Media II

1997.4.18
Nao

「同じ民族として」「同じ国家の一員として」「同じ企業の一員として」といった既存の境界の中での自己同一性に自らを限定するツリー(樹木)型の在り方ではなく、境界を超えた、異なる共同体とのリゾーム(根茎)型の関係性の中で、新しい感覚や思考を生み出し、共有していくこと、それを通して多層的な共同体が自在に生成変化していくようなことを、ネットワークメディアを舞台として展開することはできないだろうか?

ネットワークメディアにおいて論じるべきなのは、そして我々が試みるべきなのは、近代国家の共同体の幻想を超えた、リゾーム型のコミュニケーションなのではないだろうか?

(「Media -新しいメディアに可能性はあるか?-」 1996.1.14 Nao)



予想外のレスポンス

このウェブサイトを始め、最初に「Media -新しいメディアに可能性はあるか?-」という文章をアップロードしてから、もう1年以上になる。

ウェブサイトを自分でも立ち上げてみたら、どんなレスポンスが来るものなのだろう、と思いながら、このサイトを始めてみた。

始めてみると、どこで見つけていただいたのか、不思議なことに、毎日世界のどこかの、どなたかからアクセスをいただき、今日に至っている。

しかしながら、実は、一番面白かったのは、アクセスの数ではなくて、いただいたメールだ。

「面白かった」と言っても、だからといって「楽しかった」かというと、実はそういう感じではなかった。
正直に申し上げると、むしろ、「苦しかった」ことのほうが、実は多かったかもしれない。

しばしば、自分で「書いている」ことと、メールをくださる人が「読まれている」こととが違っていた。予想もしなかったところで批判されたり、予想もしなかったところで共感されたりした。

今だからこそ白状するが、最初の頃は、ついつい「なぜ理解してもらえないんだろうか」と苛立ちながら、メールのやりとりをしたこともしばしばだった。
(言葉足らずのレスポンスを送ってしまった方々、本当にごめんなさい)

しかし、こんなことを繰り返しているうちに、あることに気がつき始めた。

「予想外のレスポンスをいただいた人とのやりとりほど、最初は苦しいけれども、ときには自分を苛立たせたり、不快にさせたりもするけれども、後ですごく面白くなる。」

このような体験をしてきた視点から、改めて、メディアの変化について考えてみたい。



インターネットがもたらしたもの(1)
メディアのカバーエリアの拡大


インターネットという新しい情報の流通の仕方が現れる中で、(コンテンツとしての)メディアの性格にも、従来のマスメディアと比較してみると、いくつかの変化をもたらしつつあるようだ。

一つ目の変化は、メディアのカバーするエリアが、拡大している、ということである。

地理的な要因(+そこから始まった歴史的要因)から形成されてきた共同体=国家の枠を超えた情報の流通がいっそう容易になり、メディアの流通という点に関しては、物理的な距離の制約は、事実上なくなったといってもよいだろう。

これがもたらすのは、マスメディアよりも大きな影響力を持つ、メガメディアの登場だ。

これまで国家単位で形づくられてきた「スタンダード」は、おそらく「グローバル・スタンダード」に置き換えられていくだろう。

もっともこれは、CNNで取材された映像が、それが米国内のニュースでなくても全世界の放送局に配信され、二次使用されている、といったことで、実は我々が見えないところで既に始まっている現象でもある。ある一つの「解釈」が、瞬間的に、全世界のメジャーな世論になっていく、というわけである。


インターネットがもたらしたもの(2)
価値の多様化


二つ目の変化は、人々の価値が多様化している、ということである。

といっても正しくは、インターネットが価値を多様化したというよりも、すでに価値の多様化という大きな流れがあって、インターネットはそれを加速化している、といった方が正しいかもしれない。

事実、インターネット上には、数多くの「オタク」なウェブサイトが登場し、驚くようなアクセスを誇っているものも少なくない。

これまでのマスメディアでは難しかった、よりセグメントされた、特化した編集コンセプトに基づいてつくられたメディアとしては、おそらく「自費出版」といったものがあったわけだが、これは、本屋に置いてもらえなければ、一般の人々の目に触れることはなかった。そして、本屋は、スペースが限られているから、なかなか置きたがらない。

こういったメディアが、ウェブサーバにアップロードすれば誰でもアクセスができるようになり、検索サービスなどを通じて、関心がある人に存在を知っていただき、読んでもらうことも容易になった。




ヴァーチャル・コミュニティの夢を、
あなたはまだ見続けているか?


しかし、私は、この二つの変化のもたらす世界に疑問を持っている。

だって、このまま行くと、世の中は、どこを切っても同じの金太郎飴のような世論と、仲間うちでしか通じない「オタク」のおしゃべりとで、世の中が埋め尽くされちゃうわけだよ!

これが、昔のメディア論の人たちが夢見てきた、「ヴァーチャル・コミュニティ」なのかい?

あなたは、本当にそんな世界を望んでいるの?

私は、もう、おめでたいメディア論の人たちのようにヴァーチャル・コミュニティの夢を見続けることはできない。


新しい可能性はどこにあるか?

