Cahier VII

2000.3.18
Nao

 局所的な事実を振りかざし、それを特権化したり神聖化したりして、その事実に基づいて「○○は間違っている」「○○を変えなければならない」というのは簡単。でも、そんなことを繰り返しているうちに、私たちは、自分が否定し、変えようとするときに振りかざしている事実が局所的で、そのような事実に基づいて構成された立場が相対的なものだということを見失ってしまう。



 だからといって、あらゆる立場を相対的だと唱え、あらゆる立場を否定することもくだらない。なぜならば、「あらゆる立場が相対的だ」というもの自体が、やはり局所的な事実であり、その事実を特権化することによって作られた立場なのだから。

 それでは、局所的ではない事実とは?それは認識することができない。なぜなら、私たちの認識能力は局所的だから。だから、むしろ、自分が認識する事実が常に局所的だということを引き受けながら生きていこうとした方がよさそうだ。
 局所的な認識を通じて得られた事実に基づいて考え、それを立場として行動しながら、一方で、その事実や立場に固執しないこと。行動を通じて自分ではない人と関わりながら、その関わりを通じて得られた事実に基づいて、新たな立場を生み出すこと。この繰り返しの中で、事物が潜在的に持つ様々なあり方が、何か特定のものに固着することなく、自在に展開していくこと。そんな暫定的な立場で、今の私は生きている。



 しかしながら、やはり問題が残る。なぜ事実は局所的ではいけなくて、立場は新たに生み出されなくてはいけなくて、事物は潜在的に持つあり方を展開しなければならないのか。考えてみれば、この立場そのものも暫定的なものである。
 そんな、暫定的な立場の曖昧さ、不確かさを引き受けて生きていきたいと思う。それが今日現在の、暫定的な私の立場−。


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 DVDで発売されたJ.L.ゴダールの「中国女」を見ながら、そこに登場する過激でかつ冷めたパリの毛沢東主義者たちに、ネット社会にますます深く関わる自分自身の姿を重ね合わせながら考えたことを、ちょっとご報告まで。

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