ライブ回想年表

MICAババの昔話聞いてくれるかのう。
1993年(スンダリ元年)から2002年(スンダリ10年)までの、
ババの怒涛の10年史じゃ。ホホ、こそばゆいノウ。

1994年  1995年  1996年  1997年
1998年  1999年  2000年  2001年
2002年

1993年(スンダリ元年)


3月 第1回ネパール旅行 スンダリバンド結成
  3月 スンダリバンド 初ライブ in 上野水上音楽堂
   5月 初営業 in さいか屋(横須賀)
      9月 自主公演ライブ なにもないにちようび vol.1 (東京・久我山会館)
       11月 千葉ららポート ゲストライブ 写真展の余興の一つとして参加

                         
                         1993年の回想録

この年は、今思えば人生の転機じゃったのう。なんでネパールに行くことになったのかといえば、失恋が切っ掛けじゃったともいえるし、たまたまインドが危険な時期じゃったから行き先変更しただけ、とも言えるしのう。(しかし、のちにこれは『行くべきして行くことになった』と悟る日が来るのじゃった。)帰国直後の3月の上野公園で『レッサンフィリリ』を披露したのが、記念すべきスンダリMICA初舞台になったのじゃった。この時から今まで、ワシの知る限り、日本人のおなごでネパールの歌を歌うプログラムを定期的にしているのは、スンダリMICA以外おらんと思う。何を好きこのんで、、、、、まったく物好きな日本人もおったもんじゃのう。ふぉ、ふぉ、ふぉ。ワシがボイストレーナーと一緒にボーカルのレッスンを始めたのもちょうどこの頃。1992年の12月からじゃった。以来、足かけ8年間にわたったノウ。先生元気にしておるかのう。9月に初の自主公演。この時のメンバーは、おなごばかり5人じゃった。それでバンド名がスンダリバンドだったというのは有名な話じゃ。その後、『スンダリバンド』としてイベントの依頼が増えたのはまったく驚いたことじゃった。他に代わりがないというのは恐ろしいことじゃ。11月のららポートのイベントに出演したときに、かのインドラ・グルン氏と同じ舞台をふんでいたことは、語り草じゃ。その後、7年の月日を経て2001年にもう一度共演したのじゃが。

1994年 (MICA婆ちゃんトップに戻る)


2月 第2回ネパール旅行
旅行中にラジオネパール のど自慢番組(チョウタリ)出演
7月 ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト・オブ・ジャパン(HAT-J)
主催の清掃登山 前夜祭の余興に スンダリバンドとして参加

                         
                         1994年の回想録

二度目の旅行からはネパール人の友達の家にホームステイしていたのう。思えば婆ちゃんは始めての旅行以外、ゲストハウスで過ごしたことないんじゃ。(ポカラに行ったときは別じゃが)こんときは日本の家族にめっちゃ反対されての一人旅行じゃったなあ。(今でも家族は婆ちゃんのことを白い目で見ておるがのう。)この旅行中に、ラジオネパールの人気番組「チョウタリ」(素人のど自慢みたいなもんじゃ)に飛び入り出演したことがあるんじゃが、ラジオから婆ちゃんの歌が聞こえてきたときには、感動したもんじゃ。ネパールでの記念すべきマスメディアデビューじゃ。その後2001年12月31日にもFMラジオの年越し記念番組で、再びラジオ登場しておるがの。ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト・オブ・ジャパンというのは、かの田部井淳子氏が率いる、山の環境保護を守る活動をしている団体じゃ。この頃はスンダリバンドが本格的に活動する前の黎明期じゃね。この年卒業を見送って、大学を自主留年しておるんじゃが、12月に書き上げた卒論のタイトルは「ネパール社会における芸能の持つ役割と機能」じゃった。 文学部西洋文化専修に籍をおきながら、こんな卒論を書いたことを今でも誇りに思っておる。指導教授の安藤先生に感謝じゃ。

