宗谷歴史できごと
○場 所 請 負 制 度
松前藩は1590年以来蝦夷島主としての地位を得ていたが米ができないため、本州諸藩と異った知行制度をとっていた。
下級武士には、藩主から切米*1を与えていたが、高禄の藩士には、蝦夷地をいくつかの場所に区画してこれを与え、その場所における交易の独占権 を与えていたのである。
場所持ちと呼ばれたこれらの知行*2主(藩士)は諸国の商人とアイヌと の間に立って交易した。しかし近江(滋賀県)商人などが松前に出店を開いて進出してきた1624〜1463年頃から藩士たちは、次第に彼等にその地位を奪われ、やがて交易の資本から一年間の生活費まで、商人から借りる ようになった。遂には、商人が場所請負人の名目で登場し、知行主に一定の 運上金(税金)を納めて、蝦夷地における交易権を握るようになった。
場所というのは、初め商い場所といい、純然たるアイヌの交易場所であった。商人達は、米、麹、酒、たばこ、小刀、針、木綿、古手類、さけ網、釜などアイヌの生活物資を船積みして商い場所に赴き、そこで、しめかす、さけの塩引き、干物、いりこなどの俵物と交換した。後には場所請負人がアイヌを働き手として、直接場所経営に当るようになった。
「西の横綱鴻池善右衛門、東の横綱村山伝兵衛」と江戸中期長者番付にうたわれた村山伝兵衛は、1789年江戸時代幕府、大名の家臣で知行地を持たない小禄の家臣に春・夏・冬の3回に期限を切って支給された扶 持米。
特に冬(10月)に支給されたものをいう場合もある。
※2 知行(ちぎょう)
@ 土地を支配すること。治めること。
A 中世.近世上位者から与えられた所職や所領を支配すること。 また、家臣に恩給された領地、知行地。
○宗谷の発祥
宗谷とは、アイヌ譜でソ・ヤ、つまリ「磯岩の多岸」と言う意味です。 現在の宗谷地区は、元来アイヌ語でウエントマリ、つまり「悪い泊地」 と呼ばれていましたが、宗谷場所が開設されたとき、ウ工ントマリの名を 忌み嫌って大岬地区にある弁天島のアイヌ語名「宗谷〈ソ・ヤ)」をあて たと言います。
宗谷の地は、安土・桃山時代の天正年間(1580)に松前氏の藩領と なり、江戸時代の貞享年間(1684〜1687)に松前藩が直領の「宗 谷場所」(交易の場)を置いたことに始まリます。その後、当時のロシア南下政策の脅威に対する防衛の中心地として、また・棒太渡航の拠点とし て、地元産品の交易場として世に知られるようになりました。
明治122年(18799)には、この宗谷村に稚内部落を含めた戸長役場 が置かれ、これが‘稚内市の開基”となったことからもわかるように、宗谷村は稚内村より先行して発展してきたといえます。
その後、明治33年に、稚内を分村、そして昭和30年(1955)には発展した稚内市と合併し、現在に至っています。
○北海道を11国86郡に分ける
箱館戦争で旧幕府を支持する勢力にとどめを刺した維新政府は、明治2年 (1869)8月l5日、蝦夷地を北海道と改めた。これに先立って7月に 新設されていた開拓使が広大な未開地がひろがる「皇国の北門」の開発にあ たることになった。
北海道を11ヵ国、86郡にわけ、開拓を手がける基礎が築かれたのだが、 最初から全道を開拓使が直轄したわけではなかった。財政上の問題もあって、 願い出た旧藩、有力な士族や寺院などの分領を許している。有珠の伊達と仙台の支藩・亘理藩の結びつきもこのときからであり、宗谷の一円も明治3年正月に金沢藩の支配地とされた。
幕末の津軽、会津、秋田の東北諸藩とのかかわりのあと、今度は北陸の金 沢藩と宗谷は関係を持っが、金沢の場合は関係者の墓ひとつ残っていない。 政府の方針は二転三転とめまぐるしく変り、10ヵ月ほどで所領を召し上げ られたこともあって、金沢藩がどこまで本気で開拓を考えていたかはわから ない。
ちなみに11ヵ国とは渡島、後志、石狩、胆振、日高、天塩、十勝、釧路、 根室、北見、千島のことである。国名は86の郡名ともども北海道、樺太の名づけ親だった松浦武四郎の提案によっている。
