宗谷知ってるつもり
○大陸と陸続きだった稚内

 人類が地球上に現れたのは、およそ200万年前のことで、それから地球は4回の氷期を迎えました。
 稚内地方に人が現れたのは、その最後の氷期「ヴュルム(ウルム)氷期」 の終わり、今からおよそl万年前のことです。
 当時は、まだ北海道と樺太が陵続きで、マンモス象や大ツノ鹿野牛が北方 から日本列島に渡ってきた時代で、これを追って人も渡ってきたと考えられています。

○宗谷海峡の発見

 樺太と北海道の間の海、すなわち宗谷海峡を発見したのは、フランスの探検家、ラ・ペルーズでした。1787年(江戸時代中期)、時のフランス王 ルイ14世の命を受けて来航したラ・ペルーズは、利尻島の美しさに感銘を受け「ラングル峰」と名付け、宗谷海峡を「ラ・ペルーズ海峡」と名付けま した。
 ちなみに、稚内の宗谷岬とサハリンの南端クリリオン岬までは約43qあり、最近、この間を橋で結ぼうという夢一杯の構想も持ち上がっています。
○北 前 船

 江戸末期から明治時代にかけて、天下の台所と呼ばれた大阪と、東北・北 海道地方との間では北前船が盛んに往来していました。北海道からはニシン、 昆布などの海産物が積み込まれており、特に宗谷では鮭や干した鱈、卜ド皮、熊の肝、イリコなどが北前船で運ばれていました。
 関西ではいま昆布は食生活と切っても切り離せない存在で、京都では鰊そばが名物になつていますが、逆に北海道では本州から運ばれた塩を使つて塩引きにした鮭が特産品となるなど当時の北前船が食文化の発達に果した役割も大きかたといえます。
 まだ、北前船は珍しい産物を運んで来るばかりではなく文化の伝播にも大きな役割を果しました。松前追分(江差追分)も北前船の男たちによつて港々に伝えられ、日本国中で歌われるようになりました。
○藍を育てたニシン

 江戸時代よりニシンは、鰯よりりも優れた肥料とされ、北前船により近畿や瀬戸内方面へと大量に運ばれていました。
本州では米や菜種の肥料として利用され、阿波(現在の徳島)の藍を育てるなど遠く離れた地で、ニシンは農業にも大きく貢献したいたのです。
○宗谷場所から始まつた水産業

 江戸時代に宗谷場所が開かれてからというもの、稚内は漁業が産業・経済 の発展の中心でした。貞享2年(1685)に宗谷場所が開かれ、このころ場所の運営は運上金(いまの税金)を納めた商人に請け負わせていました。
 請負人は、生活物資や漁具などを用意して、アイヌの人たちを労働力に春のニシン漁や秋のサケ漁などを行い、ナマコやニシンを中心に卜ドやアザラ シの皮、ときには熊の肝臓などを取り引きしていました。
 宗谷場所の請負人・村山伝兵衛という人物は、ナマコをとる道具「八尺」 を考案して、アイヌの人々に教えたと言われています。八尺はいまでもナマコ漁やホタテ漁に使われています。
○ニシンは魚にあらず

 かつてニシンは“魚に非ず”といわれ「鯡」と書き、江戸時代、米がとれなかつた蝦夷地支配の松前藩は、二シンを“松前の米”として扱い、単位も 米と同じ“石”を用いていたほどでした。
 稚内の沿岸は、早春産卵のための大群で押し寄せるニシンのために海水が 真っ白に変わつたほどです。これを群来と呼びます。田畑の肥料としても本 州から需要は特別多く、北前船で大量に運ばれていました。北海道のニシン漁獲量は、明冶30年(1897)に97万5千卜ンという最高記録が残されています。
(この年の宗谷管内漁獲量は21万5千卜ン)
 その後、ニシンの回遊は南から次第に不規則になり徐々に衰退しましたが、終戦により食料が危機に瀕したときにもニシンは農業のための肥料として大量に必要とされ、また国民の貴重な蛋白資源としての需要も高まり、“捕れ るだけ捕れ”といつた時代を迎えました。ニシン漁は昭和28年(1953)の最後の群来まで、稚内経済の大黒柱だつたのです。

