Spinoza: Philosophie Pratique

1998.5.5
Nao

私がPolylogosのDeleuze Forum用に作っている「スピノザ−実践の哲学」のサマリーを転載していきます。
この本においてドゥルーズが解釈し、描き出すスピノザの思想は、ドゥルーズ自身の思想のエッセンスそのものでもありまして、そのような意味でお薦めの本であります。
もしこの駄文が、この本にご興味をお持ちになっていただき、実際に手に取っていただけるきっかけにでもなれば幸いです。

第一章:スピノザの生涯


■禁欲的な徳の起源
哲学者がしばしば説く禁欲的な徳−謙虚・清貧・貞潔−は、哲学者にとって、道徳的な目的や、あの世のための宗教的手段ではない。
それは、豊かな、過剰までの生、思惟そのものをとりこにし、他のいっさいの本能を従わせてしまうほど強力な生の「結果」である。そのような生をスピノザは<自然>と呼んだ。

■スピノザの<自然>
スピノザのいう<自然>とは、必要〔需要〕から出発してそのための手段や目的を生きられる生ではなく、生産から、生産力から、持てる力能から出発して、その原因や結果に応じて生きられる生のことである。

■思惟の力能と社会
思惟の力能は、一国家や一社会の目的を超え、あらゆる環境の枠を越えている。
最善の社会とは、思惟の力能に服従の義務を負わせず、それを国家の規範に従わせることを差し控えて、ただ行動に関してのみ規範への遵守を求めるような、そんな社会だろう。
スピノザは、自身の目的(思惟の力能)と一国家や環境が目的としているものとを混同しなかった。思惟のうちに、あやまちはもちろん、服従そのものからものがれてしまうような力を求め、善悪のかなたにある、賞罰、功罪とは無縁のまったく無垢な生のイメージをかかげていた。
■スピノザの生涯と時代背景(1)
1632年、アムステルダムのユダヤ人居住地区で、スペインないしポルトガル系の富裕な商人の家で生まれたスピノザは、けっして一枚岩で同質的なものではなく、多様でさまざまな利害やイデオロギーにとらわれていた当時のユダヤ人社会の中で育った。
伝統的なラビのユダヤ教とは両立しがたい、哲学や科学、医学の教養が深く浸み込んでいる、マラーノ(スペインやポルトガルでそれまで改宗を強いられて、おもてむきはカトリックの教えに従ってきたが、16世紀末の亡命を余儀なくされたユダヤ教徒)の環境に生まれ育ったスピノザは、自身の哲学的回心から、1656年、ユダヤ教会を破門されることになる。

自身の弁明の書「シナゴーグ離脱の弁明書」を書いた後、アムステルダムを離れ、哲学の研究を続けるためにレイデン[ライデン]に移り、その郊外レインスビュルフに身を落ち着けた。
レインスビュルフでのちに「短論文」となる所説を講じ、1661年、富のむなしさに対する告発を軸とした一種の精神修業に通じる著作「知性改善論」を執筆するが、未完に終わる。そして1663年「デカルトの哲学原理」を書く一方で、それまでの教師的、講釈的な仕事とは別の領域に移ることになる「エチカ」の執筆に取り掛かる。

1663年、デン・ハーフ[ハーグ]郊外のフォールスビュルフに居を移す。
友人たちの間で読まれていた「エチカ」について、スピノザは、その思想を外部の人間に対しては秘密にしてくれるように頼んでいる。





当時、オランダは、独立闘争を題目に戦争政策を主張し、オランイェ家の政治的野心や中央集権国家の形成と結びついていたカルヴァン派と、平和政策を主張し、地方分権体制や自由主義的経済の発展と結びついていた共和派との二大党派の間にいた。
君主制による感情まかせの好戦的な国家経営に反対して、自然的かつ幾何学的な方法にもとづいた共和制による国家経営を唱えていたヤン・デ・ウィットは、民衆には支持されなかった。民衆は、カルヴァン派やオランイェ家を支持し、不寛容や好戦的な題目を支持し続けた。

こうした状況の中で、スピノザは、1665年、「エチカ」を一時中断して「神学・政治論」の執筆に取りかかる。この著作で中心に据えられた問題は、
「なぜ民衆はこんなにも頑迷で理を悟ることができないのだろう」
「なぜ彼らは自身の隷属を誇りとするのだろう」
「なぜひとびとは隷属こそが自由であるかのように自身の隷属を『もとめて』闘うのだろう」
「なぜ自由をたんに勝ち取るだけでなくそれを担うことがこれほどむずかしいのだろう」
「なぜ宗教は愛と喜びをよりどころとしながら、戦争や不寛容、悪意、憎しみ、悲しみ、悔恨の念をあおりたてるのだろう」
ということだった。
1670年、匿名で発行元をドイツと偽って出版された「神学・政治論」の著者の名はたちまちつきとめられ、スピノザは激しい反駁や排斥に遭うこととなった。
■「結果=効果」の学としての哲学
「神学・政治論」は、迷妄を根底から打破しようとする企てとしての、「結果=効果」の学としての哲学の機能を、読む者に発見させずにはおかない。
ある注釈者は、この「神学・政治論」の真の独創性は、宗教を一個の結果=効果として考察した点にある、と述べている。たんに因果関係という意味でのそればかりではなしに、光学でいう効果という意味での結果として、宗教をとらえること。
すなわち、結果あるいは効果にはそれが産み出される過程があり、合理的な原因が必ずあり、そうした原因がそれを理解しないひとびとのうえにはたらいて効果を生みだす過程を(たとえば、どのようにして自然の法則が、想像力旺盛で理性的判断力にとぼしいひとびとによって[(超自然的な)しるし]として解されることになるかを)、その原因からとらえなおし、究明しなければならない、ということ。
スピノザは、レンズを−産み出される効果とその効果を生みだす法則とを明かしてくれる思惟のレンズを磨いた。