「グローバル化」というのは、我々が慣れ親しんできた共同体=国家から離れるために重要なステップではあるが、それはあくまでも通過点にすぎない。

「価値の多様化」というのは、あくまでも結果であって、注目すべきなのは、むしろ、いかに新しい価値が生成し、変化していくか、というプロセスの方ではないか。

これまで語られてきたおめでたいメディア論からは、このような問題へのアプローチは、どうやら無理みたいだ。

むしろ、問題となるのは、人間そのものを、いかに解放していくか、ということである。

たとえば、「オタク」な共同体が形成されるまではいいのだが、それが国家から離れた共同体をつくるどころか、かえって、いっそう閉じた共同体をつくるところで止まってしまうのは、メディアだけが新しくなって、人間は、古い、自分たちが慣れ親しんだものにとらわれたままだからである。

私がこの新しいメディアに可能性があると思いたいのは、様々な価値を持つ人々どうしが、既存の共同体においては出会えないような人々どうしが出会い、そこから、お互いの対話のプロセスがはじまり、それを通じて、お互いのそれまでの価値が変わり、自分の感覚や思考のベースが変質し、それまでの自分自身とは異なる在り方を相互に学んでいく、そんな「ソサイエティ」だ。



それは不可能なことではない

とはいえ、このような「ソサイエティ」は、実は不可能なことではない。

たとえば、現在のウェブ上の各種の検索システムは、「既存の共同体においては出会えないような人々どうしが出会う」の機能を提供しつつあるといえよう。

これが、さらに高度なエージェントシステム、たとえばFireflyのようなものは、様々な話題をきっかけにした、グローバルな「出会い」の機能を提供している、たいへんユニークなシステムだ。

ウェブサイトと、こういったエージェントシステムと、そして、対話を行う電子メールや、メーリングリスト、あるいはチャット(ただし、表層的なコミュニケーションしかできないから個人的には好きにはなれないが)とが組み合わされば、「ソサイエティ」は、今日でも既にある程度可能なのだ。


新しいパラダイムへ

おそらく、私が思い描く「ソサイエティ」に近づくための技術やインフラストラクチャー、サービスは、優れたヴィジョナリーたちによって、次々と開発されている。

考えてみれば、このウェブサイトを開設したころと比較しても、驚くべき進化が進んでいる。

むしろ遅れているのは、もっと学習し、もっと進化することが必要なのは、どうやら人間自身のほうではないか?

人間の思考、人間のコミュニケーションの新しいパラダイムを開発しなければならないのではないか?

我々の政治のシステムや企業のビジネスデザインを、創造活動に求めるインスピレーションを、この新しいパラダイムに基づいて、もっと進化させなければならないのではないか?

この進化の方向は、最初に書いた、私がウェブサイトを開設して体験した「予想外のレスポンス」の、「苛立ちや不快、苦しみを経た面白さ」にあるのではないだろうか?



「しかし、ソクラテスが提出したのは、世界や自己に理性が内在するという考えではなくて、「対話」を通過したものだけが理性的だという考えである。対話を拒否する者は、どんな深遠な真理を把握していようと、非理性的(非合理的)である。世界や自己に理があるかどうかは、もはや問題ではない。対話を通過した言説(仮説)だけが、合理的である。理性的であることは、他者との対話を前提すること自体なのである。

 数学的な記述だけが科学的だと思い込んでいるような人々がいる。しかし、たとえば、ユークリッドの原理において、公理は直観的な自明性ではない。それは、対話における約束である。同一律(AがAであること)とは、いったん決めた約束を議論の過程で変更しないということを意味する。ここでは、数学が特権的な確実性を与えられていない。数学そのものが「共同体の吟味」にかけられている。この意味で、ユークリッドは、ピタゴラス−プラトンではなく、ソクラテス−プラトンの徒である。」

(柄谷行人「探求II」)


たとえば、慶應義塾大学総合政策学部の井関利明教授が説いているRelationship Marketingや、Don Peppers氏の提唱しているOne To One Marketing、Adrian J. Slywotzky氏が描いているValue Migrationといったコンセプトは、いずれも、企業が「対話」を積極的に取り組むことを通じて、(柄谷氏の言う意味で)「理性的」「合理的」に自らを変革させ、成功に導く原理を見事に描いている。
そして、この原理により成功を遂げている企業も、実際に数多く登場しつつある。

その一方で、政治や行政は、となると、どうも心許ない。かといって、それを批判しているジャーナリズムの方はとなると、私はもっと心配だ。
いずれも、真の意味での「対話」にさらされずに、自分たちの「原理」を温存し、そこから閉じてしまいやすいところにいるから、なかなか自らを変革できないのだろう。

さて、我々個人はどうか?もしあなたが日本人の読者ならば、まず最初の一歩として、あなたはどこまで日本の「外」に出ることが出来るだろうか?もちろん、海外旅行をしたり、海外のサイトを見たりすればいいわけじゃないですよ!あなたの閉じこもっている「内」は、「日本」だけではないのだから。

インターネットを活用して、我々が真に魅力的なことを、「ソサイエティ」を実現するためには、我々自身が、「対話」に基づいた新しい思考やコミュニケーションを、それに基づくシステムやメソッドを、開発していくことなのではないだろうか?



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