dialogus vanus −David Bowie

1996.6.4
Nao & Noelle


時 : 1996/06/04 23:00,David Bowieコンサート
場所: 神保町某ビアホール,後に自宅で再現
司会: Jacques "IIsi" MacintoshとEmmanuel "PB150"Macintosh両氏

Bowieのコンサートの幸福な興奮さめやらぬそのときそのところで,Bowieをねたに「対談」やってみようという運びになったのだった.でも,雑誌なんかでやっている「対談」って,顔合わせだけ見ていると期待が持てそうで,実際読むとなんかつまらないのはなぜ?って考えてみたら,それは対談の多くが次の3パターンに帰着しているかららしい.

a) 対話者が同じことを別々の言葉でひたすら表現している.
b) 対話者が二人でかみ合わない話を交互にしゃべっている.
c) a)b)が,(これでは収拾がつかないという危機感により)
  急遽弁証法らしき形に整えられ,無難な共感が確認される.

悪口いってる当人が一番該当するなんていうのはよくある話.そうならぬようにと願いつつ結局そうなっちゃうかもという危惧を抱えながら,
dialogus vanus: David Bowie篇を始めましょう.


Nao: いや〜、今日のBowieのコンサートは、よかったよね。(と言いながらクリークの生ビールを飲んで)いや〜、このクリーク、おいしい。
Noelle: 頭の中でMoonage Daydreamが鳴っているー
Nao: 前回の来日(1990年)のときは、さながら「David Bowie大回顧展」だったよね。確かに良かったんだけれど、やはり自分自身の過去の様式との位置づけみたいなところでまだすっきりしないところがあった。
でも、今回はそういうものを引きずっていない「今」を、自由に歌っていたような気がする。最新の曲も、かつての多くの「神話」を含み、ともすればからめ取られそうになっている曲も、同じように「最新の曲」のように感じられたのは、結構すごいことだったんじゃないかな。選曲も良かったしね。
Noelle: あなたのいうことにはおおむね賛成できると思う.過去の曲も最新の曲も同じようにすごくてかっこよかった,という点で特に.こんな風に過去と現在が渾然として現出されること,こそ私がボウイに期待していたことだな,と思う.

私自身,ボウイをリアルタイムで聴いたのはLet's Dance以降という,超「遅れてきた」ファンなのだけれども,私がボウイに望むのは,私が同時代的に享受し損なった過去の神話を取り戻させてくれることなんかでは決してなくて,今日聴きにいってかっこいいこと,私の知らないところで今なおかっこいいものが生まれ続けているんだな,とわからせてくれることなんだから.
で,前回来日時と今回とで,過去との関わりがどんな風に違ってきているのか,とか,あなたの今日感じたすごさは何なのか,とか聞かせてもらえる?

