たとえば、「それはAである」「それはAを表している」といった思考でとらえられるような、一つの「役割」「定位置」を持った「それ」の「存在」は、<本来的>ではない。 「それ」にはそもそも、あらかじめ与えられた「役割」や「定位置」がなく、それがあると感じるのは、私たちがずっと慣れ親しんできた「習慣」や、ある種の権威によってその妥当性の裏付けを確認しながら、判断の前提として受け入れている「法則」に基づいて、「それ」とAとを「=」で結びつけるから。 一般性は、類似の質的レヴェルと等価の量的レヴェルの、二つの大きなレヴェルを提示している。もろもろの循環と、もろもろの等しさとがその象徴である。だが、いずれにせよ、一般性は、どの項も他の項と交換可能であり、他の項に置換しうるという視点を表現している。もろもろの個別的なものの交換ないし置換が、一般性に対応するわたしたちの行動の定義である。 |
では、「それはAである」「それはAを表している」といった日常的に私たちがしているような思考を批判し、「それ」とAとを「=」で結びつけるような思考の<前>の「存在」をとらえるにはどうしたらよいか? その可能性の一つが、私たちが慣れ親しんでいる思考、すなわち、「同一的なものと否定的なもの」「同一性と矛盾」の思考のメカニズムを探り、そこにおいて措定されている前提条件の<前>に遡り、それよりも<本来的>な「差異と反復」を探ることである。 同一性をどのように理解しようとも、いずれにせよ同一性の優位によって表象=再現前化の世界が定義される。だが、現代思想は、表象=再現前化の破産から生まれもすれば、同一性の破滅から生まれもするのであり、要するに、同一的なものの表象=再現前化の下で作用しているすべての威力の発見から生まれるのだ。 |
しかしながら、この光学的な「効果」を見極める思考そのものは容易ではない。 なぜなら、私たちは、このメカニズムを探る思考も、思考である限り、私たち自身の同一性のメカニズムに容易にシンクロしてしまうものであり、私たち自身の同一性としての存在にとどまろうとする「我執」が、そこに、しばしば無自覚的に入り込んでしまうからである。 こうなると、ある同一性を批判し、糾弾する者もやはり同一性に捕らわれており、すなわち、同じ同一性のメカニズムに捕らわれた者どうしの「闘争」は、いつまでも繰り返されるだけだ。 が、諸存在が集合態をなして現前するのは、生成流転することなき現在、裂け目を有することも突発事をはらむこともない現在においてでしかない。記憶と歴史の力を借りて、かかる現在は、物質的団塊のごときものとして規定された全体性を覆い尽くす。 |
これでは、多くの「批判」の言語が、この「物質的団塊のごときものとして規定された全体性」としての観念に捕らわれ、「内存在性の我執」にとらわれた「永続する魂」どうしの、万人に対する万人の「交換」に偽装された「闘争」が続くだけだ。 これを批判する契機は、まさに「差異と反復の遊び」という概念にこそあるわけなのだが、この概念は、ともすれば硬直的な観念、たとえば短絡的な「独我論」や「相対主義」といった「表象=再現前化」にすり替えられ、容易に回収されてしまう危険があるのだ。 同一性は「遊び」とそっくりの巧妙な罠である、囲いこまれた遊技場を仕掛け、私たちを「同じ場所」に閉じ込める。そして、そこで偽りの「自由」や「解放」を夢見させ、偽物の「敵」を造り上げる。様々な美しい「大義名分」の周辺で、このように、錯覚を造り上げる、錯誤のメカニズムが同一性への迷路を仕掛け続ける。 だからこそ、「差異と反復の遊び」という概念には、それを実現するために、繊細な地理感覚、あるいは、精緻な地図が添付されなければならないのだ。 これが、たとえば『差異と反復』以後に、ドゥルーズ=ガタリのテキストが生産される動機となるのであろう。 だからこそ、諸平面は、ときにはたがいに離れ、ときには寄り集まる−それは、よきにつけ悪しきにつけ〔最善の平面にとっても最悪の平面にとっても〕真実である。諸平面には、超越と錯覚を復活させるという共通点がある。 |
あるいは、このような「内在平面」をめぐる地形や地層をめぐる知が、安易な「記号」として陳腐化され、流通されてしまい続けるのならば、もっと直接的に、私たちを「内存在性の我執」とは異なった「存在するとは別の仕方」を、自らに命ずることが必要なのかもしれない。 存在することからの剥離が可能であるかどうか、この点を考えてみなければならない。そうすることで、私たちはどこへ行こうとしているのか。どんな地帯に足を踏み入れようとしているのか。いかなる存在論的平面に身を置こうとしているのか。 |
そして、レヴィナスにおいて、この「存在するとは別の仕方」の問題は、現代の哲学においてしばしば攻撃されてきた「受動性」をあえてその主要な概念として設定することで、さらに厳しく求められていく。他人への自己の開け、それは何らかの始原によって自己を条件づけ、自己を基礎づけることではない。他人への自己の開けは、定住的な住人にしろ流浪する住人にしろ、住むものが有する固定性ではない。他人への自己の開けは、場所の占拠、建てること、安住することとは全く異なる関係である。 |
「同一的なものと否定的なもの」「同一性と矛盾」の思考のメカニズムが引き起こす問題の解決のために、それよりも<本来的>な「差異と反復」を探ることは、このレヴィナスの文脈に準拠した、<真の意味での>「他者」と接することにおいて、その可能性が開かれる。 何らかの一般的な基準において自分が見たいように「対象」を見出すのではなく、むしろ自分が見たいようなものに回収されない「他者」を真摯に受け止め、それによって自らの一般性を揺さぶり、同一性を揺さぶること。 私たちが自らの思考が同一性によって仕掛けられた錯誤のメカニズムに陥らない自信を持てないならば、まずは「他者の身代わりになること」を自らに命ずることが先なのではないか? |