「栃木リンチ殺人事件 警察はなぜ動かなかったのか」

黒木昭雄

草思社

 


 黒木氏の書くドキュメントを読むと,私はいつもむかむかさせられます。もちろんそれは黒木氏が悪いのではありません。黒木氏が追求するその対象にむかむかさせられる,というわけなのです。それはいかに黒木氏のドキュメントが真に迫っているか,ということなのですが。
 この本も,そのようなもののひとつです。

 さて,この事件は凄惨なリンチ事件として未だに記憶に新しい事件です。しかしこの事件には,実は隠れた主役がいた,ということはほとんど知られていません。被害者の少年を死に追いやったのが担当警察官の不用意な一言であったということはよく知られていますが,では,その警察官が不用意な一言を発する背景,つまり,なぜ,警察は被害者の両親の訴えを無視し,犯人達を放置していたのか,その真の理由はあまり知られていませんでした。
 その,事件の真の原因とも言える事実を追求したのが本書といえます。警察はなぜ動かなかったのか。その根本的な理由です。

 ここでひとつ興味深い事実があります。
 被害者の少年はある自動車工場に勤めていました。そしてその両親は,単なる一工員とはいえ,自分たちの息子が勤めている会社だからとそのメーカーの自動車に乗っていました。それはしごく当然なことといえます。
 ところが,黒木氏の調査により真の事実が明らかになった今,両親はその自動車を売り払い,そのメーカーのライバルといえる別のメーカーの自動車に乗っています。そしてこのように言っているといいます。息子を殺した犯人達も憎いが,今は警察と,そのメーカーが憎い,と。
 それはなぜなのでしょうか。

 同様に警察が動かなかった事件としては,ほぼ同じ時期に起きた埼玉県桶川市の女子大生刺殺事件があります。こちらは公式には警察の怠慢ということで決着を見ています。しかし,刺殺した犯人が不可解な自殺を遂げるなど,まだ謎は残されています。ほんとうに警察の怠慢だけが原因なのか,と私は今でも疑っているのですが。
 そしてこのリンチ殺人事件です。こちらも当初は被害者の訴えを素直に聞かなかった,警察の怠慢ということが原因だ,とされていました。曰く,当時は警察が忙しく,被害者の訴えをつい放置してしまった?。
 しかし,それはほんとうのことなのか。著者の黒木氏が感じたのはそのような疑問でした。
 どこの警察にも怠慢な人間はいる。しかし,この事件は,まるで警察が組織的に,この事件に関わりたくないかのようではないか?
 

 それからの追求は,当に元警察官である黒木氏の独断場といえます。特に,当時の警察の態度から真の原因を追及してゆく過程は,警察の内部にいたものでしかわからないものといえます。例えば,担当の刑事は両親の訴えをメモ一つ取らずに聞いていましたが,黒木氏の知る警察の常識ではそのようなことはあり得ない,といいます。警察とはどんなことにでも文書を要求するものだが,この事件では両親の訴えをほとんど文書にすることはなかった。なぜそんなことかあり得るのか。
 そして黒木氏が辿り着いたのがある結論です。それは,この事件に関して,これを事件にしないようにという圧力がかけられていたのではないか,と。

 まるで漫画か小説の中にでも出てくるような話です。真犯人がいることは分かっているのに,上からの圧力によってそれを追求することが許されない。そんなことがあり得るのでしょうか。あり得るのだとしたら,それはどうして。

 そこで登場するのが,被害者の少年の勤めていた,日本有数の自動車メーカーです。
 少年はその工場に勤めていたのですが,犯人達の一人,その少年をリンチした人間の一人が,少年と同じ工場に勤めていたのです。そして,新人配属時に少年とその犯人の一人が隣のロッカーだった。それが,今回の事件の始まりと言っていいでしょう。

 本書によれば,その犯人の一人は,かなり札付きの人間だったようです。その犯人の一人が,半分は主犯に脅されて,少年を使い,少年の同僚たちから金を巻き上げていた,というのがこの事件であったのです。
 これは本書を読んで驚いたのですが,どうやらこのメーカー自身は,この事件を最初から知っていた疑いが濃厚であるのです。
 不良社員の一人が仲間とつるんで他の社員たちから現金を恐喝している。そのような事件が進行していることを会社側はかなり早い時点でつかんでいたようなのです。しかも,なぜ会社側が事件をつかむことができたかというと,どうやらそこには警察側の協力があったからのようなのです。
 

