Spinoza: Philosophie Pratique (2)

1998.5.5
Nao

私がPolylogosのDeleuze Forum用に作っている「スピノザ−実践の哲学」のサマリーを転載していきます。
この本においてドゥルーズが解釈し、描き出すスピノザの思想は、ドゥルーズ自身の思想のエッセンスそのものでもありまして、そのような意味でお薦めの本であります。
もしこの駄文が、この本にご興味をお持ちになっていただき、実際に手に取っていただけるきっかけにでもなれば幸いです。

第二章:道徳と生態の倫理のちがいについて


■スピノザはなぜスキャンダラスだったか
スピノザ哲学の大きな理論的テーゼは、
「実体はただひとつであり、それが無限に多くの属性をもつ」
「神とはこの自然そのものであり(神すなわち自然)、いっさいの『被造物』〔森羅万象〕はそうした属性のとるさまざまな様態、すなわちこの実体の様態的変容にすぎないのだ」
であるが、このテーゼがスキャンダルを引き起こした理由は、むしろその一連の実践的なテーゼである、「意識」「価値観念」「悲しみの受動的感情」に対する三重の告発から来ている。それは、次の三つである。

■意識に対する評価の切り下げ(〔意識本位ではなしに〕思惟を評価するために)−唯物論者スピノザ

●心身並行論
<身体>という新しいモデルを提案し、「ひとは身体が何をなしうるかを知らないのだ…」「私たちは意識やそれがくだす決定について、意志やそれがもたらす結果について語り、身体を動かす方法や、身体や情念〔受動的情動〕を制する方法については無数の議論を重ねながら−そのじつ身体が何をなしうるかは知りもしていない。知らないから私たちはおしゃべりを繰り返している。」ことを告げた心身並行論。
心身並行論は、意識によって情念〔心の受動〕を制しようとする<道徳的倫理観>がこれまでその根拠としてきた原理がくつがえされてしまうところに実践的な意義がある。
●デカルト批判
だから、スピノザの身体というモデルは、心に対する身体の優位をうちたてるためではない。デカルトの「情念論」にみられる心身の逆比的相関の原則(身体が能動的にはたらけば心は受動にまわり、反対に心が能動に立てば今度は身体がはたらきをうけずにおかない)という考え方とは異なり、スピノザは、「心における能動は必然的に身体においても能動であり、身体における受動は心においても必然的に受動なのである。心身両系列のあいだには一方の他に対するいかなる優越も存在しない。」というふうにとらえる。
それによってスピノザは、私たちが身体についてもつ認識を身体が超えているのと同時に、私たちが思惟についてもつ認識を思惟が超えているということを言おうとしている。みずからの認識の所与の制約を越えた身体の力能をつかむことが私たちにもできるようになるとすれば、同じひとつの運動によって、私たちはみずからの意識の所与の制約を越えた精神の力能をつかむことができるようになるだろう。
ここにおいて、身体のもつ未知の部分とともに、それと同じくらい深い思惟のもつ無意識の部分が、発見される。これによって、意識が思惟に対してもつ価値が切り下げられ、意識本位が崩されることになる。


●意識が錯覚を起こすメカニズム=「原因の秩序」
意識はもともと錯覚を起こしやすくできている。なぜなら、意識は結果を手にするだけで、その原因は知らないからである。原因の秩序〔順序次第〕は、次のようなかたちをとる。





すべての身体または物体は延長〔私たちの物質としてのありよう〕において、すべての観念ないし精神は思惟において、それぞれの体、その観念のもつ諸部分を包摂する個々特有の構成関係をもって成り立っている。
ある体が他の体に、ある観念が他の観念に「出会う」とき、この両者の構成関係はひとつに組み合わさってさらに大きな力能をもつあらたな全体を形成することもあれば、一方が他を分解しその構成部分の結合を破壊してしまうこともありうる。
原因の秩序とは、そうした個々の構成関係すべての形成〔合一〕と解体〔分解〕の秩序であり、全自然がその無限の変容をとおしてとる秩序にほかならない。
意識をそなえた私たち人間は、どこまでもそうした合一や分解の結果を手にしているにすぎない。

