“千葉すず問題から”(00.8.6)

 

 先日、水泳の千葉すず選手が、オリンピックの選手選考に関して国際調停機関に提訴していた件で、敗訴という判決が出ました。とても残念ですね。記録や実績からいって彼女にオリンピック出場権があるのは明らかで、あれはどう見ても日本水泳連盟の権力によるいじめ以外の何ものでもないと思います。大人が堂々とああいうことをやっていながら、こどもに対して“いじめは辞めましょう”なんて言ったって、伝わるわけないですよねー。
 今年は女子マラソンの選考でもトラブルが起きていましたが、わたしが不思議でならないのは、陸上や水泳といったコンマ01秒単位で記録が出る競技で、ああいう揉め事が起こったということ。個人競技のスポーツは厳然とタイムや順位が出るのが特徴で、それがスポーツの最も過酷なところにして、最大の魅力でもあると思うのです。
 

 この点、音楽や美術、バレエといった芸術分野の選考は結構難しいですよね。
 音楽のコンクールは、体操でいう“技術点”と“芸術点”の合計で採点する、といった雰囲気なのでしょうが、コンクールの本選に残るような人は大抵技術的にはかなり完璧に近いですから、主に芸術点的見地から選考することになると思います。でも、芸術的な演奏かどうか、なんて、審査員の好みというか、かなり主観的なものですよね。“ショパンコンクール”のようなレベルの高いコンクールでは、上位の数人は誰が1位になってもおかしくないことが多いです。
 

 それでも、音楽はまだ課題曲などある分、少しは選考の基準も作り易いと思いますが、芥川賞や直木賞に代表される文学賞って、本当に公平な選考なんてやりようがないですよね。“どうしてこんな本が立派な賞に選ばれたのか?”と疑問に思うことだってありますし。
 

 わたしは今年から某音楽大学でピアノを教えているのですが、そこでも、実技試験ってあるんです。
 わたしを含めて5人のピアノ担当の先生が試験に立ち会うわけですが、音大の生徒は、コンクールの最終選出者の集まりではないわけで、減点すべき箇所もクリアですから、それぞれの生徒に対して大体どの先生も似た様な点数をつける結果になります。
 

 だから実技試験は問題ないんですけど、論文方式試験の評価のしかたっていうのは相当マチマチみたいです。
 100点満点で採点するんですが、わたしは日本水連にならないように(?)自分なりに基準を決めました。それは<“1.期限内に提出され、2.字数が守られ、3.テーマについて真面目に書かれ”ていれば、70点以上はつける>ということです。なぜ70点か、というと、実際は70点よりずっと低くても単位は与えられるんですが、やっぱり大学生になって70点以下、という点数もショックなんじゃないか、と思うからです。
 

 で、以上の中で、1と2は、水連でいう“1.国際A標準に達していて、2.国内選考で2位以内”みたいなもので、とてもはっきりしているんですが、問題は3で、これは“海外の選手を相手にメダルをねらえるか”的なとても曖昧な基準といわざるを得ないんです。(たとえとはいえ、スケールが違いすぎるが)
 そのくらい、“真面目に書いているのか”疑わしい論文が多かったということです。テーマに対する展開のしかたがどうこう、というより、誤字脱字が多かったり、助詞の使い方がおかしかったり、主語と述語が対応していなかったり、テーマと違うことについて書いてあったり・・・とにかくそもそも日本語としてちょっとヘンじゃない、っていう感じなんです。もちろん中にはとてもよく書けている論文もあって、生徒によってかなり差は激しいんですが。
 

 生徒たちの方には、けっして故意にわたしをナメてかかっている、という気配は全くないので、とにかく最低でも70点代はつけましたが、他の先生の意見も聞こう、ということで、そういった“疑惑の答案”のいくつかを同僚のM氏に見せたところ・・・“こんな論文に70、80点代をつけている守屋さんは、採点のしかたがとっても甘い!”と言われてしまいました。
 わたしは、自分が生徒に対して厳しすぎるんじゃないか、と常々不安に思っていたのですが・・・。そうか、わたしって甘い先生だったのね。
 

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“伝統校とは何か”(00.8.15)

 

 高校野球の季節ですが、わたしが毎年疑問に思うのは、なぜ横浜高校やPL学園のような“伝統校”といわれる学校は毎回地区大会に勝ち抜いて甲子園にやってくるのかということ。監督こそ変わらないですが、生徒は3年で卒業していくわけで、毎年横浜高校に松坂がいるわけじゃないのに、ちゃんと勝ち上がってくる、というのは不思議だと思いませんか。
 