北見国は宗谷、利尻、礼文、枝幸、紋別、常呂、網走、斜里の8郡。語源 をせんさくしておくと、次のようだった。
北見ー「あまり広いので、国名は宗谷でも紋別でもふさわしくない。この 辺のことを北海岸と呼ぶのがふつうだったし、晴れた日に樺太が見えるから、 北海岸の北と見を合わせて北見はどうか」という武四郎の意見に基づく。
現在、北見市の存在から稚内と北見国の結びつきがおかしい感じはするけれども、命名の精神から最もふさわしいのは稚内であり、盆地のまちが北見と名乗る方が変ということになる。
国名は道民の生活上ほとんど意味を持たなかったが、地名などに生きている。天北(天塩と北見にまたがる)原野、狩勝(石狩と十勝)峠、日勝(日高と十勝)峠、国鉄の石北(石狩と北見)本線などの例がある。
なお、10国(千島を除く)と現在の14支庁との関係をおおまかに付言すれば、
・後志国を分割して後志支庁と桧山支庁(渡島国からも一部編入)
・石狩国を3分割して、、石狩支庁、空知支庁、上川支庁(天塩国からも一部編入)
・北見国を分割して、網走支庁と宗谷支庁になった
その他の7ヵ国は、ほぼそのまま7支庁になって現在の14支庁となってい る。
○鬱蒼たる原生林であった宗谷地方
明治に入り開拓期を迎えると北海道名地で森林の伐採が進み、宗谷地万においても明治30年代に伐採が開始されました。それまでの宗谷地方は鬱蒼たる原生林に覆われていましたが、乱伐と明治後期に相次ぎ発生した大火による被害も加えて大正期には早くも一部を除いて森林は荒廃しました。
しかし、国土の荒廃という問題を除いては、立木との闘いであつたといえる開拓はかなりの便宜を受け、何よりも開拓期の畑作不振による生活は、この冬期間の付近伐採の稼ぎによりとれだげ補われたか知れませんでした。
○最初のひと鍬
北海道の開拓は、明冶30年(1897)に「北海道国有林未開地処分法」が制定されたことにより、本州特に東京の貴族や大資本家によっては じまりました。
稚内においての農業の基礎は、明冶28年に新潟県からサラキ卜マナイ に移り住んだ本田啓大郎、定冶さん親子に始まるといわれています。その後、日本の最北の地に夢を託し、富山、山形、神奈川などから多くの人が集まつてきました。
当時の、入植者、笹や蕗、イタドリ等の雑草が覆い被さるような道とはおぼつかない薄暗い道を、熊の出没におびえ、藪蚊に悩まされながら肩に 食い込む荷物の重さが前途を暗示するかのような中を一歩、一歩、歩いて 入植地に入ったといいます。
開拓時代の農業は、いわゆる原始的な焼き畑農業でした。そば、菜種、工ン麦、麦、とうきび等を自給自足のために作るのが精一杯で、作物の収穫は少なく、馬やニワ卜リなどの餌にも事欠く時代が長く続きました。住まいもあばら屋や、熊笹葺きの掘っ遅て小屋が多く、当時の開墾は北の寒さと飢えと熊との闘いであったといいます。
○川魚が副食、炭焼きが副業 =稚内=
明治の終わりころ、私は宗谷の増幌原野に入植し農業開拓をはじめました。入植 した年は林や笹原を開墾し、火を入れる焼畑をおこないました。しかし、入植した時期がおそかったため、開墾もおくれ野菜ぐらいの収穫しかありませんでした。食糧は、2里(8km)も離れた商店から背負い運ばなければなりませんでした。主食を買いに出かけ、麦1俵をかついで運んだ時は1日がかりの大仕事でした。
幸い増幌の川は小さいながら水は清く澄み、きれいな小石がしきつめられ、ヤマべやイワナなとの川魚がたくさんいました。
7月から8月にかけては、八ッ目うな ぎが産卵にくるため、川底は真黒になるほどでした。夏から秋にかけてはサケやマ スが、この川をのぼり続けます。
私たちの副食といったら山菜取りし、この川の魚を釣り、食べていました。畑では何もとれないころでしたので、この上ないごちそうでした。