●非十全な、断片的で混乱した観念としての「喜び」と「悲しみ」
それは、ある体〔身体または物体〕がこの私たちの身体と出会い、それとひとつに組み合わさるとき、ある観念がこの私たちの心と出会い、それとひとつに組み合わさるとき、私たちは喜びをおぼえる。
反対に、そうした体や観念によってこの私たち自身の結構が脅かされるとき、悲しみをおぼえる。
私たちがみずからの認識や意識の所与の秩序にとどまっているかぎり、私たちは喜びや悲しみしか、他のなんらかの体がこの私たちの身体のうえに、なんらかの観念がこの私たちの観念〔私たちの心〕のうえに引き起こす結果しか、手にすることはできない。本来の原因から切り離された結果しか、非十全な、断片的で混乱した観念しかもてない。
●三重の錯覚
幼な児は幸福であるとか、最初の人〔アダム〕は完全だったなどとは考えられない。彼らはものごとの原因も本性も知らず、ただ起きてくる出来事を意識するばかりで、その法則はつかめないままひたすら結果をこうむることを余儀なくされているために、なにごとにも一喜一憂を強いられ、その不完全さに応じた不安と不幸のうちに生きているからである。
意識が自身の不安を鎮め、アダムが自分を幸福であり完全であると思い込むことを可能にしているのは、次の三重の錯覚である。

目的因の錯覚:
結果しか手にできない意識が、ものごとの秩序〔順序〕を転倒し、結果を原因と取り違えることによって自身の無知をおぎなおうとする。
ある体がこの私たちの身体のうえに引き起こした結果を、意識は逆にそれこそが目的であり、その外部の体がまさにそのためにはたらいた当の原因〔目的因〕だったのだとし、同時のその結果の観念についても、意識はそれを自身がそのためにそうはたらいた目的因だったのだとしようとする。

自由裁量の錯覚:
そこで意識は自分が第一原因であると思うようになり、身体に対するおのれの支配力〔権力〕にその根拠をもとめるようになる。






神学的錯覚:
そして、もはや自分が第一原因であるとも、こうなるようにと自分が意図したのだとも想像することができない局面では、意識はその根拠を神に、−知性と意志をそなえた神、目的因や自由裁量を駆使して、人間に報いとしての賞罰に応じた世を用意している神に、もとめることになる。

意識がこの三つの錯覚をいだくというよりも、この三つの錯覚と結びつき、その錯覚のうえに意識が成立している。意識は、目を見開いたまま見ている夢にすぎない。

●実質的な欲望の定義
欲望は「自意識をともなった衝動」であると定義できるが、それはあくまでも名目的な定義にすぎない。むしろ、意識をともなおうとともなうまいと、衝動であることに変わりはない、そのような衝動としての欲望。
私たちは、あるものがいいと判断するから〔意識〕それをもとめる〔努力・意欲・衝動・欲望〕のではない。反対に、私たちはあるものをもとめているからこそ、それがいいと判断するのである。
この衝動の過程で意識が穿たれ、意識の「原因」をも同時に示すような実質的な欲望の定義に到達しなければならない。

●コナトゥスとアフェクチオ
ところが、私たちには、自己存続の努力(コナトゥス)がある。すべてのものは、身体や物体であれば延長において、心あるいは観念であれば思惟において、どこまでもそれが存在するかぎりその存在に固執し、それを保持しようとしつづける。
しかしながら、コナトゥスのありようは、私たちがつねに同じ存在にとどまるところから生じた、あらかじめ決まった、同じものではない。
コナトゥスは、出会ったその対象に応じて、さまざまにことなった行動に私たちを駆り立てる。あるいは、私たちがある対象に触発されるごとに、その対象が私たちに引き起こす変様(アフェクチオ)によって、コナトゥスのありようは、そのつど決定されている。
したがって、コナトゥスに意識が生じる本来の原因であるべきものは、このアフェクチオである。

●喜び/悲しみ→意識
意識は、他の体や観念との交渉のなかで、私たちのコナトゥスが受けるさまざまな変動や決定を物語っている。
出会いの相手が私たちとひとつに組み合わさるか、それとも反対にこの私たちを分解してしまうようなものであるのか。
出会うことにより、より大きな完全性へと私たちを移行させるのか、より小さな完全性へと私たちを移行させるのか。
私の本性と合う対象に出会うことにより、それ自身と私の両者をともに含む高次の全体を形作るようにさせるものなのか、私の本性に合わない対象により、この私自身の結合を危うくさせ、私という集合体を部分へと解体したり、ときには死をもたらすようなものなのか。
このような喜び/悲しみの状態の推移の感情として、その連続的な起伏として、どこまでも過渡的なものとして現れるのが、意識である。
だから意識は、<全体>それ自体の特性ではなく、その混乱した断片的な情報でしかない。





