Cahier IV

1998.3.8
Nao

「国民は一つの共同体として想像される。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛として心に思い描かれるからである。そして結局のところ、この同胞愛の故に、過去二世紀にわたり、数千、数百万の人々がかくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである。

 これらの死は、我々を、ナショナリズムの提起する中心的問題に正面から向かい合わせる。なぜ近年の(たかだか二世紀にしかならない)萎びた想像力が、こんな途方もない犠牲を生み出すのか。」

(ベネディクト・アンダーソン 『想像の共同体』 NTT出版 p.26)




 一つの共同体といったような想像、あるいは同一性に基づく認識や思考は、しばしば、特定の共同体の"中で"きわめて合理的で理路整然としているように見なされる。

 この問題の解決策について考える場合、私たちは、自らが無罪の、あるいは超越的な立場を見いだすことは難しいだろう。そのように見なされる立場そのものが、同一性が作り出す錯覚であることがしばしばだから。

 ならば、むしろ、自らの同一性、同一に基づく思考の起源やメカニズムそのものを遡ることが先ではないか?



「諸存在はつねに集合体をなし、つねに現前している。が、諸存在が集合態をなして現前するのは、生成流転することなき現在、裂け目を有することも突発事をはらむこともない現在においてでしかない。記憶と歴史の力を借りて、かかる現在は、物質的団塊のごときものとして規定された全体性を覆い尽くす。

 記憶と歴史に依存しているがゆえに、この現在はその大部分が再現前である。諸存在は、このような現在のうちで集合態をなし、現前する。この限りにおいて、何ものも内存在性の利害関係から逃れることはない。

 諸存在が形成する塊は永続し、内存在性の我執も消え去ることがない。超越はまがいものの超越でしかなく、平和はぐらついている。平和は諸存在の利害の言いなりである。」

(E. レヴィナス 『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』 朝日出版社 p. 21)




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