Cahier V

1998.6.28
Nao

柄谷行人氏の『<戦前>の思考』を読みました。

柄谷氏の著作を読んだのは久しぶり。
月曜日に早稲田大学文学研究会の三上さんより「トランスクリティーク カント&マルクス」の講演会のご案内をいただき、約10年ぶりに柄谷氏の話を聞いたり、Manabu Watanabeさんからいただいたメールに柄谷氏の「探求II」に関連する問題提起をいただいたり、そんなわけで、なんか今週は「柄谷ウィーク」でした。

それにつけても、もっと早く読めばよかった、そんな本でしたね。
引用しだすと切りがないが、一カ所だけ。



 あれ(1990年11月にプリンストン大学・シカゴ大学で柄谷氏が行った講演)は、たしかに湾岸戦争を意識していました。しかし、はじめにいったように、それが戦争になるとは思いませんでした。それ以前から、ソ連や中欧、あるいは世界各地で、ナショナリズムの問題が露出していますし、もう一つ、ヨーロッパ共同体のように近代のネーションの枠組を超えようという動きがある。そして、それらは別々のものではない。
 つまり、ボーダーレスといわれる世界資本主義の運動が、従来の国家の枠とは別のネーションを生み出しているわけです。
 この現象を、旧来の言語で考えると理解できない。民主主義・民族主義・帝国主義・ファシズムなどといった概念を、根本的に考え直さないといけないと思ったのです。ただし、それは遠い過去に遡ることではなくて、むしろ身近な過去に遡ることです。
 ふつうナショナリズムというと、血と大地、あるいは言葉というものがいわれる。しかし、ネーションとは近代につくられた「想像の共同体」(アンダーソン)なのであり、ただそこにおいて血と大地というような実体化、あるいは古代への遡及がされるようになっただけです。(中略)

 たとえば、ハンナ・アーレントがいうように、反ユダヤ主義は、ユダヤ資本が強かったから生じたのではなく、十九世紀後半に国家主義的経済が形成されるにつれて出てきた。ユダヤ資本が弱まるとともに、反ユダヤ主義が強まったわけです。
 ところが、人は、反ユダヤ主義の起源を中世から古代へと遡る。ユダヤ人自身もそうしてしまう。たとえば、イスラエルに国家を作ったシオニズムは、十九世紀後半のヨーロッパのネーション=ステートに対応しているのです。ヨーロッパで国家主義が強まるなかで、ユダヤ人も国家をもたねばならないという状況があった。
 ところが、このことに、旧約聖書に書かれているからイェルサレムに戻ろうというような意味づけを与えたのがシオニズムです。本当は、イスラエルでなくてもよかったんですよ。ところが、イスラエルが建国されると、アラブとの対立は、古代から存続する宗教的な対立のように見なされてしまう。
 しかし、そこではそれまで宗教的対立はなかったのです。(中略)

 とにかく宗教戦争なんてものはない。たとえば、スリランカやインドで宗教紛争が続いていますが、根本はナショナリズムです。というよりも、経済的な格差が原因で、それが民族的な対立、あるいは宗教の対立という古代的な意匠を動員するのです。そうして殺し合っている間に、それが何千年も続いてきたかのように思いこまれる。スリランカの場合は、1960年代からはじまったにすぎません。イスラム原理主義にしても、古代からあるのとはまったく意味が違う。
 ぼくがいいたいのは、何か根元的に遡行して考えようとすることが、実際には、身近な過去の転倒をおおい隠し、また、現実的な解決を不可能にしてしまうということです。

(柄谷行人 『<戦前>の思考』 文藝春秋 p.236-239)

 私たちのある固定化した事物に対する認識=「既成の概念」が見えにくくしているもの、それ自体が問題を生み出しているもの、そういったものを前景化させ、それとは異なった認識を拓くものが「概念の創造」(G.ドゥルーズ)だとするならば、まさに柄谷氏の仕事は、私たちの今日置かれている問題を解決するための「認識を拓くこと」=「概念の創造」だと思います。

 私たちがいたるところで、あたかも自明のこと、客観的な真実のように思っていることに基づいて誰かを憎んだり、蔑んだり、あるいは崇めたり、「転移」したり・・・あるいは、そういった思いこみに踊らされた、現実の問題とは向き合っていないままの「対応」「改革」「変革」・・・これは、何もイスラエルやスリランカ、インドに限った問題ではなく、むしろ、私たち自身がきわめて日常的に抱えている問題なのではないでしょうか。

 そして、このような問題に対処し、「概念」を「創造」するために、この「身近な過去に遡ること」は、結構ポイントじゃないかな、と思いました。

 過去の体験から学ぶことがなければ、そこから反省することがなければ、いつまでも「結果」に振り回されるだけの「非十全」な状態であり、だから、学ぶことを拒否した「自然のままに」という脳天気な主張は単なる怠惰、あるいは問題からの逃避にすぎないのではないでしょうか。
 それと同様に、壮大な「物語」(しばしば「起源」と「目的=終末」とがセットのやつ)を生きるのも、私たちを「原因」とは切り離された、私たち自身の「結果」から出発して、その状態を温存したいために造り出したフィクションに自らを閉じこめる「非十全」な状態であり、したがって、そんな認識の中で見いだされた「救済」は、実は誰も救わないのではないでしょうか。

 「非十全」な状態のままでいようとする怠惰や温存に歪められずに、いかに認識するか? そのヒントは、この「身近な過去に遡ること」なんじゃないかな、と思いました。
 


INDEX

Copyright: Nao and Noelle
Comments and Questions: web master