■いっさいの価値、とりわけ善悪に対する評価の切り下げ(〔道徳的善悪ではなしに〕「いい」「わるい」を評価するために)−反道徳者スピノザ

●アダムの思い込み
不安でもあり無知でもあるアダムは、「おまえはこの木の実を食べてはいけない…」という神のことばを禁止命令として受け取る。しかし、これは実は禁止命令ではない。
アダムがその木の実と出会うと、その木の実が、アダムの身体を構成している諸部分や、心を構成している諸部分を、それまでのアダムに固有の本質にはもはや対応しないような、あらたな構成関係のもとにはいるようにさせるであろう。
それが、それまでのアダムにとっては毒となるのである。
この場合、神は道徳的になにかを禁じているのではない。ただたんに、その木の実を食べると、それがアダムにとって毒となるよ、ということを啓示しているだけである。
しかし、原因について無知なアダムは、それを禁止命令と思い込んでしまう。

●<善><悪>があるのではなく、<いい><わるい>があるだけ
一般に私たちが<悪>〔悪しきこと〕としてとらえている現象は、病や死も含めて、すべてがこのアダムの話のようなタイプの現象、すなわち、それまでの構成関係の分解にほかならない。
たとえ身体と毒とが結合するような場合であっても、それは、それぞれの秩序に応じて複合・合一をとげる各個の構成関係のすがたがあるだけである。あらかじめ決まった<善>や<悪>があるのではなく、それぞれの場合に応じた個々の具体的な<いい><わるい>があるだけである。
<いい>とは、ある体がこの私たちの身体と直接的に構成関係の合一をみて、その力能の一部もしくは全部が私たち自身の力能を増大させるような出会い。
<わるい>とは、ある体がこの私たちの身体の構成関係を分解し、その部分と結合はしても私たち自身の本質に対応するそれとは別の構成関係のもとにはいっていってしまうような出会い。
<いい><わるい>は、私たちに合うもの・合わないものという、客体的、相対的、部分的な意味にすぎない。

●人間自身の生の二つのタイプ
あるいは、この意味から派生して、<よい><わるい>は、スピノザにおいて、人間自身の生の二つのタイプ、二つのありようを形容する主体的、様態的な意味も持つようになる。
<いい>といわれるのは、自分のできるかぎり出会いを組織立て、いずからの本性と合うものと結び、みずからの構成関係がそれと結合可能な他の構成関係と組み合わさるよう努めることによって、自己の力能を増大させようとする人間。
<わるい>といわれるのは、ただ行き当たりばったりに出会いを生き、その結果を受け止めるばかりで、それが裏目にでたり自身の無力を思い知らされるたびに、嘆いたりうらんだりしている人間。





強引に、あるいは小手先で、なんとか切り抜けられると考えて、相手も構わず、それがどんな構成関係かもおかまいなしに、ただやみくもに出会いを重ねているだけでは、いい出会いを多くし、悪い出会いを少なくすることはできない。

●<モラル>〔道徳〕ではなく<エチカ>〔生態の倫理〕
モラルは、つねに超越的な価値にてらして生のありようをとらえるもの。神の裁きや、審判の体制。
エチカは、どこまでも内在的に生それ事態のありように則し、それをタイプとしてとらえる類型理解(タイポロジー)の方法。審判の体制そのものをひっくりかえすもの。
(ちょうどアダムの思い込みのように)原因や法則はもちろん、各個の構成関係やその合一・形成についても何ひとつ知らず、ただその結果を待つこと、結果を手にすることに甘んじている意識は、自然を理解できず、それゆえ、簡単に物事を道徳にしてしまう。法則が、あるいは自然の永遠の真理が、たちまち「・・・すべし」というかたちをとって、道徳の禁止命令として現れてきてしまう。

