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SL ボタ山 塩田 子供の遊び
私のアルバムから、今はもう見ることのできないものをいくつか選びました。
まず、SLです。私たちが子供の頃は、SLなんていう言葉はありませんでした。
スティームロコモティブなんて何のことかと思いましたね。「機関車」、ただそれだけです。
直方に機関区がありまして、機関庫、転車台、給炭・給水普通のことだったんですよね。
中学生の頃(昭和30年代はじめ)、門司港〜博多が電化されて、運転席のすぐ後ろに乗って、「ウワー早い!!」
なんていったのを思い出しますが、それでも40年代のはじめ、通勤で赤間駅にいると、
D51の貨物列車が定時に通過していきました。もちろん通勤は電車です。
それよりも50年代に入って、八幡中央時代ですが、深夜に長崎行「長崎号」が走っていまして、
もちろんSLです。八幡駅からよく酔っぱらって乗りました。ところがある時、これが電車になったんです。
詳しい説明はしませんが、酔っぱらいには大変な出来事でした。キーワードは「加速」です。hi
下は、昭和47年(1972)位の室木線(遠賀川〜室木)です。廃線直前のものだったと思います。

この写真に記憶がないんですよね。D50ですが、力強い走りですね。

その燃料「石炭」、後ろがボタ山、前に炭住が見えます。(青春の門の雰囲気ですね、)
私が中学生(昭和32・3年)くらいの鞍手町です。
まだ子供でしたから炭坑の名前は知りません。たぶん三菱新入か貝島大之浦と思います。

下、右端は小竹駅です。左側から古河目尾坑の石炭列車が本線にはいるところです。
後ろ中央の山並みは福智山系、その左のボタ山(ピラミッド型の小山)は目尾坑のもの。
ここは現在ゴルフ場になっています。
石炭を積む貨車は「セム」「セラ」が圧倒的に多かったですね。
この写真も昭和30年代はじめです。
私の祖父はたたき上げの炭坑屋で小山の炭坑長なんてやってました。
私が覚えているのは川崎町の大豊炭坑でしたが、その後小竹に移ってきました。
行く先は知りませんでしたが、毎朝、ゲートルを巻いて出かけていくのは覚えています。
夏休み(小学生時代です)帰ってきた祖父のゲートルをきちんとまき直すのが私の仕事でした。
その祖父は昭和40年、私が大学を卒業する年に亡くなりました。
そのころもう筑豊に「ヤマ」は無くなっていましたね。
ついでにいいますと、私の祖父の名は「作三郎」です。hi

これも今はなきものです。
屋島から壇ノ浦を見たところです。屋島に初めて行ったのは高校時代ですから、昭和30年代の半ばですね。
埋め立て地の黒い細長いのが塩田です。
いわゆる入り浜式の塩田は、30年代の頭までありましたが、中学校の修学旅行(奈良・京都)の時は、
山陽線防府沖などにまだあったことを覚えています。
しかし30年代に入って一気に枝条架(しじょうか)式に転換しましたね。写真も枝条架式です。

枝条架式をアップするとこんな具合です。これは坂出沖で撮影したものですが(30年代後半)、
これもあっという間に無くなってしまいました。
この「塩取りの原理については「しじょうか」で検索してみてください。

子供の遊びも代わりましたね。
もうこんな風景は見ないと思います。この時私は高校生でもうこの遊びからは卒業していましたが・・・
コマ遊びです。この他、パッチン、ダンチン、グーチョキパー・・・etc.
下は、「いのこ」です。私は実はこういうのを知りません。大学一回生の頃(昭和36年)広島で
目にしました。もう無いでしょうね。
金魚すくいや風船釣りは今でもあると思いますが、下の写真は
40年前くらいのものです。


これも今でもあるのかも知れませんが、いわゆる「見世物小屋」です。
入場料30円、その右側には「お代は見てのお帰り」
となっています。昭和30年代後半の松山市郊外、石井村の椿祭りで。

ついでに、大人の遊び。学生時代は(特に四回生の後期)こっていましてね。
卒業してからは、きれいさっぱり、文字通り卒業しましたけど
よく通いました。左手で一発一発玉を押し込めて右手でレバー操作、
いかにこれを早くするか、よく頑張りました。
10日間、連続1000円以上(週刊誌を基準に今の価格に換算すると10000円以上
勝ち続けたこともあります。もちろんトータルでは負けていますが・・・。)

大街道の入り口に「新栄座ホームラン」というパチンコ屋がありまして、ここに一番よく行きました。
今日は、この辺で・・・73es88
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