・丁亥日暦」(武藤本)の中に、病床の玄沢が「白土宮蔵」なる人物を頻繁に記述していることが、最近わかってきた。例えば、
「白土宮蔵へ返書」(文政九、七、五)
「宮蔵たばこ九包届来る」(九、九、廿九)
「白土宮蔵より煙草来る」(九、一一、三)
「一関邸へより白土宮蔵状届く」(九、一一、一五)
「白土煙草持参、金弐両渡す」(九、一二、一○)
八巻先生の考察された「白土甚蔵」は、玄沢安永七年の書簡中の人物である。私の見ている日記中の「白土宮蔵」は、文政九、十年の記述の人物であって、両人には五十年近くの年差がある。従ってこの両人は同一の人物であるのか、それとも別人であるのか、別人ならばどのような関係の人か、等がこれから問題となる。だがこの解答は現在では資料不足でわからない。
参考までに次のことを記しておきたい。
玄沢の次子磐渓が文政元年十八歳のとき、はじめて父の郷里一関を訪ねた。そのときの日記「戊寅遊記」の六月六日の条に、父の旧知である一関の「販薬白土某」が訪れ、宴を共にした記述がある。このときの「白土某」とは白土宮蔵で、漢方薬の薬種業を営んでいたことがわかっている。
「一関販薬白土某訪れ宴に余を招く。蓋し家君(玄沢)と旧有るを以てなり。仲蘭(佐々木中沢)及び藩医数輩会し、酬献数回余既に量を尽き、日亦暮る。」(漢文書き下し文)
以上、八巻先生の「白土甚蔵」について、いささか問題を提起してみた。
最後に、五十余年の長い間、研究を共にしてきた先生の御霊に対して、今その安らかならんことをお祈りして、筆をおきたい。
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