●<命令>に対する<服従>の関係と、<認識されるもの〔真理〕>に対する<認識>の関係
道徳的な法とは、なすべきこと・あるべきこと〔義務・本分・当為〕であり、服従以外の何の効果も、目的も持たない。
そうした服従が必要不可欠であったり、十分根拠のあるもっともなものである場合もあるだろうが、いずれにせよ、それは、私たちになんら認識をもたらさず、何も理解させてくれない。
最悪の場合には、それは認識の形成そのものを妨げ(圧制者の法)、最善の場合でも、ただたんに認識を準備し、それを可能ならしめるにすぎない(アブラハムの法・キリストの法)。この両者の間で、一般に法は、認識するだけの力を持たないひとびとのもとで、認識の不足を補う役割を果たしている(モーゼの法)。
これらの<命令>に対する<服従>の関係と、<認識されるもの〔真理〕>に対する<認識>の関係とは、本性上ことなるものである。
自然の永遠の真理と、〔人間の設けた〕制度としての道徳的な法という、二つの領域は区別されなければならない。

●法=超越的な権威/認識=内在的な力能
神学は、ともかくも聖書に書かれていることが認識の基盤であるという考え方に立ち、そこから道徳的・超越的な創造者としての神の想定も出てくる。これは、存在論全体に禍をおよぼすことになる混同を胚胎している。
命令/理解されるべきこと、服従/認識それ自体、<存在>〔(かく)ある〕/<神の意志>〔(かく)あれ〕を混同してきた長い錯誤の歴史。
法は、どこまでも価値の善悪をめぐる対立を決定する超越的な権威であり、認識は、どこまでも、ありようの<いい><わるい>をめぐる質的な差異を決定する内在的な力能である。





■いっさいの「悲しみの受動的感情」に対する評価の切り下げ(喜びを評価するために)−無神論者スピノザ

●三種類の人物
スピノザは、その著作を通じて、三種類の人物を告発しつづける。すなわち、

・悲しみの受動的感情にとらわれた人間=奴隷〔隷属者〕
・悲しみの受動的感情を利用し、それを自己の権力基盤として必要としている人間=暴君〔圧制者〕
・人間の条件や人間のそうした煩悩としての受動的感情一般を悲しむ人間=聖職者

隷属者と圧制者とのあいだには、深い暗黙のきずながある。悲しみの受動的感情は、際限ない欲望と内心の不安、貪欲と迷信がひとつに結びついた観念複合体にほかならない。
圧制者はそれを成功させるためにひとびとの悲しみを必要とし、悲しみに心をとらえられたひとびとはそれを助成しその輪を広げるために圧制者を必要とする。
この両者を結びつけているのは生に対する憎しみ〔嫌悪〕、生に対する怨恨の念である。
「エチカ」において描かれている、あらゆる幸福がその眼には侮辱としてうつり、ただひたすらみじめさや無力感をおのれの情念として生きている怨恨の人の肖像−。
●「生」の哲学
スピノザは、私たちを生から切り離すいっさいのものを、私たちの意識の制約や錯覚と結びついて生に敵対するいっさいの超越的価値を告発する。
私たちの生は、善悪、功罪、罪とその贖いといった概念によって毒されている。
生を毒しているものは憎しみであり、この憎しみが反転して自己のうえに向けられた罪責感である。

一連の悲しみの受動的感情がかたちづくる恐るべき連鎖をスピノザは徹底的に分析する。
悲しみそれ自体、憎しみ、反発、嘲り、恐れ、絶望、良心の呵責、憐れみ、敵意、妬み、卑下、失意、自卑、恥辱、未練、怒り、復讐心・・・。そして、希望や安堵のうちにさえ、それを隷属的感情とする悲しみの種子が含まれていることをえぐりだす。それゆえ、真の国家は国民に、褒賞への希望や財産の安全よりも、自由への愛を提供するものだとスピノザは考える。善行の褒賞は自由人に対してではなく、隷属者に対してこそ与えられるからである。

このように、スピノザは、ニーチェに先立って、生に対するいっさいの歪曲を、生をその名のもとにおとしめるいっさいの価値観念を告発する。





●触発=変様〔アフェクチオ〕の理論
一個の個体は、まずひとつの個的・特異的な本質、すなわちひとつの力能の度〔強度〕である。
この本質にはその個体特有の一定の構成関係が対応し、その力能の度にはその個体がとりうる一定の変様能力が対応している。
この構成関係は外延的諸部分を包摂し、この変様能力はその個体が触発に応じてとるもろもろの変様〔アフェクチオ〕によって必然的に満たされる。