1995年 (MICA婆ちゃんトップに戻る)


 2月 自主公演ライブ なにもないにちようび vol.2(久我山会館)
2月 第3回ネパール旅行
この頃新しいメンバーと入れ替わる。

     10月 第1回ライブスナック「みやじ」ライブ(祐天寺)

                         
                         1995年の回想録

2月にやった第2回目の自主コンサートは、急遽チャリティーコンサートにしたのじゃった。1月関西で大地震があり、日本がまさに大きく揺れた年じゃった。婆ちゃんは2月にネパールに行くことを決めておったので、この時の入場料収益を半分はネパールに持って行き、半分はメンバーの一人が神戸に持っていったのじゃった。(彼はそこで1週間ほどボランティアで仕事をしてきたんじゃ)ネパールから帰ってきて新しいメンバー募集を開始。人の出入りが激しい年あけじゃった。新しいメンバーを迎え練習を重ねる。この頃は、コンピューターのプログラミングを併用してバンドサウンドを作っておった。「打ち込み」ってやつじゃね。新メンバーによる初ライブは10月の「みやじ」ライブ。この頃は「スンダリバンド」はネパールの音楽をやるときのバンド名、それ以外の曲、オリジナルの楽曲をやるときには「ハルモニア」というバンド名を使い分けておったのう。ハルモニア……なつかしー。。。。今度日本に帰ってバンドをやるときにはいつかこの名前をもう一回つけたいなあ、なぞと思う婆ちゃんじゃった。この頃は、バンドのノリ的には大学のサークルの延長のような感じじゃった。みんなでやることが楽しかった、という感じじゃね。

1996年 (MICA婆ちゃんトップに戻る)


 1月 第2回みやじライブ
3月 第3回みやじライブ
4月 自主公演ライブ なにもないにちようび vol.3(久我山会館)
7月 文房堂ギャラリーライブ(東京・神保町)
8月 伊豆諸島 御蔵島村夏祭 盆踊りライブ
11月 日比谷公園屋外小音楽堂ライブ

                         
                         1996年の回想録

この年はもっとも活動が盛んな年じゃったねえ。自主公演も3回目を数え、この年の観客動員は160人じゃった。立ち見も出ておったノウ。このコンサートの収益でバンドのバンクも作ったんじゃ。一番大きなイベントといえば、伊豆の御蔵島という人口200人ほどの小さな島で出張コンサートをやったことかのう。これは婆ちゃんが村人に掛け合って、おしかけるようにして企画したコンサートじゃったが。(婆ちゃんは御蔵島に94年から毎年夏に通っておったのじゃ。この島のまわりには野生のイルカがおって、一緒に泳ぐことができることで有名なんじゃ)日比谷公園小音楽堂でコンサートをやったとき、ちょうど同じ日に大音楽堂の方で鶴久正治氏がコンサートをしておったのじゃが、開演前の祝電が間違って届いたことがある。……いくらなんでも。そりゃ鶴久さんに失礼だって。この年の12月、スンダリバンドの発足当時からの主要メンバーが電撃脱退する。それからじわじわとバンド内の人間関係が乱れはじめるようになるんじゃが、まあ、今じゃから「思い出」として回想できるが、この時から約半年間は、婆ちゃんにとって一番苦しかった時期じゃね。

1997年 (MICA婆ちゃんトップに戻る)


4月 4周年記念ライブ with コンワンバーin NGOMA(小金井)
6月 自主公演ライブ なにもないにちようび VOL.4(上野水上音楽堂)

MICAバンド活動に力尽き、第一次 スンダリバンド解散

   7月 新生スンダリメンバーで出版社の出版記念パーティーの余興として参加
     10月 新生スンダリバンド誕生記念コンサート in 冬青社(中野)

10月 第4回ネパール旅行
カトマンズ・ポカラにて ミニライブ


    11月 新生スンダリバンド 第2弾ライブin NGOMA(小金井)

