Cahier I

1997.11.15
Nao


前提

私たちの外に客観的な真理はない。
私たちの感覚(見たり聞いたり感じたりするもの)は、私たちの外にある客観的な真理が感覚にやってくる、というのは、私たちの勝手な思い込み、すなわち錯覚である。

私たちは、すでに私たちが体験し、記号化したものの蓄積である記憶や、記号化したものを関係づけ、そこから見出した一般法則と照合して、「これは○○だ。」と結びつける。これが認識。
この認識というものは、その前に、たとえば、それまでの自分の記憶や、それまで自分が行ってきた関係づけのアプローチや、それまで自分が信じてきた法則、といったものがまず先にあって、そこからはじめて形成される。

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私たちは臆病、あるいは怠惰。だから、いつもいつも、未知のものに接して、不安になったり、それが何かを探ったりするのは避けたい。だから、人間は、未知のものを「不条理」と名づけ、まずそれを拒否する。

そして、拒否しないものは、「これ」と、「○○」とか「☆☆」とか「□□」とかという記号と結びつけ、さっさと処理する。




本論

ここで、「これ」を「○○」と結びつけた人、「☆☆」と結びつけた人、「□□」と結びつけた人がいたとする。

それぞれが、自分が認識した「○○」「☆☆」「□□」を真理だと思い、それに基づいて判断したり、行動したりしたとする。
そうすると、互いに同じもののつもりの「これ」をめぐって、違った判断や行動をする。

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判断や行動が一致しないと、私たちは、未知のものに接したときとよく似た不安や、めんどうさを感じる。なぜなら、私たちは、自分と同質の人間が集まっている共同体の方が安全で、安心ができて、気楽に自分らしくいられる、と思うものだから。
そこから、二つの方向にしばしば行く。

  1. (たとえば「○○」と結びつけた人に何らかの権威や尊敬があった場合)自分の 中の「☆☆」や「□□」を抑圧して、「○○」に賛成する。

  2. 「○○」も「☆☆」も「□□」も、どれも真理だ、と肯定する。

ここで、1. は、すっかりおなじみの「抑圧者=被抑圧者」の図式を生む。

それを解決するのが2. だが、実はこれにも問題がある。なぜなら、「どれも真理」というのは、「何でもあり」ということとなり、「それじゃ、俺は人殺しが正しいと思う」といった、あらゆる真理が生まれることとなる。
なんでも真理、ならば、人間は、自らにとって心地よい、自らを温存する真理しか創らなくなり、それによって「勝手な真理」が私たちを互いに傷つけあったり、自らの「勝手な真理」が持っている毒の部分が、閉鎖された真理の篭の中で懸命につじつまを合わせようとし、それによってかえってその毒に支配されてしまったりする。

いずれも「客観的な真理」があり、世界が「条理」だ、という間違った前提から、 そもそも生まれた事態である。

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しかし、それじゃ、「客観的な真理」とか「条理」とかを否定して生きればいいじゃ ない、ということになるが、物事はそう簡単にはいかない。

なぜなら、私たちは、カオスの世界や、「不条理」の世界を、そのままに生きることはできないからである。

なぜなら、私たちの話すことや身振り、行動は、つねに「多」カオスの世界の可能性の中からの跳躍で選び取られた「一」だからである。

なぜなら、私たちの話すことや身振り、行動は、つねに純粋に可能的な「多」そのものであるところのカオスの世界から、ある種の跳躍によって選び取られた「一」だからである。

ここでこうして書いている私自身も、すでに文字を使い、言葉を使い、カオスの世界を「一」に、「同一性」に変えることに、現にこうして加担している。


模索中

とするならば、むしろ、かような「真理」「条理」「同一性」をそれぞれ求める私たちが、カオスの世界にあると思われるこの世界の動因(それはしばしば、目の前に現前する他者)を受け取って、その「真理」をしなやかに変えながら、互いに活性化できるような「真理」を発見していくことはできないだろうか?

そのために、それぞれが、自らの「真理」のバリアの中にぬくぬくとしているのではなく、自らの中のあらゆる感覚や思考を解放して、そのバリアの壁際まで行き、それを突き抜け、新しい在り方を発見することはできないのだろうか?

自らの「真理」が逆流して生みだした、前提条件や意図、先入観といったものなんかに捕らわれずに、目の前にいる「他者」と、どこまで出会うことができるだろうか?



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