○見捨てられていた昆布

 松前藩が宗谷場所を設置した貞享2年(1685)より40年も前の寛永の頃から道南では盛んに昆布漁が行われていましたが、宗谷ではアイヌの人々が時化で打ち寄せられた昆布を食べていたにすぎませんでした。
 宗谷地方で昆布が製品化されたのは、明冶に入ってからでした。明冶23年(1890)末富伊八が、浜に打ち寄せられた昆布が放置され腐っているのを見て、昆布を乾燥させ神戸に送ることを思いつき、宗谷一円に大きな影響をもたらしました。同じ頃、いまの富磯の昆布に目を付けた山本彦冶も製品化に乗り出し明冶27年には採取者4〜5百人、製品750卜ンをあげるまでになりました。
 また、杉本泰翁がノシヤップに昆布からヨードを生産する工場を設け、軍の需要にあたりました。
 当時稚内産昆布は、島田昆布といわれ、品質はあまり良いものとされていませんでしたが、現在のような良質の昆布が採れるようになったのは大正9年(1920)稚内港築港工事の際、利尻島鷲泊から運ばれてきた岩石に付着していた利尻昆布の胞子が港内で育ち、付近一帯に広がったためといわれ ています。
○長崎名物(イリコ)

 ナマコを加工したイリコは、宗谷のものが品質一といわれ、北前船で運ばれ、当時長崎俵物と呼ばれて珍重されいました。長崎俵物とは、当時鎖国中の日本が唯一貿易港として開いたいた長崎から外国ヘと輸出されていた品物のことで、イリコは特に中国に輸出されていました。
○初めて越冬を試みた人

 江戸時代末期、幕府は近海に出没するロシア船に脅威を感じ、北方警備の重要性を認識し始めました。そして天明5年(1785)幕府の勘定奉行が中心となり、新進気鋭の「蝦夷地調査隊」が組織され、ロシア船の動向や金銀などの産出状況、密貿湯についての調査を命じられました。
 この調査隊隣の中に幕府の役人として初めて越冬を試みた人物、庵原弥六がいました。当時まだ越冬に備える手だては何もなく、弥六は過酷な自然の前に書を迎えることなく息を引き取りました。
 実際に大きく立ちはだかった敵は、ロシアの軍団ではなく、厳しい自然環境だつたというわけです。
○初めて宗谷に来た女性

 江戸時代、蝦夷地を統治していた松前藩は、女性を乗せた船が神威岬(積丹半島突端)沖を通ると船が沈むというアイヌの書い伝えを信じて、女性が神威岬よりも北上することを堅く禁じていました。
 安政3年(1856)、その掟を廃止するというお達しが出され、箱館奉行のお役人・梨本弥五郎が妻と一緒に神威岬沖を無事通過し、宗谷に赴任しました。この勇気ある弥五郎夫妻の行動は、この後の女性の航海を自由にしたばかりでなく、北方開発の引き金にもなり神威岬以北の繁栄へとつながりました。
○ストーブ編

 弥五郎は、妻を伴っての宗谷行きを決意した時、暖房の設備に不安を感じ英国船を訪ねた時に見たス卜−ブの原型クワヘヒルをまねて造ることを思いいつきました。
 弥五郎は函館の職人に命じてクワヘヒルをつくらせることにしたのですが、 慣れない作業で失敗が続き、なかなか送られてきませんでした。
 そこで宗谷で腕の立つ鍛冶屋として名を売つていた景蔵というアイヌ人に鉄製で試作させたところ、函館でつくる予定だった鋳物の1/3の費用で完成したのです。
 こうして宗谷はス卜−ブ国産・実用化の発祥の地となり、ストーブは全道で重宝されるようになりました。
○間宮林蔵(海峡を越えた初の日本人)

 カラフト探検といえば、なんといっても間宮林蔵の名を忘れることはできないカラ フトがアジア大隆と海で隔てられたことを最初に確認したのが、間宮林蔵であることは、先きに触れた通りである。
 彼が松田伝十郎とともに北蝦夷地(つまりカラフト)調査に向ったのは文化五年(1808)のことである。その時の調査に不満足だった林蔵は、カラフト西海岸の実情を確認するため、この年再度単身でカラフトに渡り、調査旅行を続けた。
 林蔵はカラフトと大陸の間に海峡があることを発見したばかりでなく、翌六年にば対岸に渡りこの地方の小都デレンを訪れた。つまり、林蔵は海峡の発見者であるとともに、原地民は別として初めて同海峡を渡った日本人でもあったわけである。
 この林蔵の努力によって、カラフ卜が島であることが確認されたが、同時にもう一つの懸案であったカラフトとサハリンとは別ものか、あるいは同一の島かーという問題にもケリがっいた。いうまでもなく、カラフトとサハリンは同一の島だったのである。
 林蔵は翌七年に帰国すると、調査結果をまとめた「北蝦夷島七図」を幕府に提出したが、これは林蔵自身による実測図であり、カラフトの形態、海岸線などがかなり正確に描かれている。これによって、北蝦夷つまりカラフトが、アジア大陸から独立した一つの島であることが、世に広く認められることになったのである。

