Media

-新しいメディアに可能性はあるか?-

1996.1.14
Nao


「リゾーム[根茎]には始まりも終点もない、いつも中間、もののあいだ、 存在のあいだ、間奏曲なのだ。樹木は血統であるが、リゾームは同盟であり、 もっぱら同盟に属する。樹木は動詞 "etre" (である)を押しつけるが、 リゾームは接続詞 "et...et...et..." (と…と…と…)を生地としている。」
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「千のプラトー」
宇野邦一他訳/河出書房新社


インターネットブームへの疑問

 インターネット/WWW(あなたが今まさにアクセスしている!)は、1993年にアメリカで誕生したクリントン政権の「情報スーパーハイウェイ」の構想が日本にも紹介され、「マルチメディア」が広く注目されたときですら、誰もが予想をしなかったような話題、あるいはブームと、それを追いかけるような急速な成長を遂げている。

 しかしながら、このインターネット/WWWに代表される新しいタイプのメディア、すなわち「ネットワークメディア」について語られていることは、そのほとんどがブームに特有の、出典や根拠のはっきりしない、期待と噂にもっともらしいニュースがくっついただけの「空騒ぎ」になってしまっているのではないだろうか。

 今、この新しいメディアについて論じている人々のうち何人が実際に日常的にアクセスをしているのだろうか?あるいは、もし仮にアクセスをしていたとしても、逆に、そこで自ら情報を発信したり、そこで出会った人と実際にコミュニケーションをした体験があるのだろうか?

 せいぜい、これまで新聞やカタログで見ていた情報を、紙ではなくディスプレイの上に置き換えるものとして見ているにすぎないのではないだろうか?

 確かに、ネットワークメディアにおいても、新聞社やテレビなど現在のマスメディアは魅力的なコンテンツプロバイダーとして残るだろうし、企業も自らの情報を生活者に効率的に届ける手段として、ますます積極的に活用するであろう。

 しかしながら、ネットワークメディアをこれまでのマスメディアの延長として見ている限り、もっと大切な可能性を論じることができないのではないだろうか?

近代国家とマスメディア

 そもそも、マスメディアとは、既存の「近代国家」という共同体と密接に関わるものであった。

 新聞や雑誌は、その誕生においては、ごく少数の、同じ問題意識を持つ人々、同じ地域共同体に属する人々の間で流通するものであったが、人々の共同幻想が「近代国家」へと転化していく過程とともに、国家という単位の共同体においてある程度共通化した性格を持つようになった。

 言い方を換えれば、たとえば「日本」ならば「日本人として」という前提での興味や関心、建て前や本音、理念や噂話を掲載したものが多くの確実な購読者を得ることとなり、ビジネスとしても成功するようになった。

 この傾向は、その施設の建設・維持や番組の制作に大きなコストがかかり、そもそも許認可事業としてごく少数の人々しか情報を発信することのできないテレビにおいてはより顕著になる。

 たとえば日本においては、日本という限られた国家共同体のパイの中で、いかに多くの人に番組を見てもらうかを競う同じビジネスルールの中で、ビジネスが効率化し、洗練化するとともに、番組の制作者は、日本人の共同幻想のニーズに合致し、シーズを掘り起こすような情報を流通させ、その情報を通してさらにその共同幻想を掻き立てるようになってきた。

 「外部」のない閉じた「内部」の中で、それぞれの国家共同体ごとに、その単位を維持させるような共同幻想の循環が始まるわけである。

 この傾向は日本に限った話ではなく、その中央集権の度合いに差があるとはいえ、資本主義と情報化が高度化した国家においては共通して見られる現象といえよう。日本のような大新聞がない国でも、そこで流れているニュースは、異なる名前の新聞でも、同じ見出しと同じ写真であることがしばしばである。同じ通信社の配信記事を使っているからである。

 しかしながら、人々の共同幻想は、「近代国家」という単位にとどまり続けるものなのだろうか?既存の境界の「外部」に出ようとする意識は生まれないのだろうか?

 マスメディアではできなかったことが、新しいタイプのメディアにおいて拓かれる可能性はないのだろうか?

新しいメディアに可能性はあるか

 「近代国家」と密接に関わり、そこにおける共同幻想を流通させ、再生産する機能を果たしてきたマスメディアの影響下に無自覚的に身を置いていた我々に対して、 ネットワークメディアは、新しい可能性をもたらすかもしれない。

 なぜならば、このネットワークメディアは、

  1. 人々のコミュニケーションの距離を短くし、世界規模でのコミュニケーションを可能にする

  2. 情報を発信するだけでなく、それをもとに様々な反応を持つ人々との双方向のコミュニケーションを可能にする

  3. 情報そのものも一つ一つのパッケージで閉じているのではなく、他の情報との関係性を持たせたハイパーテキスト(まさにリゾーム!)で伝えることができる

  4. 上記の機能を、低コストで実現することができる

からである。

 この特性を活用すれば、国家共同体の境界を超えて、グローバルなスケールで、同じ興味や関心に基づいて情報を共有しながら、物事を感じたり、考えたり、行動したりする、といったことができないのだろうか?

 「同じ民族として」「同じ国家の一員として」「同じ企業の一員として」といった既存の境界の中での自己同一性に自らを限定するツリー(樹木)型の在り方ではなく、境界を超えた、異なる共同体とのリゾーム(根茎)型の関係性の中で、新しい感覚や思考を生み出し、共有していくこと、それを通して多層的な共同体が自在に生成変化していくようなことを、ネットワークメディアを舞台として展開することはできないだろうか?

 「近代国家」という境界を超えた情報の共有を容易にするネットワークメディアは、NGOのように国家の利害を超えたメッセージの共有にこそ有効であろう。
 すでにGreenpeaceなどいくつかのNGOは積極的にWWWの活用を始めている。

 コンテンツビジネスとしては、同じ国家共同体の中でのニッチだけでなく、そのニッチがグローバルレベルではマスとなる、いわゆる「世界配給」の発想に基づいたビジネスを活性化するであろう。

 ボーダーレスな活動をしている企業も、それぞれの国を拠点とした「現地主義」だけでなく、この国家を横断して共通した特性を持つ人々にフィットしたマーケティングや企業コミュニケーション、そして経営を進める鍵となるであろう。

 ネットワークメディアにおいて論じるべきなのは、そして我々が試みるべきなのは、近代国家の共同体の幻想を超えた、リゾーム型のコミュニケーションなのではないだろうか?

 そして、もし我々がこのネットワークメディアを、マスメディアの延長としてとらえたままだとすれば、それは新しい外部ではなく、我々自身が食傷気味の共同幻想の内部をそのまま投影した世界が広がるだろう。

 我々自身の内部で、今ここにある内部を超えようと試み、外部と関係を持とうとしないかぎり、たとえばインターネットがどれだけ普及しても、そこにおいて身内の退屈なおしゃべりが続けられるだけで終わってしまい、我々に何ももたらさないであろう。


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