冬になると開墾もできずじまいで、夏場に切った木をマキにしたり、炭焼きをし木炭をっくり稚内の町に売りに出ました。売ったお金で米や麦、そして味噌と醤油を買って帰りました。そのほかには、造材の杣夫をしたり、鰊場の釜たきをして現金を稼いだものでした。
今考えてみると農業開拓だけでは生活ができなくて必死で川魚を副食として、炭焼 きを副業として暮らすのでした。このようにして、自然の恵みである川魚が開拓者の生活を支えたのでした。
○明治44年の大火
明治44年(1911)5月16日から17日にかけて、北海道は春の乾燥期特有の強風のため、小樽、石狩、余市、歌志内、新十津川と山火事が引 き金となって、相次ぐ大火が発生、住民を恐怖に落し入れました。なかでも 一番被害が大きかったのは、小樽と稚内だったと言われています。
当時の北海タイムス(現・北海道新聞)の記事によると、『小樽の大火が鎮火したる17日午後l時30分より、宗谷郡稚内町山火のため又も火を失 し約3時間の内に同町全市街地を烏有*1に帰したり』と報じています。
この記事によると、15日ごろから発生したと見られる山火事が民家まで広がり、いったんは消し止めたかのように見えた火が、17日の午前11時ごろ再び燃え広がり、折からの南西(ヒカタ)の強風にあおられて、裏山 (現・稚内公園)から市街へと延焼し本通北5丁目から南4丁目(現・中央 地区〜港地区にかけ)を中心とした“目抜き通り”の752戸が全焼しまし た。
このなかには、町役場、警察署、小学校、郵便局などの官公署が含まれ、 損害はざっと300万円と推定されています。
この大火によって、明治44年以前の戸籍も焼失し、また、うっそうと木が生い茂っていた裏山もハゲ山同然になったといいます。
狭い土地に家屋が密集している稚内の最大の泣きどころは、火に弱いとこであり、その後も大火に見舞われ、昭和3年(1928)の大火では681戸を焼失、昭和5年(1930)の大火で、再び町役場を含む216戸と災害が相次ぎ、稚内の歴史は火との戦いであったと言っても過言ではありませ ん。
稚内は、このほか明治26年(1893)6月にも大火に見舞われており、 前後4回も大火の被害にあったことになります。
*1 烏有(うゆう)
『烏(いずく)んぞ 有らんや』の意で、まったく無いこと、何物も存在しないことを意味する。
○有鉄道稚泊連絡船(稚内・大泊間)運航開始
大正12年(1923)5月2日の早朝、稚内の港は一隻の汽船を迎えて活気づいた。黒煙を吐き続ける高い煙突の「工」のマ一クが、鉄道省のものであることを誇らしげに示している。船側と船尾に「壱岐丸」と記されたこの船は、稚内と樺太・大泊を結ぶ稚泊連絡船として最初の航海をいま終えた ところだった。
陸から700mほどの沖で、錨が下ろされる。ポンポンと焼き玉エンジンの音を響かせながら、小型船がカラのはしけを引いて近づいていく。壱岐丸の甲板では身じたくをすませた217人の乗客たちが、トランクなどを手に して待ちかねている。大泊を出港したのが1日夜の9時。8時間の船旅だったから、下船を急いでいるのも無理はない。はしけが船腹に横づけになり、 1等のお客からタラップを降り始める。
稚泊航路はこうして順調のうちに運航が開始されたのだった。
稚泊航路が開設されるまで、北海道と樺太との交通は人、貨物ともおおむね小樽を起点にして運ばれていた。
※ かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の声の荒さよ
石川啄木が小樽日報の記者としてやっていた明治40年(1907)ごろ、 小樽の町は日露戦争の戦勝景気に酔っていた。物を言うのは資力であって、 20歳そこそこの田舎新聞記者など相手にもされはしなかった。
例えば、板谷宮吉とともに小樽海運界を二分した藤山要吉。啄木来樽と同 じ年、小樽―南樺太間にいち早く航路を開いて気を吐いていた。4年後には 私財3万円余を投じて、花園公園に公会堂を建てて当局に寄付している。
