祝!祝!(99.5.25)

 

 祝!祝!
 ふたつ続くからには“祝”はふたつあるのです。
 

 ひとつめは“祝!エトセトラ開店1周年”。昨年5月1日に開始したこのコーナーもお陰様で1年がたちました。折々に励ましのメイル等をいただき、ありがたく思っております。
 

 思えば、生まれてこの方、わたしは日記のようなものをつけたことが全くありませんでした。
 日記をつけるとわたしが居ないときに親にこっそり覗かれるから、という心配からではありません。幸いわたしの家族にはそんなことをする人はいないのですが、問題は“もしわたしが明日突然死んだら”というシチュエーションです。人間ですから、そういうことも皆無とはいえないわけですが、わたしが死んだあとで、“へー、あの人ってこんな恥ずかしいこと考えてたんだ”と最後の最後に本音が白日の下にさらされるのでは、心配で成仏できません。
 “自分がこの世にいないところで、何を見られようと関係ない”という説もありましょうが、肉体は滅びるとも見栄は死なず、っていうものではないでしょうか。
 

 その点、この“エトセトラ”は人目に触れることを前提として書いてきたので、人に見られて恥ずかしいことはひとつも書いてこなかったし、(もし恥ずかしいことだらけじゃないか!と思われていたとしても、それは単に“恥”の感覚に対する認識の違いなので、全く気にしない)その割にはその時々に自分が感じた本音はちゃんと書いてあって、少しずつですが、書いてきて良かったかな、と思っております。
 久しぶりに読み返してみても主観と客観のまざり具合というか、バランスが良い加減で、これはエッセイ集“エトセトラ”がまとめられる日も近い!?(どうしたらこういう自分本位な発想ができるのか、我ながら不思議です。)
 

 さて、もうひとつの“祝”はこんなちゃちでちっぽけな“祝”ではありません。
 もっととてつもなく素晴しく、最高に素敵な“祝”です。
 健ちゃんが今月、お兄ちゃんになったのです。このコーナーのアイドル、健ちゃんについては以前の項を参照していただきたいのですが、彼と私の関係を一言でいうとこういうことです。
 “わたしの妹が、健ちゃんの妹を産んだのです”
 

 (兄の自覚か、片時も携帯を手放せない現代のモバイル・ビジネスマンを気取る健ちゃん。でもこの写真、よく見ると彼が手にしているのはテレビのリモコンだったりする。)
 

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ソロピアノ(99.6.16)

 

 先日、ソロピアノの録音をしました。
 ラジオのコマーシャルのためにソロを録音することになり、この目的のためには1曲あれば良かったのですが、スタジオでソロピアノをきちんと録音する機会というのもなかなかないものなので、ついでにわたしのオリジナル曲の中でソロ向きのものを7曲録音したのです。
 わたしは、日常の仕事ではソロで弾くことはよくあります。ただ、わたしのオフィシャルな録音というのは、管楽器が最低でも2、3本は入っているようなものばかりなので、ソロピアノをこんなにまとめて録音するのははじめてのことでした。
 

 ソロピアノの録音って自分の声を録音するのに似ています。テープレコーダーに録音された自分の声を初めて聴いた時、自分が知っているはずの声と、あまりに違うので、ショックを受ける、という体験は誰もがしたことがあると思います。
 1曲目をプレイバックした時、わたしがまず思ったのは、“わたしのピアノこんな音じゃないもん。こんな下手じゃないもん。”ということでした。客観的な録音が自分の耳で聴いている自分のピアノの音とあまりに違う(悪い意味で)のです。思わず耳を塞ぎたくなりました。
 

 とはいえ、録音の時は、作業の過程で何度もプレイバックを聞き直さなければなりません。同じものを2度目に聴く頃には、耳が慣れてきたせいか、自分の音を、平常心で聴く余裕も何とか少しは出てきました。
 そして、3度目のプレイバック時には“まあ、なんのかんのいってもわたしも結構頑張ってるじゃない”という心境になってきたのです。
 

 自分に甘いのは人間の常です。それにしてもわたしのこの立ち直りの早さは、我ながら問題ありすぎです。
 そこで、わたしは自らへの戒めの為に、わたしの録音のあとに、最近話題のブラッド・メルドーのソロピアノ作品を聴いてみました。そして結論は・・・。
 “わたしってやっぱりあんまり頑張ってないかも。”
 

(この時録音されたうちの1曲と、CDの中の“Watercolor”が“アサヒ黒生ビール”のラジオコマーシャルに使用されています。J-Wave毎土曜夜10時からの“OZ Meets Jazz”という番組の中で流れているそうです。
 ブラッド・メルドーへのインタビューは近日中に“Jazz Life”に掲載される予定です。カーラ・ブレイへのインタビューは8月号(多分)に掲載が延期になりました。)
 

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Star Wars(99.7.13)

 

 日米両国で社会現象にまでなったあの“Star Wars/Episode1”、あれだけ騒がれると、つい踊らされてしまう(少なくともわたしは。)。公開2日目にして早速見て来ました。
 

 さすがによく出来た映画でしたが、“あそこまで大騒ぎするほどかなあ”というのが正直なところ。それに、元祖“Star Wars”を見ていることを前提として作られているので、わたしのように過去3部作を見ていない者にはよくわからない伏線的な設定が結構あったのです。まあ、20年も前の映画だし、見た人だってディテイルは忘れているんじゃないですかね。
 最初の5分間に“今までのあらすじ”みたいなのがほしかったです。でも、この“Episode1”って今までの3部作より以前のことを描いたストーリーなんだそうで、“今までのあらすじ”じゃなくて、“今後の展開”か。とにかく前3作を予習してから見る方が良かったと思いますが、今の時期どこのレンタルビデオ屋に行っても貸出中だそうですね。
 

 何といっても素晴しかったのは、キャラクターの多彩さとユニークさで、ルーカス監督の想像力とアイディアの豊富さに驚かされます。海底深く潜っていくと、そこに半魚人のような奇妙な集団がとても美しい町を作って生活している、という場面が特に印象に残りました。
 ただ、CGの凄さには目を見張るものの、ストーリーはよくある勧善懲悪もの。悪役はあくまで悪役、良い人はどこまでも正義の味方、というとても単純な描かれ方で、人間(宇宙人も含む)どうしの複雑な感情の響き合いみたいなものは、希薄でした。
 唯一、“心のふれあい”を強調していたのが、9才の主人公アナキンが母親と別れて修行の旅に出る場面。ここが、この映画のクライマックスでもあるわけです。しかし、それにしては“アナキン!あんたは母ひとり子ひとりなんだよ。もう2度とお母さんに会えないかもしれないんだよ!もっと盛り上げんかい!”とおもわずツッコミを入れたくなるほど、淡々としていました。一応“ママと一緒でなきゃヤダ!”みたいな通り一辺なことを言ってみせるんですが、それも何か演技で言わされてるみたいでいまひとつ気合いが入ってない。(って、そりゃ演技なんですが)
 

 確かに面白い映画で十分楽しめましたが、“感動する”っていうのともちょっと違ったかなあ。わたしに今一番足りないのは“感動”。感動させてくれー。
 

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