 この事件そのものは,実はチンピラの起こした単なる恐喝(あるいは強盗)事件にしか過ぎません。犯人達を調べてみると,どう考えても大それた事件を起こせるほどの人間とは思えないというのです。つまり,もし,初期の段階で誰かが犯人達を厳しくしかりつけていたら,これほど彼らがすさまじいリンチを繰り広げることにはならなかっただろう,と考えられるのです。
 彼らがこれほど事件をエスカレートさせていったのは,彼らが犯罪を重ねていながら,それが放置されていたからなのです。

 しかし,この事件を知って会社側はどうしたのか。やったのは,この不祥事を握りつぶすことでした。
 ある社員が他の社員を恐喝して現金を巻き上げていた。もしこれが警察沙汰となったら大きな不祥事になります。会社に対するダメージは計り知れないものといえるでしょう。もちろんマスコミからも叩かれるでしょう。そこで会社が選択したのは,この事件を表沙汰にせず,内々で済ますことができないか,ということだったというのです。

 不思議な人間がいた,というのです。被害者の少年の両親が警察に行ったとき,会社側の人間としてある人物が同行した様なのですが,その人物は警察に行ってもなにをするでもなく,ただぼうっとたたずんでいた,というのです。彼はいったい何物なのか。警察へ行って何をしていたのか。

 その人物の正体は,栃木県警のOBでした。そして警察を辞めたときの階級は警視クラス。つまり,署長クラスの人間であったのです。
 その人間がなぜ警察に出向いていたか。もちろんそれは,事件の事前処理とでもいうべきものです。それがつまり,「圧力」の正体です。

 どうやら会社側としては,その不良社員に陰に圧力を加えることによって,事件をまとめようとしていたようなのです。ところがその不良社員と仲間はそんなことを意に掛けることもなく,犯行をエスカレートさせていきました。もう会社には打つ手はありません。
 そこで会社側としてはその不良社員を辞めさせることにしました。まあここまでは普通の対処です。
 しかし問題は,ここで会社側が,この事件の被害者でしかない少年もその不良社員と同罪にして会社を辞めさせようとしたことです。そして,事実この少年はこの会社を辞めさせられています。
 なぜ会社は少年を同罪にしようとしたのか。それは,もしこの少年が単なる被害者でしかないのだとしたら,事件を知りながら放置していた会社側にも責任があることは明らかだからです。同罪と言うことなら,その責任は取らなくて済みます。
 

 少年と犯人が勤めていた自動車メーカーとは,日産自動車でした。

 そして本書によれば,本書を発行した時点で,日産自動車はこの少年に対する処分を撤回していない,とのことです。
 

 日産自動車の現社長,カルロス・ゴーン氏は,改革の旗手としてあちこちでもてはやされています。確かにゴーン氏のお陰で,日産は業績を回復したといってもいいでしょう。
 私はこの本を,カルロス・ゴーン氏に送りつけたい気持ちでいっぱいです。もし私が日産自動車の株主なら,このことを株主総会で質問したいくらいの気持ちです。ゴーン氏はこの事実を知っているのか。知っているのなら,これはこのままにして置いて良いことなのか。そのことをぜひゴーン氏に聞いてみたい気がします。
 この事件が公になったときには,もう既にゴーン氏は日産のCOOではなかったのか。その意味で,この事件に対して,ゴーン氏にはなにも責任がなかったのかどうか。

 少なくとも今の私は,この少年に対する処分が撤回されるまで,日産の自動車を買うつもりにはとてもならないでしょう。

 最後に一つ。
 この事件で重要な役割を演じているのが,最近はやっているサラ金の無人契約機です。犯人達は被害者の少年やその友人達をこの無人契約機につれてゆき,そしてさっさと自分たちで機械の操作をするとそのまま金を巻き上げていったのです。
 この機械が犯罪の温床になっているのではないか,と黒木氏は懸念しています。

 この事件を追及する黒木氏の視点は確かなものです。
 これからも黒木氏の書くものには要注意といえるでしょう(^_^;)。
 

2001/6/11