古い記憶。
聖剣一郎は青森県三沢市に生まれ育った。両親はリンゴ農家を営んでいた。
アーサーは三沢の米軍将校の子弟。アーサーは基地から仲間の子供達を引き連れて、聖の家のリンゴをよく盗んでいた。たわいない、子供の悪戯である。おおらかな聖の両親は子供のすることと、見て見ぬふりをしていたが、聖はそれが許せなかった。彼はリンゴ番を始めた。だが、彼がちょっと目を離した隙にアーサーはリンゴをせしめていた。アーサーはたくみに仲間達を指揮し、聖を撹乱させた。聖も仲間を集めてアーサー達に対抗し、いつしかその戦いはリンゴではなく、子供心のプライドを賭けるものになっていた。
毎日学校が終わると、聖とアーサーはそれぞれ仲間を引き連れ、激しい戦闘を繰り返した。最初のうちは父親ゆずりの兵法で効率よく聖達を撹乱したアーサーが勝利を得た。だが聖もその兵を率いる才を見せ、いつしか戦いは互角のものとなった。だが、そのいつ果てるとも知れぬ戦いに、突然終止符が打たれた。アーサーの父の異動で、アーサーが転校することになったのだ。中学三年の夏のことだった。
聖は、近所のスーパーの袋にリンゴを詰めて見送りに行った。いがみ合う相手でも、いなければいないで寂しい。だが、くしくも聖とアーサーの確執は、その時に断固たるものになるのである。
「あの、ロイン君…。私、ずっとロイン君のこと…」
袋が地面に落ち、リンゴが無造作に転がる。
「あの、娘は…」
その娘は、聖が密かに想っていた少女だった。だがその少女は今、アーサーのために涙を流している。
「やあ、聖君。君も、見送りに来てくれたのかい?」
朱。夕焼けの朱。学生鞄を提げ、昇降口から校庭を横切って校門へ歩く。
向かって左ではサッカー部。並べられたコーンの間をドリブルで抜け、シュート。キーパーは特に飛びつこうとはせず、ネットに当たり揺れているボールを拾い、投げ返すだけ。聖も何度か誘われたが、結局入る気にはなれなかった。
向かって左では陸上部。二、三人がインターバル・ダッシュをしている。校庭の隅、体育倉庫の前では何人かが柔軟体操をしている。鉄棒の前に広がる砂場では走り幅跳び。ときどき校門の外を外周している生徒が横切る。陸上部には聖の友人が何人かいた。その中には小学校時代に共にアーサーと戦った者もいた。
中学も二年を越すと、そろそろ聖とアーサーの戦いに付き合う人間が少なくなっていた。ある者は部活と言い、ある者は塾と言い、ある者は小指を立てた。
そんな理由で、特に深いではなかったが、聖は少なからず部活という者に不信感のかけらのようなものを感じていた。アーサーの戦術から多くを学んだ当時の彼は、本気で戦いのある時代に生まれたいと思っていた。人を傷つけることは良くないとはわかっていたが、戦うことによって自分を表現できる、そんな時代であったらと切に願った。そう、例えば西洋中世のような。
聖は百メートルの直線コースのスタートラインについている一人の少女に目をやった。白いTシャツの上にユニフォームである浅葱色のタンクトップを着ている。クラウチングスタートの姿勢。
位置について、用意、パァン。半分に切られた紙雷管は乾いた破裂音とわずかな煙を発する。
「だって、練習なのに丸々使ったら、もったいないよね」
いつだったか彼女はそう言って聖に笑いかけた。
今はその彼女が走っている。短い髪が風の中で躍る。
彼女が百メートルを駆け抜ける十秒強の間、彼はその姿に見とれていた。ゴールラインを割り、タイム係に結果を聞く。数回うなずいてから、軽いジョグでスタートに戻っていく。
「聖君」
ポン、と肩を叩かれる。彼はどきっとして振り向く。
「アーサーか」
「やあ、どうしたんだい、こんなところでボーっと突っ立って」
「なんでもないよ。ただ帰ろうと思っていただけだ」
聖が言うと、アーサーはにこにこと嬉しそうに微笑む。ふと後ろを見れば、一人の女の子が胸の当たりに鞄を抱き抱える形で立っている。その娘は、チョイ、チョイとアーサーの背中を引っ張った。