                         
                         1997年の回想録

6月の第4回自主公演を最後に、婆ちゃんは一度スンダリバンドを解散したのじゃった。自分で始めたことなので、自分で終わりにするしかなかったのじゃ。マジ、バンドって人間関係がいちばんのストレスじゃよ。この年から今後はいっさいの音をナマ音に移行していこうと決意。コンピューターでの音作りはこの6月で最後になる。この年の4月頃じゃったか。沖縄の三線の教室に入って、三線を習い始めた。三線はあんまり上達しなかったんじゃが、サークル活動のような教室が楽しくて結構気が紛れたもんじゃ。この教室には結局1999年の7月まで通ったのう。婆ちゃんはネパールに触れ、沖縄に目覚めたのじゃった。7月に新しいメンバーを迎えてバンドを再結成するのじゃが、11月のライブでメンバーによる「本番ぶっちぎり事件」に大激怒した婆ちゃんは、またしてもその不届き者を解雇!以来、二度とワシの目の前に現れるでないといいわたす。……アア、もうこの頃の話はやめよう。もうバンドはやだ。もう疲れた。と思い始める年じゃった。

1998年 (MICA婆ちゃんトップに戻る)


何かしらやったはずじゃが、記録が残っていないため、詳細省略。
この時期はスンダリMICAいろいろ悩める時期であったのじゃ。
メンバーもかなり出入りの激しい時期で、あんまし思い出したくない灰色の時代。
出版社の出版記念パーティーとかネパール人の集まりで歌ったと思うんじゃが。よう覚えてないんじゃ。

    この頃翌年のネパール行きを本格的に決意する。

                         
                         1998年の回想録

このまま日本でネパールの音楽を追求したところでどうなるもんでもないじゃーないか。いっそネパールに行ってしまおう。……と考え始め、準備を始めた年じゃった。この時期はほとんど何をしていたか思い出せない。頼まれて歌をうたいに行ったこともあったと思うが、どこでどんなイベントにでておったのか、覚えていない。封印された過去じゃ。

1999年 (MICA婆ちゃんトップに戻る)


4月 エスニックガールズバンド「娘18 番茶も出花ライブ」in 冬青社(中野)
    6月 スンダリバンド「いってらっしゃいネパールライブ」 in 冬青社(中野)

   7月 ネパール留学のためネパールに渡る

  9月  ネパール初ゲストライブ in ロイヤルアカデミー(カトマンズ)
11月  ゲストライブ in ロシアンカルチャー(カトマンズ)
12月  ゲストライブ in ロイヤルアカデミー(カトマンズ)

                         
                       1999年の回想録

ついにネパールにわたったMICA婆ちゃん。期待に胸を膨らませてネパールに渡ったまでは良かったのだが、、、、、というナレーションが聞こえてきそうな年じゃ。トリブバン大学・ビソバサキャンパス・ネパール語1年生に在籍しつつ、マーダルはヌッチェ先生、歌はミララナ先生のもとで毎週2回お稽古しておった。大きなイベントに何回か出させてもらったのじゃが、いやはや、ネパールのイベントの進め方は、日本の中学校の学芸会のようじゃ。どどど、どうしてそういうこと、前もって決めておかないのですか????と、目が点になってしまうことばっかり、、、、、。この年は、あらためて相当カルチャーショックを受けたのう。そこで婆ちゃんは思った「よっしゃ、婆ちゃんがイベントを企画しちゃる」……この熱い思いがそもそもの間違いじゃった、ということはすっかり使命感に燃えたぎっているMICA婆ちゃんには気づくよしもなかったのじゃった。。。。。。

2000年 (MICA婆ちゃんトップに戻る)


2月  インド公演ゲストライブ in ゴラクプール(インド)
8月  スンダリMICA 初自主公演ライブ「パラダイス・ホリデー」 in ナッチェガーラ(カトマンズ)

