誤謬の伝統的な概念(精神における外的規定の産物としての誤謬)に対して、カントは、疑似問題ならびに内的錯覚の概念を置き換える。これらの錯覚は不可避的であり、理性の本性から結集するとさえ、いわれうるのである。「批判」がなしうるすべてのことは、認識そのものに及ぼす錯覚の諸結果を祓いのけることだけであって、認識能力のうちに錯覚が形成されることを防ぐことはできない。

(G.ドゥルーズ 「カントの批評哲学」 法政大学出版局 39p)


美の感覚の発生は、いかなる様相を呈するか。 自然の自由な素材、例えば色彩・音響といったものは、単に悟性の規定された諸概念に対応することには尽きないもののように思われる。それらは悟性をはみ出し、概念のなかに含まれるよりあるかに多くのものごとを「考えさせる」。

例えば、われわれは色彩を、これに直接充当される悟性概念にのみ関係づけるだけでなく、全く別の概念へと関係づける。この概念は、それ自身としては直接対象をもっていないが、直観対象との類比によって、おのれの対象を措定するが故に、かの悟性概念と似たものとなる。この別の概念とは理性の「理念」であって、これがかの悟性概念に似ているのは、ひたすら反省の観点からでしかない。

こうして白い百合は、単に色彩と花の概念に関係づけられるだけではなく、純粋な無垢という「理念」を喚起するのである。そしてこの理念の対象は、百合の花の白さの(反省的な)相似物でしかないのだ。「諸理念」が自然の自由な素材における間接的呈示の対象であるという事情は、以上の通りである。この間接的呈示は象徴作用と呼ばれ、美的なものへの関心を規準としているのである。

この結果、二つの帰結が生ずる。つまり、悟性はみずから、おのれの諸概念が無制限な仕方で拡張されるのを見、想像力は図式機能においてはまだ服属していた悟性の拘束力から解放されて、自由に形態を反省することができるようになる。したがって自由なものとしての想像力と、無限定なものとしての悟性との一致は、美的なものへの関心によっていわば駆り立てられ、活気づけられ、産出されるのである。

(G.ドゥルーズ 「カントの批評哲学」 法政大学出版局 86p)