「ね、アーサー君、帰ろ?」
「うん、まあ、そういうわけだ。それじゃ、また明日」
「ああ」
聖は校門から出ていく二人を曲がり角で見えなくなるまで眺めていた。二週間前と違う女の子。聖は小さく、ふ、と息を吐いた。
彼自身も校門を出て家へと向かう。金網の向こう、グラウンドが見える。陸上部が見える。
紅。
唇。
頬。
「あの、ロイン君…。私、ずっとロイン君のこと…」
浅葱色の記憶。
「やあ、聖君。君も、見送りに来てくれたのかい?」
噛みしめる唇。
「今日、行くとは、知らなかった」
長く伸ばした髪が聖の瞳を隠す。
「何しろ急な話でね。今日になるまでわからなかったんだ。さっき学校に寄って書類を出してきたところだよ」
アーサーは桟橋で見送りの人々―そのほとんどが女生徒であったが―に手を振っていた。いよいよ船へと乗り込むとき、誰かが渡したのだろう、アーサーはテープを持っていた。別れを惜しむ人々が我先にとテープの端を掴む。緑。青。黄。茶。白。赤。
ボォーという汽笛が鳴り、アーサーを乗せた船は出航していく。少しずつ、少しずつ遠くなっていく。
「?」
聖は、ふとアーサーと目があったような気がした。
「!」
間違いない。アーサーは聖を見ていた。そして、笑っていたのだ。声を出すような笑いではない。見下すものでもない。憐憫を込めたものではない。ただの余裕の笑みであった。
聖はこれからアーサーがどこに行くのか知らなかった。だがアーサーとは再び出会う、そのことだけを強く確信していた。
聖のかつての想い人を訪ねた近之墨絵留の話。
「そう。僕は君に伝えねばならないことがある。十年前のことだがね」
以上が聖剣一郎とロインと、かつて二人の間にいた少女に関する物語。この物語はささやかな可能性を秘めてはいるが、それはあまりにささやかすぎる。
(波島:結局聖のかつての想い人は名前も出てきませんでした。でもこれでよかったと思います。いつも色物ばかりの僕だけど、たまには純粋な青春もやってみたくなるのです。
「都会の小綺麗なマンションだったわ。ピンポーンってチャイム押したらいきなり『訪問販売ならお断りよっ』って、強気な人だったわ。『違います。聖剣一郎さんのことでお話をうかがいたいんです』って。そしたらすぐ開いたわ。良かれ悪しかれ素直な人だわね。『聖君? なんだかとても懐かしい名前ね』コーヒー入れてくれながら言うの。『聖さんとはどういう仲だったんですか?』なんだか口がむず痒かったわ。『ええ、クラスは同じだったけど……』語尾を濁すの。『あなたは聖さんの初恋の人だって聞いたんですけど』そしたら、ちょっとだけ照れくさそうに鼻の頭なんて掻いちゃって。
『この前の同窓会で中学の時の友達にそんなこと言われたわ。確かに聖君、他の女の子と全然話さないのに、私とだけは一言二言かわしてたもの。それに聖君、格好いいし優しかったしで、女の子の間でポイント高かったから、余計そんな噂が立ったのかもね。でも私と話したのだってたまたま席が隣になったときだけで、席替えしたらやっぱり何も話してくれなくなったもの。おはようって声かけても、軽く手を振り返すくらいで。えっと、席替えしたのはロイン君がいなくなったすぐあとかな。教室の真ん中が空いちゃっておかしいからって』
まあこの人鈍いのかなんなのかって思うかも知れないけど、そこんとこちょっと話が深いのよ。いきなり沈んだ顔してこんなこと言い出すの。
『えっと……三年生になってすぐかな? ロイン君が私に付き合ってって言ったの。私は少し迷ったけど、ロイン君の押しがあんまり強いものだから結局OKしたわ。でも、今はそのことすごく後悔してるの』『なんでまた』私は間髪入れずに相槌いれたわ。そういう時はドンドンしゃべらせるに限るってね。
