Cahier III

1997.12.15
Nao


たとえば、「それはAである」「それはAを表している」といった思考でとらえられるような、一つの「役割」「定位置」を持った「それ」の「存在」は、<本来的>ではない。

「それ」にはそもそも、あらかじめ与えられた「役割」や「定位置」がなく、それがあると感じるのは、私たちがずっと慣れ親しんできた「習慣」や、ある種の権威によってその妥当性の裏付けを確認しながら、判断の前提として受け入れている「法則」に基づいて、「それ」とAとを「=」で結びつけるから。


 一般性は、類似の質的レヴェルと等価の量的レヴェルの、二つの大きなレヴェルを提示している。もろもろの循環と、もろもろの等しさとがその象徴である。だが、いずれにせよ、一般性は、どの項も他の項と交換可能であり、他の項に置換しうるという視点を表現している。もろもろの個別的なものの交換ないし置換が、一般性に対応するわたしたちの行動の定義である。

(G. ドゥルーズ 『差異と反復』 河出書房新社 p.19)




では、「それはAである」「それはAを表している」といった日常的に私たちがしているような思考を批判し、「それ」とAとを「=」で結びつけるような思考の<前>の「存在」をとらえるにはどうしたらよいか?

その可能性の一つが、私たちが慣れ親しんでいる思考、すなわち、「同一的なものと否定的なもの」「同一性と矛盾」の思考のメカニズムを探り、そこにおいて措定されている前提条件の<前>に遡り、それよりも<本来的>な「差異と反復」を探ることである。


 同一性をどのように理解しようとも、いずれにせよ同一性の優位によって表象=再現前化の世界が定義される。だが、現代思想は、表象=再現前化の破産から生まれもすれば、同一性の破滅から生まれもするのであり、要するに、同一的なものの表象=再現前化の下で作用しているすべての威力の発見から生まれるのだ。

 現代の世界は、もろもろの見せかけの世界である。そこでは、人間は、神と同様に永らえることはなく、主観の同一性は、実体の同一性と同じく命脈を保つことはない。

 一切の同一性は、差異と反復の遊びとしての或るいっそう深い遊びによって、見せかけられたものでしかなく、まるで光学的な「効果」のように生産されたものでしかないのだ。わたしたちは、それ自身における差異を、そして<異なるもの>と<異なるもの>との関係を、表象=再現前化の諸形式から独立に思考したい。なぜなら、この諸形式は、その差異とその関係を、《同じ》ものに連れ戻し、それらをして否定的なものを経由させてしまうからである。

(G. ドゥルーズ 『差異と反復』 河出書房新社 p.14)


しかしながら、この光学的な「効果」を見極める思考そのものは容易ではない。
なぜなら、私たちは、このメカニズムを探る思考も、思考である限り、私たち自身の同一性のメカニズムに容易にシンクロしてしまうものであり、私たち自身の同一性としての存在にとどまろうとする「我執」が、そこに、しばしば無自覚的に入り込んでしまうからである。

こうなると、ある同一性を批判し、糾弾する者もやはり同一性に捕らわれており、すなわち、同じ同一性のメカニズムに捕らわれた者どうしの「闘争」は、いつまでも繰り返されるだけだ。


 が、諸存在が集合態をなして現前するのは、生成流転することなき現在、裂け目を有することも突発事をはらむこともない現在においてでしかない。記憶と歴史の力を借りて、かかる現在は、物質的団塊のごときものとして規定された全体性を覆い尽くす。

 記憶と歴史に依存しているがゆえに、この現在はその大部分が再現前である。諸存在は、このような現在のうちで集合態をなし、現前する。この限りにおいて、何ものも内存在性の利害関係から逃れることはない。

 諸存在が形成する塊は永続し、内存在性の我執も消え去ることがない。超越はまがいものの超越でしかなく、平和はぐらついている。平和は諸存在の利害の言いなりである。

(E. レヴィナス 『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』 朝日出版社 p. 21)




