Media II extra

1997.5.10
Nao

MEDIA IIを書いた後、私は二つのコミュニティに「はまって」います(^^;

一つは、私が以前に書いたFirefly。ここのエージェント機能をきっかけにして、私は最近、感性や思考が、どこかの部分で不思議と通じる人々と、国境に関係なく(それでもまだ、アメリカやヨーロッパ各国の比率が高いですが)出会うことができ、その人々とのサイバースペース上の対話を楽しんでいます。

もう一つは、日本で、私がネットワークで知り合った友人が主宰されているコミュニティ。ここの人々はなかなか素敵で、最近ちょっと目が離せない。

そういった体験をしている中で、ちょっと思ったことをご紹介します。




きっかけは、このコミュニティの中で、ある方の、客観的な合理性にはまらない言語と出会ったときでした。

普通の場面で私が出会っていたら、あまり注意を向けなかったり、懐疑的だったりするタイプの言葉だったのですが、それが私にも伝わる、そんな体験をしました。
そのコミュニティは、そこに参加している人々の対話のやりとりを通じて、ある共通のコミュニケーションのベースが徐々に形成されつつあり、それをもとに、お互いの私的だった体験や思考を共有し合うメソッドをお互いに学びつつある、そんな場だと思いました。

そのとき、同時に、そういった言葉が、そのコミュニティの外の人々と、どのように共有されるのだろうか、という問題が頭に浮かび、少しそれについて考えてみました。

それは、以下のようなものです。


  1. 個人の内部で生まれた私的言語は、それが私的言語のままである限りは真実ではない。それは、客観的な合理性を持たなければ、幻想ではないか?
    (客観的な合理主義の立場っぽいっすね)


  2. しかし、そのような内部で生まれた私的言語はその人にとっては真実であり、ならば真実と考えるべきではないか?
    自分自身に対して現れた事象を記述していく以外に方法はなく、特権的に真実を判断することのできる客観的な立場はないのではないか?
    それを1.のように感じる思考には、すでに「科学」という見方がフィルターとして入ってしまっており、それゆえ、事象の本質を捉えようとするのを妨げているのではないか?
    (現象学的な立場っぽいっすね)


  3. とはいえ、そうすると、人々がそれぞれ持つ、それぞれの人の中の真実は、私的な言語でいるうちはいいが、そのままでは通じない。
    それを他者に伝える言語とはどんなもので、それによって、いかにしてそれぞれの人の中の真実が、人々の間で共有されるのだろうか?

    このコミュニケーションを可能にさせるものとして、安易に予定調和的なものを想定する思想が散見されるが、その場合、その予定調和そのものが、人間のイマージュの一つであり、それを特権的に定立するならば、さっきの「科学」と同じフィルターになってしまうのではないか?
    たとえば、人間が描いた偽物の神に捕らわれた人間が、神と対話を続けている真摯な人間ならばやるはずのないことを始めてしまう。
    (予定調和的な共同幻想って、やっぱり胡散臭いですよね)


  4. ならば、人々の間で行われる対話において、徐々にお互いの間の共通する言語を見出していき、その見出されつつある言語を使いながら、それぞれの私的な言語を、共有可能な言語にしていくしかないのではないか?
    どこかに安定的な原理があり、そこに基づいた言語があると考えるのではなく、言語のベースは「もろい」ものだという前提から出発し、毎回、対話の当事者どうしが言葉を見出していくしかないのではないか?
    (ドゥルーズの「器官なき身体」の私流の解釈です)


  5. しかし、このプロセスは、たとえばネットワークメディアがでてきたとき、多くの人々が浮かれた気分で期待していた、地球レベルの、人々の対話プロセスの進行、あるいは、Global VillageやVirtual Communityといったものが、そうそう簡単には形成され、広がっていかないことでもわかるように、そんなものは、通信のためのインフラやプロトコルができたからといって、突然できるものでは、もちろんない。それを使う人間の知恵は、相互に学び、見出していくのに時間がかかる。

    それぞれの、比較的共通する言語をベースとした、人々が主体的に形成し、参加するコミュニティは、対話を始める場としては重要だが、それだけだと、それぞれのコミュニティどうしの対話がなくなり、閉じてしまいがち。
    閉じてしまったコミュニティの中では、ジャーゴンが生まれ、それがやりとりされることで強化されてはいくが、その外の言葉との対話がなくなると、新しい知は生み出されないで、流れを止められた水のように腐っていく。
    また、閉じてしまったコミュニティの中で、「独善」に見えたり、「不寛容」だったり、実際に脅かす行動に出てくる人々が出てくるかもしれない。

    これを解決するのも、本来的には対話しかない。

    強制的な手段や、脅迫や暴力は憎しみを残すだけの対症療法。その場で解決したように見えても、その原因が残っているわけだから、何にもならない。
    となると、多数決型の民主主義しかないわけだが、お互いの対話と、それに基づく相互理解のない民主主義の決定や、それに基づく行動は、実は脅迫や暴力と、たいして変わらない。


  6. とすると、この「異なったコミュニティの間での対話」を実現する言語とは何だろうか?対話が進めば相互に言語を見出すことはできるが、そもそもそのプロセスを始めるためには、やはり、何らかの言葉がいる。これは超難題。
    これに明快な答えを提供してくれる思想家は、まだまだ見あたらない。

    この問題に対する答えは、「合理的な言葉」しかないのだろう、と私は思う。

    ただし、これは、いわゆる近代的な科学への信頼が生み出した、「客観的合理性」ではない。
    むしろそういうものを論理的に批判する契機を持った、合理的な言葉である。


というところまで書いてみた、ここで頭に浮かんだのは、奇しくも、前回のMEDIA IIで引用したのと全く同じ、次の一節でした。



「しかし、ソクラテスが提出したのは、世界や自己に理性が内在するという考えではなくて、「対話」を通過したものだけが理性的だという考えである。対話を拒否する者は、どんな深遠な真理を把握していようと、非理性的(非合理的)である。世界や自己に理があるかどうかは、もはや問題ではない。対話を通過した言説(仮説)だけが、合理的である。理性的であることは、他者との対話を前提すること自体なのである。

 数学的な記述だけが科学的だと思い込んでいるような人々がいる。しかし、たとえば、ユークリッドの原理において、公理は直観的な自明性ではない。それは、対話における約束である。同一律(AがAであること)とは、いったん決めた約束を議論の過程で変更しないということを意味する。ここでは、数学が特権的な確実性を与えられていない。数学そのものが「共同体の吟味」にかけられている。この意味で、ユークリッドは、ピタゴラス−プラトンではなく、ソクラテス−プラトンの徒である。」

(柄谷行人「探求II」)


というわけで、MEDIA IIにおいては、今日のサイバースペースにおけるコミュニティに否定的に書いておりましたが、その中で良質なものは、上記のような対話が展開される「ソサイエティ」になっていく可能性がある、ということを、最近の体験から強く実感しており、そのことをご報告させていただきました。

みなさまも、このメディアを活用されながら、新しい、素晴らしい対話を発見されることを、心からお祈りしております。


INDEX

Copyright: Nao and Noelle
Comments and Questions: web master