「国民は一つの共同体として想像される。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛として心に思い描かれるからである。そして結局のところ、この同胞愛の故に、過去二世紀にわたり、数千、数百万の人々がかくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである。 |
一つの共同体といったような想像、あるいは同一性に基づく認識や思考は、しばしば、特定の共同体の"中で"きわめて合理的で理路整然としているように見なされる。 この問題の解決策について考える場合、私たちは、自らが無罪の、あるいは超越的な立場を見いだすことは難しいだろう。そのように見なされる立場そのものが、同一性が作り出す錯覚であることがしばしばだから。 ならば、むしろ、自らの同一性、同一に基づく思考の起源やメカニズムそのものを遡ることが先ではないか? |
「諸存在はつねに集合体をなし、つねに現前している。が、諸存在が集合態をなして現前するのは、生成流転することなき現在、裂け目を有することも突発事をはらむこともない現在においてでしかない。記憶と歴史の力を借りて、かかる現在は、物質的団塊のごときものとして規定された全体性を覆い尽くす。 |