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外延〔extention〕
概念の適用される事物の範囲。たとえば一切の動物は動物という概念の外延。 これに対して、動物にとって本質的な、あらゆる動物に共通な徴表の総体は、この概念の内包〔intension〕といわれる。
たとえば、動物の概念とくらべると脊椎動物の概念は内包が増すかわりに外延が狭くなる。哺乳類はさらに内包が増し外延が狭くなる。
(「岩波哲学小辞典」 p.27)
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たとえば動物の場合、種や類といった抽象的な概念によるよりはむしろ、それら個々の動物のもつ変様能力によって、それらが触発に応じてどのような変様をとげることが「できる」か、その持てる力能の限界内でどのような刺激に対して反応するか、によって定義される。

類や種による、超越的規範にもとづくとらえ方には、まだ「道徳的」な視点が含まれている。
これに対して、『エチカ』とはまさにエトロジー〔動物行動学、生態学〕。これは、どんな場合にもただ触発に対する変様能力から人間や動物をとらえようとする考え方。

●能動/受動
このエトロジーの観点から、人間について、二種類の変様が区別される。それは、能動〔能動的変様〕と受動〔受動的変様〕。

能動とは、触発をとおして変様するその当の個体自身の本性から説明されるような、その個体の本質に由来する変様。その個体の持つ変様能力は、能動的変様によってみたされていると考えられるかぎりは、「みずからにはたらく力能」〔能動の力能、活動力〕として現れる。

受動とは、その個体と出会う他のものから説明されるような、外部に由来する変様。その個体の持つ変様能力は、受動的変様によってみたされていると考えられるかぎりは、「はたらきを受ける力能」〔受動の力能、感応力〕として現れる。

受動は、この私たちを私たち自身の活動力能から切り離し、私たちをこの力能から離れさせたままで、私たちの変様能力を満たすところにあるが、さらに受動にも、二種類が区別される。





●悲しみの受動/喜びの受動
私たちが自身の体と適合・一致をみない外部の物体や身体、その構成関係が私たちのそれとはひとつに組み合わさらないような体と出会ったときには、相手の体の力能がこの私たちの力能に敵対し、私たちの力能をマイナスや固定化にはたらくかたちとなる。この場合、私たちの活動力能は減少するか阻害される。これが悲しみの受動。

私たちが自身の本性と適合・一致をみる体と出会い、その構成関係が私たちのそれとひとつに組み合わさるときは、相手の力能がこの私たち自身の力能にプラスされるかたちとなる。この場合、私たちの活動力能は増大するか促進される。これが喜びの受動。
喜びの受動はまだ外部にその原因を持ち、みずからの能動的な活動力能から切り離されているにとどまっているので受動ではあるが、能動に向けた質転換の起る地点に近づく一歩となる。

●「エチカ」の実践的な問題
触発=変様の理論を通じて、悲しみの受動とは何かが、このようにして解明された。 この私たちの力能の最も低い度合、最大限にみずからの能動動的な活動力能から切り離された状態、最大限に自己疎外され、迷信的妄想や圧制者のまやかしにとらわれた状態。
このような悲しみの受動から解放されるために、喜びが、喜びの倫理が、求められる。それゆえ、「エチカ」の実践的な問題は、次のような三重のものとなる。

(1) (自然において私たちの置かれた境遇からは、悪しき出会いや悲しみを余儀なくされているようにみえる中で)いかにして最大限の喜びの受動に達するか、またさらにそこから自由で能動的な感情へと移行するか?
(2) (自然的条件からすれば、私たちは自身の身体や精神についても他のものについても、非十全な観念しかもてない運命にあるようにみえるのに)この能動的な感情を生じさせることを可能にする十全な観念をいかにして形成するにいたるか?

(3) (私たちの意識は、分かちがたく錯覚と結びついているようにみえるのに)いかにしておのれ自身や神および他のすべてのものを自覚するまでになるか?

「エチカ」の根幹をなす、実体の唯一性、属性の一義性、神の内在性、すべての存在の普遍的必然性、心身並行論などは、意識、価値観念、悲しみの受動的感情をめぐるこの三つの実践的テーゼと不可分に結びついている。

一連の定義・命題・証明・系の連続的な流れにより思考の厳密さをよりどころに展開される思弁的テーゼと、一連の備考の不連続的な連鎖を通して、告発と解放に向けて立てられる実践的テーゼとによって書かれている「エチカ」。
そのすべての道は内在に徹するところに切り開かれる。内在とは無意識そのものであり、同時にその無意識を克服すること。生態の倫理〔エチカ〕における喜びは、思弁における肯定と相関している。

INDEX

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