『本当は私、聖君のこと好きだったの。聖君のこと好きだったのにロイン君と付き合っちゃったの。あの頃私はまだ中学生で、自分の気持ちだって良くわかってなかったわ』てな具合に声まで震えてくるのよ。
『ロイン君と付き合うまでは聖君は私のすぐ側にいた。席が隣ってだけじゃなくて、心だって手を伸ばせば届くくらい。多分私が好きですって言ってくれたら聖君はうなずいてくれるって、そういう気がしてた。でもそれを言うには私はまだ子供だったから……いや、そういう理由を付けて、逃げてたのかも知れない。とにかく、勇気がなかったのよ。そんなときにロイン君に告白されて、私、嬉しかった。聖君のことはあったけど、それでも誰かに想われるのがとても嬉しかったの。でも、付き合い始めた次の日聖君の声を聞いたら、とんでも無いことをしちゃったんだって気付いたの。もう私は聖君と一緒にはなれないんだってわかったから。だって、その時私にはロイン君がいたんだもの』
あ、ちなみにこの人、ロインがバリバリの女たらしだってことは知らないみたいよ。部活一本槍で、人の噂なんて全然耳に入らない人だったんだってさ。
『もう駄目なんだってわかってから、私は本当に聖君のことが好きだったんだって気付いて……。だからロイン君にそのことを言って謝ろうってずっと思ってたのに、ロイン君の顔見ると、どうしてもそれが言えなかった。その内に突然ロイン君が転校するってことになって。私それを聞いてすぐに港に走ったわ。それで今日こそロイン君に謝ろうって。私はロイン君のことずっと騙してたの、ごめんなさいって。でも言えなかった。ロイン君があんまり辛そうに笑うから、私最後まで言えなかった』とこの辺でもう涙ボロボロこぼして。
『本当はロイン君が転校してホッとしてたの。これで時間が経てばって。高校生になって、しばらく時間をおけば聖君とちゃんとつき合えるかも知れないって。だってそうでしょ? ロイン君がいなくなってすぐに好きだって言っても、聖君はきっと信じてくれなかったわ。でもこれだって言い訳なの。逃げ回ってる内に、聖君まで消えちゃったわ。蓬莱学園なんて、誰に聞いても知らないし。だから私はすごく後悔したの。あの時ちゃんとロイン君のこと断っておけばって。でもロイン君がいなかったら私は聖君への気持ちに気付かなかったの。どうしようもないのよ』
さすが隊長さんよ。もうなんかすごいドラマチック」
「君が去ったときのことか?」
「そう、一つ、言い忘れたことがある」
「こちらに心当たりはないが」
「あの娘のことだよ。まさか君は忘れちゃいないだろう? 君の心に初めて触れた子だよ」
ロインの口元にわずかな笑みが浮かぶ。あの時と同じだ。ロインが船上で見せたあの笑みと。
同時に色。朱、赤、紅。浅葱。
「誰のことだ?」
空とぼけてみても、竹馬の友では騙せない。
「不器用な娘だった。自分の心に湧いた感情を理解することができていなかった。僕がその手伝いをした。それだけの話だよ」
「何のことだ?」
今度は本当に首をかしげる。
「僕はあの時も道化ていたのだよ」
「ロイン、君の言っていることはわからない」
すると今度は笑いが漏れる。
「ふふ、そうか。……学習していないのは君の方ではないか。人の上に立ち、人心を得ても、女性の心はわからぬか。その様子では君の想い人とやらは相当歯がゆい思いをしているだろうね」
わからない、わからない。焦りは思考を鈍らせる。
「勇気がないのか、本当にわかっていないのか」
ロインは言葉を続ける。
「あの頃の君は、今の君からは想像もつかないくらい臆病だった。白状したまえよ。君は彼女が好きだった。別に僕に言う必要はない。君が君の胸に吐けばいい」
『だって、練習なのに丸々使ったら、もったいないよね』
彼女の言葉。何気ない言葉が、何度頭の中で繰り替えされたろう。何でもない言葉を聞くために、何でもない表情を見るために、どんなに校舎が輝いて見えたろう。