10月 体力・気力・金すべて尽き、やむなく一時帰国
この後、約7カ月に渡る出稼ぎ労働生活に入る。

                         
                         2000年の回想録

勢いで始めてしまった自主公演じゃったけど、今にして思えば、本当に、どうして最後までやり遂げられたのか不思議じゃ。一緒に企画立案したときの友人たちが、本番を待たず次々帰国してしまったのはまったくの誤算じゃったが、婆ちゃんは負けず嫌いじゃったから、「ごめーん、やっぱやめる」っていえんかったんじゃねえ。観客動員数は約400名(推定)、総スタッフ数約60名。うち日本人6名。うち出演者3名。もちろんその中の一人がワシじゃ。約半年間の準備期間を経て8月の本番を迎えたあと、婆ちゃんは力尽きた。ジョーが真っ白に燃え尽きたようにな。そして、再起不能のウツウツ地獄に突入ーしてしまったのじゃ。そんでワシは這う這うの体で日本に帰ったのじゃった。それからは、しがない出稼ぎ日本人としてひっそりと暮らしておったのじゃが、、、、、(つづく?)

2001年 (MICA婆ちゃんトップに戻る)


2月 ライブ禁断症状発病、危険な状態に
治療のため自主公演を企画

3月  一時帰国ゲストライブ in にんにく屋(日本・渋谷)
   4月  自主公演 凱旋ワンマンライブ in クマリレストラン(日本・五反田)
   4月  ゲスト出演「ドソロ シムシメ サンザ」参加 in 池上会館(日本・大田区)

5月 出稼ぎ重労働生活のひずみ。腰痛を発症。以後持病に苦しむ。
6月10日 国王殺害事件に揺れるネパールに
再起をかけて渡る


    8月 カトマンズ大学音楽科(バクタプル)に入学。ネワールの打楽器《ディメ》を習いはじめる。 
10月15日 コリアン・レストラン・ライブ (タメル)
12月24日 コリアン・レストラン・クリスマスライブ (タメル)
12月31日 HBCFM年越し番組出演 (カマルポカリ)

                         
                         2001年の回想録

……やっぱり婆ちゃんはライブやらんとますます精神が衰弱するみたいじゃ。2000年8月のライブのあと、約半年後、ついに「ライブで歌いたい病」が発症!仕事と家の往復だけの虚しい日々の積み重ねで、すっかり婆ちゃんは惚けてしまったのじゃったが、婆ちゃんは再起をかけてライブを企画したのじゃった。その名も「スンダリMICAの里帰り大歌合戦」。ライブ当日、婆ちゃんはお客さんの前で歌えることが本当に嬉しくてラストソングでは泣いたねえ。この他にも、インドラ・グルン氏の企画したライブで共演、バンスリ奏者のタンカさんの誘いでイベント出演など、2001年はまさにスンダリMICAとして華々しいスタートを切った年じゃった。王様の事件で揺れるネパールに帰ってきてからは、自分のライブ活動を進める一方で、大学ではネワール族の伝統的打楽器《ディメ》を習い始めたりと、新しいことにもチャレンジしたもんじゃ。婆ちゃん専用のバンドがみつかるまでは長い道のりじゃったが、2001年の終わりにやっと専属バンドも見つかった。婆ちゃんの野望は、一気に「アルバムが欲しいナー」へと登り詰める。2002年は果たしてどんな年になるんじゃろう。期待に胸が膨らむノウ。

2002年(スンダリ拾年) (MICA婆ちゃんトップに戻る)


1月17日 HBCFM「アルバリカ・フルハル」番組出演 
1月24日 コリアン・レストラン・ライブ(タメル)
4月6日 コリアン・レストラン・ライブ(タメル)(予定)

 
2002年の回想録
まだわからんもんね。

2003年 (MICA婆ちゃんトップに戻る)

2003年3月は「スンダリMICA誕生10周年」だ。
なんとかこの頃(年)までにはオリジナルアルバムが欲しいものだ。

……スンダリMICAの明日はどっちだ?

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