これでは、多くの「批判」の言語が、この「物質的団塊のごときものとして規定された全体性」としての観念に捕らわれ、「内存在性の我執」にとらわれた「永続する魂」どうしの、万人に対する万人の「交換」に偽装された「闘争」が続くだけだ。

これを批判する契機は、まさに「差異と反復の遊び」という概念にこそあるわけなのだが、この概念は、ともすれば硬直的な観念、たとえば短絡的な「独我論」や「相対主義」といった「表象=再現前化」にすり替えられ、容易に回収されてしまう危険があるのだ。
同一性は「遊び」とそっくりの巧妙な罠である、囲いこまれた遊技場を仕掛け、私たちを「同じ場所」に閉じ込める。そして、そこで偽りの「自由」や「解放」を夢見させ、偽物の「敵」を造り上げる。様々な美しい「大義名分」の周辺で、このように、錯覚を造り上げる、錯誤のメカニズムが同一性への迷路を仕掛け続ける。

だからこそ、「差異と反復の遊び」という概念には、それを実現するために、繊細な地理感覚、あるいは、精緻な地図が添付されなければならないのだ。 これが、たとえば『差異と反復』以後に、ドゥルーズ=ガタリのテキストが生産される動機となるのであろう。


 だからこそ、諸平面は、ときにはたがいに離れ、ときには寄り集まる−それは、よきにつけ悪しきにつけ〔最善の平面にとっても最悪の平面にとっても〕真実である。諸平面には、超越と錯覚を復活させるという共通点がある。

 しかも、内在を《或るもの=x》に引き渡すことのないような、そしていかなる超越的なものの身振りをも真似ることのないような「より善い」平面は存在するだろうか。

  <内在平面そのもの>は、<思考されなければならないもの>であると同時に<思考されえないもの>である、と言ってもよさそうだ。それ自身はまさに、思考における思考されないものであろう。それ〔内在平面ソノモノ〕は、すべての平面の台座なのであり、しかも、それぞれの平面に −すなわち、おのれの方は思考されうるが、それ〔内在平面ソノモノ〕を思考することまではできないといったそれぞれの平面に− 内在しているものなのである。

 それ〔内在平面ソノモノ〕は、思考におけるもっとも内奥のものでありながらも、絶対的な外である。絶対的な外とは、あらゆる内面的世界よりもさらに深い内部であるがゆえに、あらゆる外面的世界よりもさらに遠い外である。

 すなわちそれは、内在であり、「《外》としての内奥、息詰まる貫入へと生成した外部、両者の相互反転」である。〔内在〕平面の絶えざる<行ったり−来たり>−無限運動。それはおそらく、哲学の至高の行為である。すなわち、内在平面ソノモノを思考するというよりはむしろ、内在平面ソノモノが、それぞれの平面において思考されないものとして現にあるということを示す、ということである。(中略)


 無限な<哲学者への−生成>、スピノザ。「最善」の、すなわちもっとも純粋な内在平面、超越的なものに身をまかせることはなく、超越的なものを回復することもない内在平面、錯覚を、悪感情を、知覚錯誤を鼓舞することのもっとも少ない内在平面、これを、スピノザが示し、打ち立て、思考したのである…。

(G. ドゥルーズ+F. ガタリ 『哲学とは何か』 河出書房新社 p.88)


あるいは、このような「内在平面」をめぐる地形や地層をめぐる知が、安易な「記号」として陳腐化され、流通されてしまい続けるのならば、もっと直接的に、私たちを「内存在性の我執」とは異なった「存在するとは別の仕方」を、自らに命ずることが必要なのかもしれない。 


 存在することからの剥離が可能であるかどうか、この点を考えてみなければならない。そうすることで、私たちはどこへ行こうとしているのか。どんな地帯に足を踏み入れようとしているのか。いかなる存在論的平面に身を置こうとしているのか。

