Cahier II

1997.11.18
Nao


 昨日(11月17日)に起ったエジプトの事件に悲しみを感じる。

 今回の犯行グループについて、あるいはその背景となるイスラム原理主義について私があまりに無知であることは認めるとしても、仮にそこにいかなる切実が理由があったとしても、私はテロリズムには反対する。

 安易に普遍的な「人間性」というものを信じるわけにはいかないことはわかっているつもりだが、とはいえ、「人が人を殺すこと」に対して、それを拒絶する気持ちや、それに抵抗する気持ちが私たちの中にあると信じたい。

 とすれば、このような拒絶や抵抗に逆らって、それを乗り越えて、あえて今回のような行動を、しばしば私たちが選択するのはなぜだろうか?しかも、刹那的な感情にとらわれてではなく、周到な計画やそれに基づいた継続的な活動を可能にする、きわめて体系だった冷静な理性に基づいて・・・。

 おそらくその選択を可能にしているのは、このような拒絶や抵抗という日常的な感覚を否定する、「超越的なもの」ではないだろうか?

 この種のテロリズムは特定のグループに固有の特殊な問題ではなく、その問題の本質は、むしろ私たちに共通する過ち−すなわち、「超越的なもの」をめぐる関わり方の過ちにあるのではないだろうか?

 ここで私たちは、「超越的なもの」をめぐる迷い込みがちな過ちと、その中でともすれば見失われがちな可能性とを、きちんと見極める必要があるのではないだろうか?




 「超越的なもの」を不注意に取り扱い、それと性急に関わることを、私たちはそろそろやめなければならない。

 私たちはあるときには、「超越的なもの」を、あまりに乱暴に、性急に否定してしまう。

 恣意的なものにすぎない「枠組み」の中で、記号の体系が織りなす記憶や私たちが信じる一般的な法則といったものと照合し、そこから真偽を判断してしまう人々、再認のシステムや科学、啓蒙の言説を振り回して、「神の死」を喧伝している人々の動機を、私たちは見なければならないだろう。

「神は死んだ、神は人となった、人は神となった。ニーチェは彼の先達とは異なり、このような死を信じない。彼はこの十字架に賭けない。つまり、彼はこの死をそれ自体でその意味をもつような事件とは考えない。神の死は、キリストを横領し殺すことのできる力〔勢力〕の数と同じだけの意味をもつ。だがまさしくわれわれはなお、この死をさらに高い段階にまで高め、それを外見的で抽象的な死以外のものにしてくれるような力や権力を待ち望んでいる。いっさいのロマン主義、いっさいの弁証法に反対して、ニーチェは神の死に胡散臭いまなざしを向ける。人々が或る場合には神と人間との宥和に、或る場合には人間による神の代理に敬意を表していた無邪気な信頼の時代は、ニーチェとともに終了する。」
(G. ドゥルーズ 『ニーチェと哲学』 国文社 p.226-227)

 「超越的なもの」に取って代わる人間、というモチーフは、私たちが絶対と感じるもの、一般と感じるものの相対性、恣意性を隠蔽し、自らの「枠組み」を温存させる権力構造を確立する。こうして私たちは過ちに迷い込んでしまう。

 「超越的なもの」とは、そもそも、この権力構造を揺さぶり、私たちが日常的に捕らわれている「枠組み」の外に向かうことを勇気づけるもの、あるいは「希望」であり、そこにこそ可能性があるのではないだろうか?



「存在へ私たちを徹底的に捧げることが、実存本来の在り方なのでありますが、神とはこの私を捧げる当の存在なのです。私がこの世で、私の生涯を賭するまで帰依するところのものは、神と関係したものであります。ただしそれは、信仰された神の意志の制約と、たえざる吟味のもとにおいてであります。と申しますのは、盲目的な帰依においては、人間は単に事実的な、究明されることなくして、彼の上に加えられているところの権力への無反省に仕え、また(見ること、問うこと、考えることが足らない結果)おそらくは過って《悪魔》に仕えることがあるからです。

 この世界において実存するもの−神への帰依にとって不可避的な媒介物−へ帰依することにおいて自己存在(自己であること)が生まれます。この自己存在というものは、それが帰依する当のもののうちにあって、同時に自己を主張するものであります。しかしあらゆる現存在が、家族・国民・職業・国家などの実在のうちへ、世界のうちへ、溶かしこまれ、その後この世界の実在が無力なものとなるならば、無の絶望はただ、あらゆる規定された世界存在に対してもなお、ただ神の前に立ち、神から出るところの決定的な自己主張が貫徹されたということによってのみ、征服されるのであります。世界への帰依ではなくて、神への帰依によって、この自己存在それ自身が捧げられ、そしてこの世においてそれを主張する自由として受け取られるのであります。」
(ヤスパース 『哲学入門』 新潮社版 p.108)

 「超越的なもの」は、「あらゆる現存在が、家族・国民・職業・国家などの実在のうちへ、世界のうちへ、溶かしこまれ、その後この世界の実在が無力なものとなる」権力構造と、その中で私たちが捕らわれている「枠組み」の中にいる私たちを、「無の絶望」から自己存在へと導くものである。

 しかしながらその一方で、ここでヤスパースが述べているように、私たちはしばしば、今度はあまりに乱暴に、性急に、「超越的なもの」を肯定してしまい、それによって再び過ちに迷い込んでしまう。

 「盲目的な帰依」は、この世界の現実を構成する、純粋多様であるところの関係性から私たちを自身を切り離し、それによって「超越的なもの」を性急に否定している人々と同じ問題−すなわち、「単に事実的な、究明されることなくして、彼の上に加えられているところの権力」を温存し、その結果、「過って《悪魔》に仕えること」を引き起こす。ちょうど今回のテロリズムのように。




 このように、「超越的なもの」を性急に肯定する私たちも、性急に否定する私たちも、私たちが身を置いている「枠組み」を温存させようとし、それと表裏一体の関係にある権力構造の維持を自己目的化させてしまう。そして、そこに起因する錯誤が生まれる。

 そしてこのような錯誤は、皮肉にも、しばしば非常に見事に理性を駆使しながら、自らを強化し、支配を広げ、暴走してしまう。

 私たちは、真に闘うべき敵を見間違えてはならない。


INDEX

Copyright: Nao and Noelle
Comments and Questions: web master