明治末年の南樺太関係の幹線航路10線のうち、小樽を起点とするもの8線。残る2線は島内だけを連絡する航路だったから、樺太は完全に小樽の後 背地だったといえる。
小樽と樺太の主要港大泊までは400qも離れているので、航海はたっぷ り1日を要した。シケの多い冬季などダイヤはしばしば混乱、お客や荷主を泣かせたものだった。これに対して稚内−大泊は約150qで、ぐっと近い。 こちらの有利は明らかであり、事実、大正の初めごろから稚泊航路を開設、 これを幹線化せよとの声が出ていた。
そして11年秋に宗谷線が開通するという見通しがつくとともに、鉄道省直営の連絡船運航の実現を働きかける動きが活発になる。この年、北海道庁、 樺太庁の長官から鉄道大臣に開航についての上申があり、稚内、大泊の町民有志も期成大会のあと東京まで陳情した。
民間航路との競合、軌道に乗るまでの間に見込まれる赤字などの問題につ いて鉄道省と地元の間で妥協が成り立ち、ようやく「大正12年5月1日ヨ リ稚内大泊間ニ連絡汽船ヲ運航シ旅客、手荷物、小荷物、旅客附随小荷物及 貨物ノ運輸営業ヲ開始ス」という鉄道省告示が出るに至った。開始日を目前 に控えた4月19日のことである。告示の3日後の4月22日には、稚泊航 路の第1船・壱岐丸が函館から稚内に回航されてきて、港の慶祝ム一ドを盛 り上げた。
1、680t、全長86mのこの船は青函航路に就航していたのだが、い ってみれば身代わりであった。稚泊間用にあてられていた元関釜航路の対馬 丸(1,840t)は砕氷設備を施すためにドック入りしていて、当分の間 は壱岐丸が代船運航することになっていた。
ちなみに壱岐丸はもともと対馬丸の僚船であり、下関―釜山間の関釜航路の第1船も務めている。花火の打ち上げ、まん幕と国旗の波に迎えられた同船は、27日に稚内で試乗会、披露式などをすませたあと、翌28日には宗谷海峡を渡って大泊に入港してここでも大歓迎を受けた。 そして5月1日、 午後9時発の上りダイヤの定刻どおり、大泊の町民に送られて稚内に向け出港したのだった。
6月になって砕氷能力を備えた対馬丸がお目見得、壱岐丸と交代している。 このころのダイヤは夏季が稚内発23時30分−大泊着7時30分、大泊発 21時−稚内着5時の隔日運航、冬季は1ヵ月に6往復だった。翌大正13 年7月には青函航路から壱岐丸が転属されることになり、2船により夏季は毎日、冬季は隔日の体制が整えられる。
就航船は後に田村丸(1,480t)、高麗丸(3、030t)などと代 わり、昭和2年に亜庭丸(3、297t)、7年に宗谷丸(3、593t) という新造船が登場した。終戦まで続く亜庭丸・宗谷丸時代が航路の最も発達した時期で、両船合わせて1日の輸送能力は旅客1、544人、貨物1,057tだった。
これらの連絡船はいずれも現在の青函連絡船のように貨車をそのまま積み 込める構造でなかったので、貨物輸送の点で小樽の優位は揺がなかったが、 旅客の面で北辺の人口1万8、000人足らずの港町・稚内は、列島を南北 に貫く鉄路のひとつの重要な節目、とりわけ樺太の玄関口として時代の脚光 を浴びる結果になった。
冬の流氷、夏は海霧などにより事故もしばしばだったが、しだいに海の動 脈として定着していく。料金は、大正12年ごろで稚泊間の3等で2円50銭、2等、1等はそれぞれ3等の2倍、3倍。3等料金は昭和17年に1円引き上げられるまで20年もすえ置かれた。
○鉄道のはなし
1 鉄路は北へ
明治35年(1902)12月7日、稚内市内の量徳寺で官設鉄道速成同盟会の総会が開かれた。小泉清志ら町の有志たちが、集まった住民を前に力説する。「旭川から稚内までの鉄道建設は既定の方針なのに、現在、着工中の名寄までで打ち切りとのうわさもある。稚内まで鉄道を通さないで、何が本道将来の大計か」と。