 けれども、存在することからの剥離は「どこ」という問いの無条件な特権に異議を唱える。存在することからの剥離は非場所(non-lieu)を意味しているのだ。存在することは、どんな逸脱をも包含し回収できるものと思い込んでいる。否定性しかり、無化しかり、非存在しかり、である。ちなみに非存在は、プラトンにおいてすでに、「ある意味では存在するもの」であった。

 そこで、私たちとしては、「存在とは他なるもの」という逸脱が、存在しないことを超えて、主体性ないし人間性を意味するものであることを示さなければならない。つまり「存在とは他なるもの」は、存在することの属領たることを拒む自己自身としての主体性なのである。自我は比類なき唯一性である。なぜなら、自我は類の共通性や形式の共通性から放逐されているからだ。だからといって、自我は自己に休らうことも自己と合致することもできない。自我とは動揺である。このように、自我という唯一性は自己との合致ではなく、自己の外、自己との差異(difference)である。

 が、この差異は単なる差異ではない。いわゆる差異は差異それ自体の外に対する無関心(indifference)に転じかねない。これに対して、自己との差異のうちにとどまることのない非−無差別性(non-indifference)、すなわち自己の外に対する無関心の不可能性にほかならない。

(E. レヴィナス 『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』 朝日出版社 p.28)




そして、レヴィナスにおいて、この「存在するとは別の仕方」の問題は、現代の哲学においてしばしば攻撃されてきた「受動性」をあえてその主要な概念として設定することで、さらに厳しく求められていく。


 他人への自己の開け、それは何らかの始原によって自己を条件づけ、自己を基礎づけることではない。他人への自己の開けは、定住的な住人にしろ流浪する住人にしろ、住むものが有する固定性ではない。他人への自己の開けは、場所の占拠、建てること、安住することとは全く異なる関係である。

 他人への自己の開け、それは呼吸であり、呼吸とは幽閉からの解放としての超越である。呼吸がその意味を余すところなく明かすのは、他者との関係において、隣人の近さにおいてであり、この近さが隣人に対する責任、隣人の身代わりになることである。とはいえ、このような気息は存在しないことではない。この気息は内存在性の我執からの超脱であり、存在することから、存在と存在しないこと双方から排除された第三項なのである。(中略)

 自己を超越すること、わが家から脱出し、ついには自己からも脱出するに至ること、それは他人の身代わりになることである。自己を超越することは、自分自身を担いつつ巧みに自己を導くことではない。それは、自分自身を担いつつも、唯一無二の存在としての私の唯一性によって、他人に対して贖うことである。

 世界も場所も有さざる自己の開けとしての空間の開けは非場所であり、何ものにも取り囲まれないことである。このような空間の開けは、最後まで息を吸い込んでついにはこの吸気が呼気に転じることである。かかる開けないしは呼気、それが<他者>の近さであり、この近さは、他者に対する責任、すなわち他者の身代わりになることとしてのみ可能である。

 他者の他性は他性なるものの一特殊例、その一種ではなく、他者本来の例外性である。他者が超越を意味するのは、より正確に言うなら、そもそも他者が意味するものであるのは、他者が新たなもの、未曾有の何ものかだからではない。そうではなく、他者から新しさが到来するがゆえに、新しさのうちには超越と意味が宿っているのだ。

 存在のうちで、新しさが「存在するとは別の仕方で」を意味するのは、<他者>によってである。

(E. レヴィナス 『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』 朝日出版社 p.324-326)


「同一的なものと否定的なもの」「同一性と矛盾」の思考のメカニズムが引き起こす問題の解決のために、それよりも<本来的>な「差異と反復」を探ることは、このレヴィナスの文脈に準拠した、<真の意味での>「他者」と接することにおいて、その可能性が開かれる。

何らかの一般的な基準において自分が見たいように「対象」を見出すのではなく、むしろ自分が見たいようなものに回収されない「他者」を真摯に受け止め、それによって自らの一般性を揺さぶり、同一性を揺さぶること。

私たちが自らの思考が同一性によって仕掛けられた錯誤のメカニズムに陥らない自信を持てないならば、まずは「他者の身代わりになること」を自らに命ずることが先なのではないか?




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