■スピノザの生涯と時代背景(2)
「エチカ」に対する牧師たちの激しい攻撃の中で、郊外で暮らすことが困難になったスピノザは、首都デン・ハーフへと移る。
戦争状態に入った当時のネーデルランドの中で沈黙を強いられたスピノザ。1672年にそれまでスピノザを擁護していたデ・ウィット兄弟が暗殺され、オランイェ派が再び権力を握る中で、「エチカ」の出版の可能性はなかった。それでも当時ヨーロッパで最も自由で寛容だったネーデルランドを離れることはなかった。






孤独が深まり、病が重くなったスピノザに対して、さまざまなひとびとが訪問した。

1673年にはプファルツ選帝侯からハイデルベルク大学の哲学正教授として招聘されるが、スピノザは断る。
既成の価値観念を転倒し、ハンマーをもって哲学する「在野の思想家」の系譜に属するスピノザの思索は、当時の情勢の最も新しい局面に向けられる。
「商業都市の市民国家において貴族制はどれほど成功の見込みがあるのだろう」
「なぜ自由主義的共和制は挫折したのだろう」
「民主制の失敗はどこにあるのだろう」
「多数者をもって、奴隷的大衆ではなしに自由なひとびとの集団とすることが、はたしてできるのだろうか」
そうしたすべての問いに突き動かされて、スピノザは「国家論」を執筆したが、民主制の章の初めまで書き進められたところで未完に終わった。

1677年2月、おそらく肺結核がもとでスピノザは死んだ。

■積極的・肯定的な生のイメージ
どのようなかたちで生きようと、また思惟しようと、つねにスピノザは積極的・肯定的な生のイメージをかかげ、ひとびとがただ甘んじて生きている見せかけだけの生に反対しつづけた。
それに甘んじているというにとどまらず、生を憎悪する人間、生を恥じている人間、生の礼讃をはびこらせている自己破滅的な人間がそこにはいて、圧制者・奴隷・聖職者・裁判官・軍人の神聖同盟をかたちづくり、たえずこの生を追いつめては、それをさいなみ、じわじわとなぶり殺しにかかり、法や掟、所有権、義務、威厳をもってそれを塗り込めよう、窒息させようとしている。
まさしく世界におけるそうした徴候をこそ、そうした全自然や人間そのものに対する裏切りをこそ、スピノザは診断したのだった。

■否定的なものの二つの源
生を辱め、破壊するすべての行為やふるまいには、すべての否定的なものには、その流れがひとつは外に向かい、ひとつは内に向かう、二つの源があるとスピノザは考える。すなわち、怨恨とやましさ、憎しみと罪責感。
「人間の根源的な二つの敵、憎しみと後悔」
この二つの源泉は人間的意識のあり方に深く根ざしており、新たな意識なしには、世界の新たなとらえ方、生への新たな欲望のあり方なしには、それを根絶しえないことを、徹底して彼はあばき、示しつづけた。スピノザは自身の感覚、実験をとおして、身をもって自身が永遠であることを確かめたのだった。





■風刺と幾何学的方法
スピノザにとって生は観念ではなく、理論の問題でもなく、それは一個のありようそのもの、すべての属性において同一の、ひとつの永遠な様態である。
そうした視点に立ってはじめて、幾何学的方法もその完全な意味を得る。 「エチカ」でスピノザは、幾何学的方法の対極に風刺[嘲笑的態度]と呼ぶものを挙げている。

風刺とは、およそひとびとの無力や苦悩になぐさみのたねを見いだすもの、軽蔑や嘲笑をこととするもの、非難や悪意、侮蔑、おとしめの念によってつちかわれるもの、ひとびとの心を打ちくだいてしまうものすべてのことである。
圧制者はひとびとのくじけた心を必要とし、心くじけたひとびと[隷属者]は圧制者を必要とする。

幾何学的方法は、もはやたんなる知的解説ではなく、講釈ではなく、創意工夫の方法である。生そのものを光学的に矯正していく方法となる。
人間がいわばねじれておかしくなっているのなら、このねじれという効果=結果は、それをその原因から幾何学的にとらえなおすことによって矯正されることであろう。

■力能/思惟→<生>
このような「エチカ」に対して、哲学は、それが思惟のうえの展開か、あるいは力能のうえの展開か、を問題にしてきた。たとえば、「属性」は力能なのか、それとも概念なのか、といった具合に。
じっさいにはただひとつ、<生>という言葉がそこにあるだけ。生は思惟を包括するが、反対にまた思惟によってしか包括[=把握]されない。
ただ思惟する者のみが、罪責感も憎しみも知らない、高い力能の生をかちえるのであり、ただ生のみが、思惟するものを開展[=説明]するということ。
スピノザにとっては、論証は「精神の眼」でみること、いっさいの虚妄や情念、死を超えてその彼方にある生を透視させる、いわば第三の眼であり、徳(ex. 謙虚・清貧・貞潔・質素)は、そのような視力を獲得するためにこそ必要とされるもの。
生を殺す禁欲的な徳ではなく、生そのものに与し、生を洞察する力能と化した徳。 第三の眼としての論証の目的は、命令することでも説得することでさえもなく、どこまでもただ、霊感を与え、目を覚めさせ、ものが視えるようにさせること、自由な視力のための望遠鏡をつくること、そのレンズを磨くことだった。






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