これが稚内に鉄道が敷設されるまでの最も熱っぽい住民大会だったけれども、現実はぐ〜んときびしく、翌年に旭川―名寄間を完成したところで、工事は打ち切られてしまった。日露戦争中に財政が引き締められたこともあって延びにのび、工事が再開されたのは42年のこと。この間、有志たちは東京への陳情を繰り返すつど、のれんに腕押しのもどかしさを感じていたのだっ た。
再び線路の敷設が始まったとはいえ、一気に北ヘ伸びたのでなく、大正元年(1912)に音威子府、5年に中頓別、7年に浜頓別、9年に鬼志別と路盤が悪くて工事に手間どったこともあって、かなりの牛歩ぶりでようやく稚内へ達した。
「1日午後2時より稚内小学校に於いて鉄道開通大祝賀会開催さる」という 書き出しで、大正11年(1922)11月2日付の北海タイムス(現在の北海道新聞)は、鉄道開通のもようを次のように伝えた。
「午前7時の上りにて歓迎委員は鬼志別迄出張し来賓を迎へ、12時55分 の列車にて(稚内)駅に着するや各役員の出迎へ小学生の旗行列をなし開町以来の盛況を呈し自動車、馬車に分乗して(祝賀)会場に至る」会場に集まった来賓ら600人。ほかに、汽車を見ようとして駅の周辺には、万という住民が群がった。祝賀会の進行に合わせて3発の号砲が宗谷の海にひびき渡 り、慶祝ムードをあおったのだった。
そのころ、稚内から樺太の大泊までは夏の間だけ、月に2往復する船便はあ ったが、冬は小樽から樺太へ渡るしかなかった。日本列島を北から南へ連絡する縦貫鉄道の構想のうち、最も整備が遅れていたのが宗谷海峡だったが、 宗谷線が開通したことで、北海道と樺太を結ぶ連絡船は現実のものとなった。
2 雨にぬれずに連絡船ヘ
昭和11年に完成したドーム式防波堤の港内側は、岸壁として3千トン級の稚泊連絡船が接岸できるようになり、ドームの内部に宗谷線の終着だった稚内駅から延長した鉄道レールが敷かれ、新たに稚内桟橋駅が設けられた。 タイル張りの2階建ての桟橋駅が開業したのは昭和13年11月11日のこ とである。
航路が開かれた当時は現在の南駅が終着だったので、1.6q歩かされた うえで乗降場からはしけで本船へ。ついで稚内港駅の開駅ではしけ乗降場まで鉄道が延びて歩く手間が省けたものの、本船が沖がかりしていたことに変わりない。この桟橋駅の開業で、初めてホームで降りた客が2階から接岸中の本船にタラップで乗船し、海陸をはしけなしで直結することができた。
3 北見線と宗谷線
大正の末に音威子府から幌延経由の鉄道が稚内まで延長され、最初は北見線を名乗ったけれとも、天塩国を通るのに北見ではどうもというわけで、間 もなく宗谷線と改められた。一足先に完成した旧宗谷線は北見線と改称、名前が入れ替ることになる。 ちなみに北見線が天北線と改められたのは、戦後もしばらくたった昭和3 6年だった。
○宗谷地方暴風雪(送電線鉄塔等に被害、停電5日間)
昭和47年(1972)12月1日、昼過ぎから発達した低気圧の影響で道北一帯は、湿った大雪にみまわれた。この大雪で、送電線があちこちで寸断され、稚内地方では1日午後から6日未明までの、111時間にわたって停電が続いた。
このため、ガソリンスタンドの電動ボンプが作動せず、灯油の供給に支障が でたり、家庭用電化製品がまったく使用できず、唯一の照明手段のロ一ソクも底をつきかけるなど、市民生活に大きな支障をきたした。
この停電現場の大半は、山の中で電線にロ一ル状に着いた湿雪の重みで60基の鉄塔が倒れたために起こり、復旧が当初の予想より大幅に遅れた。
復旧の遅れで、最も被害の大きかったのは、市内の水産加工業者と酪農業者で、水産加工業者のなかには、毎日、電気のある紋別市まで、原料を運搬 して急場をしのいだほどであった。北海道電力の調べでは、被害額は10億 円に達し、停電世帯は道北を中心に10万世帯にのぼった。
稚内の長期停電の原因としては、稚内への送電回線が1ルートしかなかったことがあげられ、北海道電力はその対策として、市内にガスタービン発電所を建設した。
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