 話は突然変わりますが、先週の土日、今年も“山野ビッグバンドコンテスト”が行われました。この“山野”も今年で31回目なんですが、不思議と上位に入る学校は大体決まっているんですよね。大学生だって4年単位でメンバーは入れ代わっていくのに。
 今年は明治大学ビッグサウンズが優勝、そして国立音大ニュータイド、早稲田大学ハイソサエティー、同志社大学サードハード、大阪大学ニューウェイブ、慶応大学ライトミュージックの順だったそうです。やはり今年も“伝統校”が入賞したわけです。
 この中でわたしが実際にステージを聴いたのは明治、早稲田、同志社でした。
 同志社はとても良かったですね。全員が2度音程でアンサンブルをしているような“ぐちゃーっ”とした、前衛的でおどろおどろしいサウンド。オバケが出てきそうでした。(誉め言葉です)
 こういう曲って一歩間違えると審査員から“チューニングがヘン”“もっとしっかり音程合わせしなさい”と言われてしまいかねないんですが、あえてコンテストでこういう曲をやるあたり、相当自分たちの技術に自信があるんだろうし、実際技術的にはもちろん、大変音楽的な演奏でした。
 

 わたしは今回、早大ハイソにスコアを提供していました。
 ハイソはここ3年山野で3連覇していますから、あまりにも成績が悪いと、アレンジが悪かった、と言われかねない。現役は優勝できなかったことに相当がっかりしているようですが、わたしとしては、取りあえず3位以内に入ってくれてホッとしました。
 また、わたしの曲に関しては、かなり難しかったと思うのですが、本番で完璧に演奏してくれて、そのことに関しては、学生にとても感謝しています。
 

 エトセトラのこの前の項でも書いたのですが、音楽の選考というのは、大変やりにくいもので、3位以内に入る学校というのは、実力的にはほとんど変わらないわけですね。あとは、審査員がどこを重点に置いて審査するか、にかかっているわけです。
 で、2位の国立は聴いていないので、何とも言えないのですが、明大と早大はかなり対照的でした。
 明大が演奏したのは2曲がベイシーもの、1曲がオリバー・ネルソン、3曲ともビッグバンドの定番中の定番。対して、早大はジョジュア・レッドマンとジョー・ヘンダーソンのコンボの曲を神尾修さんがビッグバンドにアレンジしたもの、1曲はわたしのオリジナル、ということで、3曲とも日本人アレンジャーもの、かつ初演でした。初演ということは、結局どこにもお手本がないわけですから、“本物”を聴いて、それに近付けるように真似してみる、というわけにはいかず、どういう風に演奏するか、一から自分たちで考えなくてはならなかったのです。
 

 でも、他の多くの学校のように、ベイシーやボブ・ミンツァーを演奏しても、ベイシー楽団やミンツァー・バンド以上の演奏になるわけはない。本物は絶対に超えられないわけです。もっと言ってしまうと、こういう王道の曲に関しては、残念ながらアメリカの学生バンドを超えることも難しいのです。
 ハイソのように、お手本がない、誰も演奏したことがない曲をコンテストで演奏するというのは、なかなか勇気がいることで、その勇気は褒められても良いのではないかと思います。ただ、学生で基礎もできていないうちに、オリジナル曲で勝負しようというのが良いことかどうかは、確かに意見の別れるところでしょう。
 

 わたしはあるプロのサックスプレイヤーの方と一緒にステージを聴いていたんですが、彼は“明大のようなバンドこそ優勝するべきだ”と言っていました。学生のうちにベイシーのような基礎を徹底的にたたきこんで、ビッグバンドの何たるかをきちんと学ぶべきだということです。実際、このバンドは、伝統的にずっとベイシーサウンドを追求し続けていて、現在プロのミュージシャンを一番輩出しているのは、明らかに“明大ビッグサウンズ”なんです。
 ただ、わたしの個人的な意見でいえば、どうせ4年間でビッグバンドの基礎を全て身につけるなんていうことは不可能なので、それより“自分たちにしか出せないサウンド”にこだわる方が良いと思います。ジャズで(というより世の中のほとんどのジャンルにおいて)何よりも大切なのは“オリジナリティー”だと思うからです。“学生なのにこんなに上手”“日本人なのにこんなに上手”“女性なのにこんなに上手”っていうレベルで満足していてはいけないと思うんです。
 

 ひとつお断りしたいのは、わたしは決して“明大が1位になるべきじゃなかった”と言いたいわけではないんです。彼等の場合は、ベイシーを演奏していても、ベイシ−楽団を真似しているというより、“ビッグサウンズのベイシー”という新たな価値を付け加えた素晴らしい演奏でしたから。
 