Nao: Bowieの曲って、もともと、なんていうか、人々に「今ここ」とはことなる「今ここ」を見せちゃうわけじゃない。ジギースターダストという「異星人」を演じていたこともそうだけど、その後の"Heroes"やLow"、"Scary Monsters"なんかも、人々を「今ここ」とは異なる地点に導く何かがあるんだよね。でも、それって、実は世の中に出た瞬間から、その世界自体が「今ここ」になってしまう危険があるわけで。
Noelle: 「演じる」という以上のものだったと思う.実際のところそれは「演」じたり,或いはそれが高じて「なりきって」しまったり,というのとはちょっと違っていて,あるはずのないものをそこに現出させてしまう,無から有を生み出してしまう,ということだったという気がする.
Nao: そうだね。さらに誤解を恐れずに言えば、「演じている」というよりも、我々が近づけない「外部」をもたらし、我々を我々自身の根拠から揺さぶるような体験もしくは啓示をもたらす、と言ってしまったほうがいいかもしれない。
そうするとさ、たとえばLife on Mars(火星での生活)でもいいんだけれども、それがコンサート会場やレコードを聴き終わってからも「忘却」ができないときに、その体験の痕跡みたいなものに結構しばられてしまうんだよね。
Noelle: そういう形でオーディエンスを巻き込むところにそもそもボウイのボウイたる所以があった,と思う.一方が「演奏し」,もう一方がそれを「聴く」と言うような関係をボウイは持とうとしない.無から有を生み,そこに連れていき,放り出す.
Nao: そこがBowieの魅力なわけだけど、そうすると、たちまち、"Ziggy Stardust"や"Life on Mars"を「今ここ」とした場合、どう生きるのかという問題が出てくる。そこで「異星人」を演じ続けるという「悪循環」が生まれてくるわけだよね。そして気づくと"Changes"そのものが、限りない「今ここ」の絶対的な憲法になっちゃったりしてね。
Noelle: ボウイ自身にとっても,オーディエンスにとっても.それはたとえばジギースターダストツァーの映像なんかを見ていると良くわかる.あそこで両手をさしのべている殆どトランス状態の女の子たちも,結局は日常というかハイデガー言うところの頽落状態に帰らざるを得なくなる.ライブの高揚感を永続的に持ち続けようとし始めたら,それは「不変のChanges」なんてとんでもない大嘘を要求するか,されるかになる.
Nao: そこで、それを超えるのは、Noelleが昔指摘したことがある、Bowieの凄さであるところの、あの「声」だと思うんだけど。
Noelle: 声.生命も生活も性別もない声.Starmanみたいに驚くほど優しいのにルサンチマンの欠落した声.Scary Monstersのメタリック・ヴォイス.異世界を「構築」する一方で,声だけが本当に「今ここ」にない異世界に逃れて行くみたいな感じ.
Nao: そうそう。それで今回の公演がなぜこんなに凄くよかったかって考えてみると、それはまさにその「声」だと思うんだ。
もちろんそれは、前回の公演のときにBowieが風邪をひいていて体調が悪かったらしいとかいう次元の話とはあまり関係ないんだけど。
Noelle: あのときはアンコールなくて超!悔しかったけど.というのはおいといて,過去を封印しましょう,という身振りそのものに囚われてしまっていた,ってことなのかなー.ボウイっていう人はそもそもの初めから,他のアーティストとの比較におけるオリジナリティなんていうものは全然問題になったことがなくて,いつでも彼自身と比較され続けてきた.そういう勝ちも負けも終わりも始まりもない不毛な争いにはもう乗らないよ,っていう身振りだったのだと思うのだけれど,結局,神話の再−現出を要求するオーディエンスを説得することはできなかった.それよりは,何でもあり,ぜんぶ現在!の今日のコンサートの方が遥かに楽々と過去を越えている.さっきの形容につけ加えれば,彼の声には時間も年齢もないらしい.
Nao: だから、たとえばBowieがかつて封印したはずのグラムロックの伝説とともにある名曲にとどまらず、Tin Machineの"Baby Universal"までぬけぬけと歌っちゃって、それで全然平気、というBowieを見て、きっと怒っちゃったり、逆にノスタルジーに取り込まれたりした人たちが結構いると思うんだけど。
でも実は、あの、Bowieの神話をつくってきた大きな要素の一つである、演劇青年の側面から来る「ドラマツルギー」というものから、今回はあっさりと離陸しちゃったんじゃないかと思うんだ。
Noelle: 他の人がどんな風に聴いたかはわからない.でも右斜め前の席で絶叫してた男の人なんか−同じくらいの年で,明らかに初期からのファンだと思うのだけれど,最新の曲だからとか「あの頃の」名曲だからとかじゃなくて,今日のコンサートを最高に享受している感じだった.
Nao: Noelleの言葉を借りれば、かつてBowieが大仰なほどの身振りで異世界を構築した「ドラマツルギー」と、それ自体が「外部性」を持ってしまったBowieの「声」とが、実はこの二つは全く異なる次元のものなんだけれども、それらがたまたまハイパーリンクしてしまったのが、かつての伝説のBowieだったと思うんだ。
でも、今のBowieには、もはやそんな「ドラマツルギー」なんか必要がなくって、「声」そのものだけで、もう全然大丈夫、って感じになってきたんじゃないかな。
あの「声」でかつての名曲を歌うBowieの世界には、ノスタルジーとは無関係な、まさに「今ここ」を今ここで揺さぶるような力があるってことが確認されたし、きっとこれからBowieは、この「声」さえあれば、陳腐な「夭逝」の伝説を逃してしまっても全然平気で、むしろもっとすごい境地をつくるにちがない。
Noelle: そろそろ止揚段階ですか?
Nao: それよりクリークのおかわりをもらおう。「すみません」
Noelle: 逃げたな.フリーカウ’ン’ザ・ムナイジ・ダイドリームーイェエエー

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