 もっとも地図としてはこの前年の文化六年に、幕府天文方、高橋景保によって作成された「日本辺界略図」が、本州・四国・九州・琉球から蝦夷本島・千島とともに北蝦夷(カラフト)を一つの島として描いている。これは景保が、現地から送られてきた林蔵の報告を聞き、カラフトとサハリンを同一の島と判断したものだが、 林蔵の調査ぶりをうかがわせる話である。
 こうした北方地域の解明には、後期において日本の諸家が最大の役割をなしたのであるが、このように日本人をして北辺に注意を向けさせた原因は、ロシアの東方 進出による脅威にほかならなかった。

 すなわちロシアは文化三年(1806)に、海軍大尉フォストフと同じく少尉ダビドフを東方に派遣して、まずカラフトを侵略させた。彼らはカラフトのオフイトマリに来て原住民一人を捕え、ここからクシュンコタンに至ったが、松前藩の役人は既に引き揚げてしまっていたので、番人たちを捕え、米、酒、たばこなどを強奪し、運上家、倉庫、弁天社などを焼いて引き揚げた。次いで翌年彼ら両人は、今度は千島のエトロフ島に現れ、番人を捕えて米、塩などを奪い、さらにシャナの会所を襲って乱暴するなどの事件があった。また文化八年(1811)には、ロシア人ゴローニンの逮捕、松前への移送、翌九年には高田屋嘉兵衛のロシアへの連行と、 蝦夷地の舞台は大きく展開するに至るのである。
○日本で最初のコーヒーは宗谷で

 我が国で初めて「コーヒー」を口にしたのが、宗谷の防人(さきもり)と 言われています。
 飢えと寒さと水腫症の三重苦の中にあった彼らに、幕府は、はるばる宗谷 の地に、舶来の「コーヒー」を届けさせました。
 当時、疫病に効果があると信じて疑わなかった藩士たちは、薬用として毎日「コーヒー」を愛飲、特に冬の厳しい朝には何杯も飲んだといいます。

 コ−ヒー発見の二大伝説によると、6世紀にエチオピアの羊飼いによって発見されたという説と、13世紀ごろアラビアのオマルという僧侶によって発見されたという二説があります。その後、コーヒーはフランスあたりに長生きの妙薬として飲まれ、全ヨ一ロッパに広がっていったと考えられます。

 我が国で初めての喫茶店「可否茶館」が開業したのが明治21年(1888)といわれていますから、安政年間(1854〜1859)この地に着任 した防人たちが、日本で最初にコーヒーを飲んだ人々であると推察されます。
 彼等が飲んだ夜明けのコーヒーはどんな味だったのか?
 ここに、『可否物語』………。

○初めてのストーブ(クワヘヒル)