彼女は走るのが好きだった。決して速くはなかったが、本当に楽しそうに走っていた。風と一緒に、笑いながら走っていた。その姿が自分の心には印画紙のように焼き付いていた。その理由さえも知らず。その感情がどこから来て、どこへ行くのさえも知らず。
それも今ならわかる。わかるけれども、全ては終わったことなのだ。終わったことはもう戻らない。戻れない。時の呪縛から抜け出さぬ限り。
「そして、君も知っているだろうが……彼女も君のことが好きだったのだよ」
「そんなはずは……」
ない。言いかけてやめる。それは今までに何度も否定しようとして、否定しきれなかった可能性だ。もしかしたら。単なる希望的観測でなく、不確かながらも実感として感じていたのだ。
そして言葉を変える。
「だったら何故彼女は君を選んだ?」
「君は本気で僕が彼女を求めていたと思っているのか? 本気で彼女が僕を選んだと思っているのか? だとしたら君はやはり愚鈍だよ。さっきも言っただろう。僕は彼女の手伝いをしただけだと。彼女の目を開かせただけだと。……君があの後すぐにあの地を離れてしまったのは誤算だったが」
ロインが去った後。記憶を手繰るが、彼女と話した記憶はない。後悔した記憶が、少しだけ。
「そうだ、僕も未熟だったのだ。君達の性格を見抜くことができなかったのだから。君達のその、物事を割り切れぬ純粋な心が!」
何故自分は彼女に話しかけることをしなかったのか。
彼女は悲しみの涙を浮かべているのだと思ったから。
涙に付け入るような真似が自分で許せなかったから。
「悪いとは言わぬ。それは人の持って生まれ、育んだ性格なのだから。だがそのせいで君達は結ばれなかった」
「ならばあの時の涙は何だった? 彼女は一体何に対して涙していたのだ?」
「それが彼女の性格だ。彼女の不器用な優しさだ。彼女は君達を欺いた僕にすら優しさを持って接していたのだ。もちろん欺かれていたとは知らないだろうがね」
「じゃあ何故彼女にそのことを言わなかった?」
聞いてからロインの様子が少しだけおかしいことに気付いた。震えているのか? 泣いているのか?
「それが僕の未熟さだったと言っただろう。『僕はただ君達をたき付けるために君にちょっかいを出しただけだ。さあ早く彼のところに行くがいい』などと、言える状況ではなくなってしまったのだ。
あろうことか、彼女は君への想いを強める度に僕を本気で好きになろうとしてしまった。君への想いを断ち切るためにな。別の人間を心に抱いたままの付き合いなど、彼女の心が許さなかったのだろう」
「だったら何故そのことを言わなかった?」
聖は同じ問いを繰り返す。
「そうならば尚更言うべきだっただろう?」
またロインの影が揺れる。笑っているのか?
「そうだ。僕が一言言えば全ては丸く収まったのだ。だが僕はそれが言えなかった。何故だかわかるかい?」
「それがわかるなら、君に聞くことは何もない」
フフ、ハッハッハ。ロインは高らかにひとしきり笑う。
「そうだ、そうだな。それもその筈だ。何しろ僕だって気付くのに二年かかったからね。
僕も彼女を本気で好きになっていたことに」
ロインはそう言って、しばらく聖を見据えた。
「何も言わずに去ってしまえば彼女は僕のことを想い続ける。僕は彼女を君に渡したくなかったのだよ」
「……」
聖はもう何も問わない。訊くことはない。
「恋のためならどんな手でも使う。悪魔に魂でも売る。それが恋というものではないのか?」
スララ。金ずれの音がして、闇に白刃が光る。
「私は剣に魂を売った。ひたすらに強くなることを願った。それが今の私だ。過去はもう関係ない」
もう関係ない。後悔もない。あれは『変えることができる運命』ではなかったのだ。私とロインの出会いが宿命なのだとしたら。
「さあ君も剣を抜け。もう君と私の間には何もない。学園も、ベントラ公国も、彼女でさえも関係ない。君と出会うことが運命なのだとすれば、こうして剣を交えることも運命なのだから」