 それで、高校野球の話にも通じるんですが、結局伝統校が脈々と伝えている伝統って、具体的な技術とかではなく、ビッグバンド、もっといえば音楽をどうとらえるか、っていう根本的な価値観の問題だと思うんです。ハイソはわたしが在籍していた10年以上も前から、とにかく“新しいサウンド”“自分たちが初演”ということにこだわっていましたから。
 わたしは、音楽で一番大切なことは、“自分だけにしか表現できない個性”だと思っています。その精神は、NYに留学するより前に、ハイソで教えてもらったことなのだと、今回改めて気がつきました。
 

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“バリ島滞在記”(00.9.11)

 

 8/29から9/2までバリ島に行ってきました。
 バリというと、熱帯というイメージがありますが、気温は最高30度くらいで、朝夕は涼しく、日本のようにジメジメしたところもなく、今年の猛暑の東京から来ると、まるで避暑に来た様なイメージでした。“東京は今35度はあるんだよー”と言ったら、現地の方はビックリしていました。
 

 バリには“ヤシの木より高い建物は建ててはいけない”という法律があるそうです。観光地なので、ホテルやショッピングセンターは結構たくさんありますが、どれもどんなに高くても5階建てくらいまででした。物価は日本の10分の1から7分の1くらいですので、バリ独特の洋服、布、彫刻、小物(今日本ではアジアンテイストの雑貨がブームらしい)などが好きな人にとってはお買い物天国といえると思います。
 

 バリの人口の95パーセントはヒンズー教徒で(インドネシア全体ではヒンズ−教徒は5パーセントほどで、ほとんどがイスラム教徒)、しかもそれはインドから来たヒンズ−教とバリの土着信仰とが混じった独特の信仰だそうです。バリの文化と生活の全ての根本は、この独特のヒンズ−教にあるようです。
 彼等の信仰は多神教なので、神様の種類が多くて、とにかく街中のあちこちに石や木で彫られた色々な種類の神様の像がたっています。
 神々の中には良い神様だけでなく、悪い神様もいるらしくて、一日3回あるお祈りの時間には、悪い神様にも良い神様と同様に祈りを捧げるそうです。必ずしも、良い神様は悪い神様より偉い、という勧善懲悪型ではなく、良い神と悪い神は常に同じ価値をもって戦っている、という考え方らしいです。“善悪”をはっきり区別し、“絶対的存在”を崇めるのが一般的な宗教の形だとすると、この曖昧さは、かなりユニークな気がしますし、それがバリにしかない様々な文化的特徴を作っているようです。
 

 バリへは成田から10時間もかかりますが(直行便がないため)、観光客は3年前からオーストラリア人を抜いて日本人が一番多く、日本語が話せる観光ガイドだけで300人はいるそうです。ガイドさんは皆本当に日本語が流暢ですし、観光地で働く人は、大抵ある程度の日本語が話せます。関空からは直行便もあるそうで、比較的関西方面から来る人が多いため、大阪弁がしゃべれる(?)ガイドさんもいるらしいです。
 驚いたことに、バリでは小学校から第二外国語として、英語と日本語を教えているそうです。日本の歌謡曲なども流行しているらしいし、道を走っている車は殆どが日本車だし、日本とは実はとても深い関係にあるところだったんですね。
 

 わたしがバリを訪ねた時期は、夏休みも終わっていて観光ピーク時期ではなかったのですが、それは考慮にいれても、どこも観光客は少なめで、バリが好景気に湧いているという感じはしませんでした。3年前から日本人観光客が一位になったというのも、日本からの観光客が増えたわけではなく、オーストラリアやヨーロッパからの観光客が減ったからなのではないでしょうか。最近のインドネシアの政情不安は、観光が主産業であるバリには相当深刻な影響を与えているようです。
 

 それでも、バリの方たちはみんなとっても明るくて、陽気です。
 お米が1年に3回もとれるという温暖な気候の中で、広々した土地と、美しい海に囲まれて暮らし、困ったことが起きた時は、ヒンズーの神々に祈れば良い。日本人のように、将来を心配してほとんど利息もつかない貯蓄に励む必要なんてないのでしょう。
 一般的な意味でいう生活水準はそれほど高くないのかもしれませんが、バリの人々には本質的な豊かさというか、余裕があるようです。とにかく皆がシンプルな生き方をしているな、と感じました。
 

 よくバリは“神々の住む島”“地上の楽園”などといわれます。こういうコピーって旅行会社が大袈裟につけたものが多く、行ってみるとそれほどでもなくてガッカリ、っていうこともありがちですが、ことバリに関しては、このコピーどおりの場所と言えるところでした。
 

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