 蝦夷地警備を命じられた箱館奉行は、それまで気候のいい時期だけ在勤と呼ばれる兵士を宗谷、北見、根室、千島などに配置していたのを辞め、冬期間も勤務させることにした。
 ここで問題になったのが夫にしたがい任地におもむく婦女が、はたして厳寒の地で越冬できるか、という心配だった。当時は危険な火を入れ物にいれて暖を取るなど、考えもおよばないことだったから、箱館奉行は防寒用の衣服を十分用意するよう厳命を下しただけ、というのも当然であったろう。
 ここに宗谷詰調役を命じられた梨本禰五郎は、何としても同伴する妻を厳寒から守らねばならぬと、「クワへヒル」なる暖房用具の持ち込みを思い立ち、奉行所に上申した。梨本は交友関係にあった箱館奉行雇いの武田斐三郎が、箱館港に来航した外国艦に招かれて乗艦した際、クワへヒルなる暖房器具を載せているのを見て興味を持ち、その造り方や利用法などを教えられていたのだった。
 ちなみに梨本は「女人禁制の海」で、妻を連れて赴任の途中、神威岬にさしかかるや、岬に向かい、弾丸を撃ちこんだ人物であり、武田は後に五稜郭の設計をした人物である。
 奉行は即座にクワへヒルの製造、持ち込みを許可した。火を人れ物にいれて寒さを防ぐなど想像もつかないが、それに代わる有効な手段がなかったから、本人がそこまで言うなら、と判断したのだろう。喜んだ梨本は武田とともに箱館港に停泊しているイギリス艦を訪れ、クワへヒルの実物を見て設計図を書き上げたのだった。
 これによればクワへヒルの構造はごく簡単だが、鋳物製なので総重量は85sにもおよび、1個造るにも時間と手間がかなりかかることを証明している。
 こうして梨本は準備を整えて妻や同僚たちとともに出立し、宗谷へ赴任するとすぐ、クワへヒルの製造に取りかかったが、作業は思うように進まず、ついに陽の目を見ずに終わってしまう。
 冬が近づき、あせった梨本はやむなく土地のアイヌの景蔵に製造を依頼した。器用な景蔵は設計図を見ながら鉄を焼いて打ち、それを組み合わせて見事なクワへヒルを造り上げたのだった。箱館で設計したものと見た目は同じだが、重さははるかに軽く、実用的だった。
 こうして国産ストーブ第1号は、アイヌの手によって誕生したのだった。たまたま同僚、大塚良輔の妻が出産を間近に控えていたので、その部屋に取り付けられた。クワへヒルに火が放たれると、赤い炎が音をたてて燃えさかり、暖かさが部屋中に充満し、人々は「これは暖かい!」と言って歓喜の声を張り上げた。
 梨本は景蔵の努力に感謝し、さらに1個、1個とクワへヒルを製造していき、宗谷詰め役人の家々はもとより、オホーツク沿岸に点在する警備番屋にも逐次、設置していった。こうして景蔵はストーブ造りの先覚者となった。
 間もなく箱館でも製造、使用されだし、寒地における暖房用具は一躍、脚光を浴びることになる。
 やがて明治維新になり、札幌では明治6年(1873)、開拓使御雇宿舎が最初に使用している。記録に残るものでは明治8年の札幌農学校寄宿舎。
 一般に普及しだしたのは明治10年代にはいってからだ。
 こうして初めは暖房用だったストーブも、しだいに煮炊きのできるかまど用へと変遷していく。
 幕府役人の警備赴任が、あの女人禁制の海によって相変わらず単身赴任がつづいていたなら、ストーブの歴史はもっと遅滞しつづけていただろうし、栄光の国産第1号もまた、違った人物によってなされたかもしれない。
○鯨工場

    ♪ドンとドンと波のり越えて
     一挺二挺三挺 八挺艪で飛ばしゃ
     サッとあがった 鯨の潮の
     潮のあちらで 朝日はおどる♪

 大正14年(1925)、当時一世を風靡した歌手・藤原義江が歌う、利尻島出身の時雨音羽作詞の「出船の港」の一節です。
 この歌からも、当時、鯨がたくさん回遊してきた様子がうかがえます。
 宗谷近海は、その昔鯨の回遊が多く、明治中頃にはウエンナイ(現在の潮見1丁目辺り)に鯨の塩蔵工場が建てられた程です。
 また、これは日本より先に外国が眼をつけたらしく、世界名地の捕鯨船が宗谷近海にやって来たという記録が残されています。
○バター生産の草分け

 慶応大争の創設者として知られる福沢諭吉の娘婿福沢桃介が、先に開設されていた増幌地区の農場を買い受け明治39年(1906)に福沢農場が誕生しました。この農場は当時、道北随一の大きさを誇り酪農の草分的存在でした。
 牧場内にはアメリカの農場をモデルにしたログハウスが建てられ客馬車も所有していたほとです。
 明治40年代には、バターの製造を始め「紅葉印バター」として東京方面に出荷し、全国に知られるようになりました。


○焼 竹 輪

 沖合底引き漁業の隆盛につれて、著しい発展をみせ、戦後の一時期北海道水産加工界の王座に君臨しだのが“焼竹輪≠ナす。歯ごたえのある弾力と魚肉の焦げ茶色が、食糧事精の悪い晴期に大いに受け、全国各地に出荷されていました。政府の援助もあり、昭和24年(1949)には22工場が操業し、生産量は40万箱を数えました。
 焼きたて竹輪は、このころの稚内の子供たちにとつて最高のおやつでした。
 昭和30年経済が安定してきた頃から、この焼竹輪も需悪が下降し始めました。しかし皮肉なことにこの時期原料となるスケ卜ウタラは豊漁続きで、稚内港に水撮げされたスケウワラのほとんとが製品加工されないままスリミとして道南本州方面に流出し蒲鉾や竹輪の製造に拍車をかけることになり ました。
○稚内名物勇知イモ

 昭和の初めに稚内特産としての地位を確立したものに、勇知イモがあります。
 稲作圏外にあつた稚内にとって、ジヤガイモはぴったりでした。道立農業試験場の初代場長・小松勇が農林1号と2号で研究・改良を重ね、寒さに強く収量が多い改良種として勇知イモを開発しました。勇知イモは、厳しい気候が幸いしてか、農業にがける多くの人々の英知の賜物か、大変美味しいと評判になり、東京・大阪方面の一流ホテルや高級料亭で重宝されました。